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進路選択 《短編小説》

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 地味だ、と亜子は思った。
 人気のない校門に少し寂れた白い校舎。門の柵の隙間から見える庭は綺麗に整えられているが、それがまた不自然に感じられる。日曜日の昼間だから、誰もいなくて当然なのだろうか。さっきまでいた大通りは賑やかだったのに、ここはやけに静かで、亜子は少し変な気分になった。
 休日のこんな時間に、家から電車で三十分かかるこの学校の前に来たのには、亜子なりの理由があった。秋に誕生日を迎えれば十五になる彼女は、そろそろ進学する高校を決めなければいけない。亜子には学びたい、という意欲があったし、就職は親に反対されたので、高校進学を考えていた。
 そう、ここは亜子が今、第一志望にしようかと考えている学校の前である。
 本当なら、オープンキャンパスや学校見学の日に来るべきなのだが、買い物で近くまで来た亜子は興味本位で寄り道をすることにした。
「誰もいない……」
 錆びた柵を掴み、頬をぴたりとつけると、鉄の匂いが鼻腔を擽る。日照りに熱くなった頬を、冷たい柵が急速に冷やしていった。
「そりゃそうか」
 亜子は柵を放し、くるりと回れ右をする。と、その時、思いがけず現れた人影にぶつかり、彼女はよろけてさっき放したばかりの再び柵を掴んだ。
「わ、すみません!」
「いいえ、私が気づかなくて……」
 亜子は体制をを整え、相手の顔を見る。そして意外な人物に目を見開いた。
「え、芳田先生?」
 まだ若いはずなのに、くっきり入ったほうれい線、やや色素の薄い髪と瞳、無理に虚勢を張るかのように胸を突き出す姿勢。休みの日でもスーツを着ているという噂は本当だったようだ。この暑い日に、ご丁寧にしっかりとネクタイを締めている。いつもと何も変わりない、紺のネクタイ。
 休日なのだから、ネクタイぐらい派手なものにしてもいいのに。亜子はそう思いながらクスリと笑った。
「あれ、葉山。何してるんだ? こんなところで」
 そう言いながら、芳田は亜子の後ろの校舎を見つけて首を傾げる。
「A高等学校……?」
 芳田は亜子と校舎を交互に眺め、再び首を傾げた。その姿を見てまた亜子は笑う。
「私、第一志望ここにしようかと思ってるんです。通信だから通うことはないかもしれないけど、一応雰囲気を知っておきたいし」
 亜子は芳田の横に並び、校舎を見上げる。
「えっ?」
 芳田が亜子の方を見るが、彼女は気づいていないのか校舎を見上げまま、少し口角を上げた。
「どうして」
「どうして?」
 亜子はまだ校舎を見ている。厚い雲が太陽を隠し、さっきまで熱かった空気が次第に冷えていく。
「向いてると思ったんです。私に」
「どこが」
「どこが?」
 さっきと同じように、亜子は芳田の言葉を繰り返した。
「家で、好きな時間に好きな教科を、好きな量勉強できるところです。元々私は学校で皆んな同じペースで勉強するのが苦手で……先に進みすぎたり、遅れたり。自分のペースでできるのって、素敵だと思いませんか?」
 亜子が芳田を見上げると、芳田は少し困惑した様子で目を逸らした。
「先生?」
「でも……葉山は成績もいいし、何も通信制に進学しなくてもどこにでも行けると思うぞ」
 彼の言葉に、亜子は少し眉を寄せる。
「A高等学校は受験もない。偏差値は公表されてないが恐らく高くはないし、それに、将来仕事に就こうと思った時、学歴のところに“通信制高校卒業”と書かれるんだぞ」
 思ったよりも大きな雲だったのだろうか、まだ太陽は隠れたままで、冷めた空気が二人の間をすり抜けていく。
「大学進学にも向いてない。絶対、普通校の方が」
「……絶対」
 暫く黙っていた亜子が小さく口を開いた。
 芳田が校舎から亜子に視線を移し、二人の視線がぶつかる。
「絶対?」
「え?」
 少し睨むように芳田を見つめた後、亜子は下を向いて少しだけ笑った。
「葉山?」
「断言しないでください。絶対なんて存在しないんですから」
 亜子は芳田の横から離れ、校舎の周りを歩き始める。戸惑う芳田を無視し、声がギリギリ届く距離まで離れてから振り返り、首を少し傾けた。
「先生! そこからここまで、何メートルだと思いますか?」
 芳田はなぜ彼女が急にそんな質問をするのかわからないまま、亜子がいる位置までの距離を推測する。
「理科の教師を舐めるなよ。……八メートル」
「絶対ですか?」
 芳田は頭を掻いて笑った。そして、また先に進もうとする亜子を早歩きで追う。
「先生! 誕生日っていつでしたっけ?」
 動きやすいデニムの短パンと、明るい黄緑の半袖。某有名メーカーのスニーカーに、小さなポシェットを肩にかけた彼女は、明らかに、スーツを着込んだ芳田よりも身軽で、鼻歌でも歌い出しそうなステップで芳田から遠ざかっていく。
「誕生日? えっと……十二月だよ。十二月五日」
 少し息を切らしながら亜子を追うと、磨かれた革靴の中の靴下が蒸れて、気持ち悪い、と芳田は思う。首から流れた汗が、シャツに染み、きっちり締めたネクタイにまで届いている気がした。
「絶対ですか?」
 十メートルくらいは離れてしまった亜子が、芳田に向かって叫ぶ。
「そりゃ……」
「先生が勘違いしてる可能性は? 産まれてすぐに病院で他の子と入れ替わった可能性は? 記録した人が間違えた可能性は? そもそも、先生は誰から聞いたんですか。ご両親から? そしたら信用度低いですよ。又聞きってことですから」
 亜子は立ち止まり、芳田を待った。間もなく芳田が追いつき、今度は校庭の桜の木の隙間から校舎を眺める。横から見ていた時とは違い、正面からだと学校の形がよくわかった。高いところにある時計、静かで寂れていても、さすが私立と言ったところか。楕円型の奇抜な校舎の形は、他では見たことがない。
「ほら、絶対なんてないでしょう?」
 芳田は口籠った。何か言い返そうと、口を開けたり閉めたりを繰り返し、結局黙り込む。
「心配してくださらなくても、一日や二日できめたわけじゃないんですから。三年生になってすぐ、ここを第一志望に考えてました」
 校舎を見つめたまま、風でくずれた前髪を掻き上げる亜子を見て、大人っぽい子だ、と芳田は思った。テストの点数も、授業態度もいい。いわゆる優等生だが、微妙に掴めないところがある。物言いや仕草が中学生らしくなく、時折上から目線に感じることすらあるが、目上の人間への敬意も感じる。芳田は三年間亜子の担任を務めていたが、未だに亜子について基本的な情報以外のものを知れずにいた。
 いつの間にか、雲は通り過ぎ、暑い日差しが差している。冷まされた空気が、再び加熱されていくのを感じた。
「そうか……余計なことを言ったな」
「いいえ。先生が言ってることもわかります。それに、人間誰でも多少の偏見は持ってるものだと思いますし」
 大人びた口調で彼女が言う。
「まあ……でもまだ夏だ。考える時間はたくさんある。色んなことを視野に入れて考えてみるといい」
 人通りがなかった道路を、不意に数台の車が通り過ぎて行った。
「そうですね。今のところ第一志望ってだけで、数ヶ月後には変わってる可能性は十分にありますし」
「絶対、はないんだもんな」
 芳田がそう言うと、亜子は少し笑った。
「はい」
 夏はまだ長い。亜子の将来は決まっていない。無数の可能性が、彼女の目の前に広がっている。
 (主役は私だ。もちろん、脚本も演出も全て私)
 亜子は思い切り空気を吸い込んだ。
 どこからか、蝉の鳴き声が聞こえる。
 
 

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