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学校 《短編小説》

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こちらの作品は「進路選択」と繋がる部分があります。こちらのみでも問題ありませんが、「進路選択」を先にお読みいただけるとより楽しめるかと思います。



 キリキリ、と胃が締め付けられるように痛む。多分、緊張しているせいだ。目の前に聳え立つ白い校舎は、まるでレゴか何かで作ったみたいに角張っていて、私の存在を拒絶しているように見えた。正面玄関の透明の引き戸を前に、小さく息を吐き出す。この引き戸を引いたら、もう誰にも守ってもらえない戦場に一人で入っていくことになるのだ。
 ……引き返したい……
 ふと現れたその気持ちを振り払うように首を振る。自分で決めてここまで来たんだから、ここで帰ったらバカみたいじゃん。
 銀色のドアノブを握ってみると、もう夏が始まりかけているというのにひんやりと冷たかった。すっと深く息を吸い込みドアを開けると、並び立つ靴箱から湿った匂いが漂ってくる。同じものが沢山並んでいるのを見るのは気持ち悪い。私はさっさと靴を脱ぎ、自分の名前のシールが貼られた靴箱に入れてきょろきょろと周りを見回した。
 スリッパ、どこだろ。いや、その前に職員室行った方がいいのかな。
 しん、と静まり返った廊下の先に、“職員室”と書かれた表札が見える。私は足の親指ををもじもじと擦り合わせながら腕時計を確認した。八時三十五分。おそらく、先生も生徒も朝礼をしているのだろう。初日に遅刻したことを後悔するが、あとの祭りだ。わざと遅刻したわけでもないし、仕方ない。
 引き出しの奥から引っ張り出してきた黒いソックスを廊下に擦り付けながら、音を立てないように職員室に向かう。そっと扉のガラス窓から中を除くと、ほとんどの先生が出払っているようで、眼鏡をかけた熟年層の男性と消しゴムみたいに無機質な顔の中年の男性が部屋の奥の方に座っているだけだった。消しゴム顔の男性は私が想像する校長先生そのものだったので、まだ校長かわからないにも関わらずちょっとしたクイズを当てたような気持ちになる。また、胃がキリキリと痛んだ。でもいつまでもガラス窓から中を覗いているわけにはいかないので、扉に手をかける。横に引くと、カラカラ、と聞き慣れない音がした。
「あのー……、すみません、えっと」
 もっと大きな声を出したつもりなのに、喉から出た声が小さく掠れていて驚く。
「あの」
 二度目の言葉で消しゴム頭の先生が私に気づき、席を立って近づいてきた。
「内村さんですか?」
 わ、顔も消しゴムなのに声も消しゴム。なんなんだ、この抑揚のない声は。
「あ、そうです、遅れちゃって」
「いいえ。もう朝の会が始まっているのですが、どうしましょうか」
 消しゴム頭の先生がこっちを見る。いや、そんなこと聞かれても……こっちこそ聞きたい。どうすればいいですか?
「あと十分待てば終わりますけど、待つのもアレですよね」
 アレ、とは。
「はあ」
「ではとりあえず教室へ行ってみてください。担任の先生がどうにかしてくれると思うので」
「え、あ、はい」
 そのまま職員室の扉を閉められ、呆然とする。どうにかって、今の校長先生じゃないのかな? なんか投げ槍な感じだったけど。ため息をつき、自分のつま先に視線を落とす。そうだ、スリッパ借りていいか聞くの忘れた。すぐ近くに見える階段に視線を移す。もう十五とは言え、不登校の子供が教室に行くのがどんなに大変か……やっぱり教師という人種はわかっていないのだ。
 階段に足をかける。一歩一歩進んでいくのと同時に朝礼中の先生たちの声が近づいてきて、背負った鞄が重くなる気がした。入学式の日以来腕を通していない制服は、知人のお下がりだからかあちこちよれている。またため息をついた。もう、帰りたい。
 それでも自分の意思に反して足はゆっくりと歩みを進め、いつの間にか“三の一”の表札が掛かっている教室の目の前に来ていた。扉の前で、逡巡する。
 前から入った方がいいのかな。でもいきなり前からっていうのも……後ろ側の方が目立たない気もするし……
 そこまで考えてふと気づく。そもそもどっち側が前なのか。二年前の記憶はまるで役に立たなかった。
 あーもういいや、どっちでも。ここまで来たらもう腹を括るしかない。私は息を止めてガラ、と扉を開けた。

 突然、すぐ横から音がして、さっきまで気怠そうに話を聞いていた生徒たちが一斉に黒板横の扉に目をやるのにつられ、俺も思わずそちらに視線を向けた。そこには扉を三十センチほど開けて教室を覗く黒髪ボブの女の子が立っている。
「あの」
 それだけ言って俯いたその子は、髪型や雰囲気がやや変わっていたものの、記憶の中を掘り起こしてみるとすぐに名前が出てきた。
「内村さん」
 そう言えば先週、内山さんの母親から“来週から学校に行くと言ってます”とかって電話をもらった気がする。昨日まではちゃんと覚えていたのに、今朝になったらさっぱり忘れてしまっていた。一応先週のうちに生徒たちには告知していたのでそこまで驚いてはいないようだったが、物珍しげな視線を内村さんに浴びせかけていた。
 俯いてしまった内村さんに、どうしたらいいかわからなくなる。そもそも自分は不登校の生徒を受け持ったことがないのだ。今年になってこのクラスの担任になって初めて受け持つ。内村さんはきっと緊張しているだろうし、なんて声をかけるのが正解なんだろう……硬い言葉遣いは緊張を増させてしまうんだろうか。
「ああ、大丈夫、入って入って」
 悩んだ結果、そう言うと内村さんはぺこりとお辞儀をしたあと教室に足を踏み入れた。あそこが内村さんの席だよ、と後方の席を指すと、
「はい、ありがとうございます」
 と言って席に向かった。その返事から、そんなに扱いにくくなさそうだと安堵する。
 朝の会が終わるまでの少しの間、内村さんは鞄を膝の上に抱えたままじっと俺の方を見つめていた。
「内村さん」
 朝の会が終わって、とりあえず内村さんに声をかけてみる。
「あ……初めまして。あの、内村陽うちむらようです」
 ああ、初めましてだっけ。そうか、去年俺がこの中学に来たから、初対面なのか。
「初めまして、芳田幸宏よしだゆきひろです。理科を担当しています。えーっと、内村さんは学校久しぶりで緊張してるだろうから、わからないことあったらなんでも聞いてくれていいので。あとクラスのみんなも優しい子が多いから少しずつでも仲良く……ね、できたらなと」
 言いながら、緊張してるのは俺の方か、と自分で自分にツッコミを入れた。それに反して、俺の言葉にはい、はい、と目を見て頷く内村さんは、同じ学年の生徒よりもだいぶ大人びて見える。この感じ、なんか覚えがあるような。なんだったっけ、と記憶を探りながら俯くと、内村さんの足が目に入った。
「あれ、上履きない?」
「あ、はい、それでスリッパ借りようかと思ったんですけど」
「ああ、じゃあ下にあるから一緒に行こうか。俺もちょうど下行くし」
「あ、はい」
 先に立って教室を出ると、てくてくと後ろからついて来る。廊下に響く足音が気まずくて、何か話さなきゃ、と口を開いた。
「内村さんは普段はフリースクール? に通ってるんだっけ?」
「あ、そうです」
 質問してはみたものの、この先どうやって話を繋げたらいいのか。
「えっとぉ、どうして中学に戻ってこようと思ったの?」
 階段を降りながら、顔は見えないが背後で内村さんが考え込んでいるのがわかる。
「んーと……、私の周りは中高行ってない人が結構いて、絵を描いたり音楽をしたりを仕事にしてたりするんですけど、私は絵も音楽もそんなに得意じゃないし高校行ったら世界が広がるかなと思って、それで……高校受験するためにはまずは中学行かなきゃと思って、来ました」
 絵を描いたり音楽したり……で稼げるものなのか。なんかあまりお金入んなそうな気もするけど。そういう人たちはそれで一生食べていくんだろうか。
「なるほど。まあ無理せずにね、急にっていうのは大変だろうから」
「はい、ありがとうございます」
 さっきの返事でよかったのか、と考えつつ、一階に着いたことに気づいてスリッパの入っている黄色のカゴを指差す。
「スリッパ、そこから使っていいからね。帰る時に戻しておいてもらえれば」
「わかりました」
「じゃあ俺は職員室に戻るから。なんかあったら言って。あ、あとその腕時計、学校はダメだから外してもらってもいい?」
「あ、はい、わかりました。ありがとうございます」
 じゃあね、ともう一度言い、職員室に向かう。大丈夫かな。クラスの子とうまくやれるだろうか。でも何かあったら言うだろうし。とりあえず俺は授業の準備しないと。
 きゅ、と緩んだネクタイを締め、俺は職員室の扉を開けた。

「で、どうだった? 学校」
「疲れたぁ〜」
 ママのスマホを借りて、布団に寝転びながら電話口に聞こえるようにため息をつく。
「もーね、最初喋った先生は消しゴムみたいだし、担任の先生は学校の人って感じだしさぁ」
「消しゴムって、なにそれ」
 スマホの向こうであきらが笑う声が聞こえる。
「いや、ほんとにね、顔が四角くて無表情で、声も平たーい感じなの!」
「ふうん、私が中学生の時はいなかったのかな。記憶にない」
「かな? やっぱさぁ〜、なんだろう、学校ってもう独立した一つの社会って感じだよね。外とは違う異質な空気が流れてる感じ」
「ああ、わかるわかる。慣れてないと変な感じするよね。生徒の雰囲気もだけど、特に先生」
「そう! そうなの! 先生がさ、なんて言うんだろ、やっぱこっちのことはわかってないんだなって感じでさ」
 身体を起こし、布団の上にあぐらをかく。
「なんでも言ってね、とか言うけどそんなこと言われても探した時にはどこにもいないし、先生腕時計してるくせに私には外してとか言うし、学校のルールって不思議だなぁって思った」
「ああ、腕時計私も昔注意されたー。あれ意味わかんないよね。学業の妨げになるからかと思ったけど高校になったらつけてよくなったし」
「え、高校はいいの? いいなぁ」
「学校によるとは思うけどねー。うちは平気」
 布団の上にあぐらはバランスが悪かったので、再び布団に仰向けになる。天井の木目と布団の匂いに安心して、パタパタと足を動かした。
「あ、それにさぁ、先生って当然のように学校の価値観こっちに押し付けてくる感ない? あ、言い方めっちゃ悪いわ、ごめん」
「いや、わかるよ。先生ってやっぱり不登校になったことない人ばっかだからさ、向こうの価値観しかアイデアにないって言うか。たまに価値観のずれに、ん? ってなるよね」
「そーそー」
 天井の木目を数えながら、やっぱ価値観の似てる人との会話はいいなぁと思う。同じフリースクールに通っていた同士、学校に対して共通した考え方を持っているから愚痴も言いやすい。
「あーあ、明日も学校か」
 少し憂鬱な気分になり、ため息をつく。
「行けそう?」
「行くよーまだ一日目だもん」
「陽はコミュニケーション能力あるから大丈夫だよ。頑張って」
「えー? いやないよ全然。私すっごく人見知りだし」
「え、そうなの? 見えないね」
「よく言われる」
 天井の木目を二十一まで数えたところで、台所からママの声がした。そろそろスマホ返してーと包丁の音に紛れて声が聞こえる。
「スマホ返してって言われたーそろそろ切るね」
「うん、じゃあまたね」
 通話終了の赤いボタンを押し、電話を切った。スカートで手を拭きながらスマホを取りに来たママにそれを手渡し、見失った木目を目で探してみる。でももう、二十二個目の木目は見つからなかった。

 妻の作った夕飯を食べ、学校から持ち帰ったプリントの採点をするために部屋に篭もると、自然とため息が漏れた。月曜日というのはいつもより一点五倍疲れやすいものである。肘で宙に円を描くように肩を回し、首を傾け筋を伸ばす。コキ、と首の骨から音が出た。
 ふと、内村さんのことを思い出す。接し方がわからず戸惑いはしたものの、学校に来てくれたことは嬉しかった。授業の感じを見ていると、おそらくフリースクールで勉強していたのだろう、俺の説明したことは全て理解できているようだった。てっきり不登校の子は勉強できないものと思っていたが、そうでもないらしい。むしろ他の生徒より意欲があるように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
 椅子の背にもたれ、目の前に重なったプリントを一瞥する。やらなければいけないとわかっているが、少しでも先延ばしにしたかった。
 正直、今日内村さんを見ていて、なんだ全然大丈夫じゃないか、と思った。他の子たちとも割と普通に接していたし、勉強もわかっていたみたいだったし、むしろどうして今まで学校に来ていなかったのかわからないくらいだった。あれなら絶対……
 そこまで考えて、俺は一旦思考を止める。
 “断言しないでください。絶対なんて存在しないんですから”
 かつての卒業生の言葉が頭をよぎった。彼女は結局通信制のA高等学校に進学し、今は勉強しながら住み込みのバイトをし、あちこち点々としているらしい。
 もう一度首を鳴らし、俺はプリントに目を向けた。机に向かい、背筋を伸ばす。
 明日はどうやって内村さんに接しようか……せっかく来てくれたんだから不登校に戻ってほしくない。とりあえず威圧的な態度はしないようにしよう。
 ペンを持ち、紙の上に滑らせると、採点は思っていたよりスムーズに捗った。

 正面玄関で立ち止まる。昨日と同じ、八時三十五分。ママが寝坊したせいで今日も遅れてしまった。大きく息を吸い込み引き戸を引いて中に入ると、昨日と同じ靴箱の湿った空気が鼻をつく。靴箱に靴をしまうと、鞄から新しい上履きを取り出した。履いてみると硬くて変な感じがする。つま先でトントンと床を叩くと、私は重い鞄を背負って階段を上がった。昨日と同じ階段。でも、昨日よりも速いスピードでテンポよく上がる。教室の前で立ち止まり、記憶の蓋を開けて教室の後ろの扉をできるだけ静かに引いた。
「すみません、遅刻しました」
 今日も、学校という社会の中で一日が始まる。
 
 
 
 

 最後まで読んでくださりありがとうございました!
 少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

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