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やまとうたは人の心を種として万の言の葉とぞなれりける

見上げた空の色が薄く秋の色になっていて、気候変動などと言われていても、必死に抵抗しているのか、モノの単位を大きくすればさして変わりなどないのか、お盆を過ぎる頃には秋はきちんとその気配を主張してくるので、この寂しさを今年もきちんと愛おしいなぁと思える幸せ。

お空は秋を連れてくるよ。

さて前回、生意気にも物の価値や、自分の好きについてなど書いたように思います。

前回のnoteはこちら。

その後、そこからさらに色々なことを考えていました。
七夕星雲茶会でお世話になった野口以織さんに御礼にお伺いさせていただき、素敵なお話を沢山聞かせていただいたからなのかもしれません。
いつもありがとうございます。

私は感覚強めで生きているので、いや、むしろ感覚しかない野生児なので、思ったことを論理的に言語化するのがとても苦手なので、書いたところで上手く伝わるかもわからないのですが、そこは徒然なるままに。
そして、わからないからわからないと書いています。
真っ直ぐな疑問。


写しとは何なのか問題

とある作家さんのとても美しい「〇〇写し」という茶碗を見て、削りも釉薬も高台も景色も今まで見てきたその作家さんの中でもとても美しい茶碗でした。
きれいだなぁと思いつつも、でも〇〇ではないよなぁ……という感覚が拭えません。
これが〇〇写しとなければ
「ああ、とても良い出来の素晴らしい茶碗!」と思っていたかも知れません。
〇〇写しとある事で、どうしても〇〇と比べてしまう私がいます(なんて面倒くさく嫌なやつ…)

オマージュやインスパイアがあったとしても、写しと書かなくても良いのになぁなど、無知のくせに、いや、無知だからこそ思ったり。

無知がいくら考えても、知識がないのだから仕方ないので、なぜ写しが作られるのかを本を読んだり論文読んだりしてみました。

(夏休みって良いですね!でも、量多すぎてまだまだ全部読み終わってません!!)

ああでも、例えば。
何かその茶碗にちなんだ茶会などをするならばその写しは必要になるのか…とか。

いや、でも。
美術館などにあるそれを使うことなど叶わないなら、いっそ、似て非なる、そこから想像する事のできる道具を使えばええじゃないか…とか。

知識も知能もないので考えても、論文等を読んでも答えは見つからず。

夏休みが終わっても調べなければならない課題が一つできました。
(つまり結論は出ていない…)

先日のnoteで書いたように
物に自我があったとして、茶碗に自分の価値や位置付けがわかるのだろうか?
そこにあるのは果たして茶碗の自我なのか、作りての意識なのか、買い手の欲望なのか。

道具たちは何を思うのでしょう。

あざらしの…写し?

ただ湯を沸かし茶をたてるとは何なのか問題


お茶会へ行くと、お作法など戸惑うことが多く
口を噤み、何か粗相をしないかとドキドキしながら過ごしているので
お茶もお料理も正直楽しめる事が少ないです。

「こうしなければいけない」
その明確な理由がきちんと理解できていないから何でしょうけどね、とほほ。

そんな自分の勉強不足は棚にあげて、耐震補強して落ちてこないようしっかりと固定した上で。

「ただ心からおもてなしに感謝し、美味しいと思えばそれでええじゃないか」と、思った瞬間がありました。
つまり逆ギレですね、うふふ。

遠い昔。
お茶を人々が楽しむようになった時、果たして人々はどのようにお茶を楽しんでいたのだろうかと思いを馳せてみたり。

気楽にとは言いつつも、気楽にお伺いさせていただいたことなどないのよ!!なんて思ってみたり(まあ、それは、ご亭主に対する気遣いなんだけど、ぎくしゃくしすぎて、きっと気遣いなんて伝わらないものよのぅ…)

来てくださってありがとうと、
お湯を沸かし、心を込めてお茶をお出しする。

お招きいただいて、おもてなしいただいて、美味しいお茶を振舞ってくださりありがとうとお茶をいただく。

心からの歓迎と、心からの感謝。
それでええじゃないか、と。

いや、それもありやん??

何が正しいのかに囚われたら心が見えなくなっちゃう事もある。

でも、勉強しなきゃ見えない事もある。

勉強し、考え、勉強する。

精進します!!

正しいとは、何なのか問題

何事においても、正しさとは何なのかと答えのない事を考えたりします。
周りに認められる事が多ければそれが正しさなのかどうか。

仮面ライダーを見ていて良く思う事がありました。
仮面ライダーも相手も、自分の正義を正しいと思い戦っている。

片側だけ見れば「悪、即、滅」なのかもしれませんし、ただの愉快犯ならお話にもならないし、暴力や武力で自己の正義を押し付けるのはよろしくはないのだけれど。

では正しいとは何なのか。

ずっとこうだと言われているから正しいのか。
みんながこうだと言っているからそれが正しさなのか。

考えもせず流され、意見も持たず、相手の話も聞かず、ただ、振りかざし「正しい」と主張する事は暴力とは何が違うのか。

人の数だけ正しさはあると思うのですよ。

なんの話か、どう解釈するかさえ、それぞれ皆様の心の数だけあります、うふふ。


やまとうたは人の心を種として万の言の葉とぞなれりける

遠い昔の人も、そのように思っていたのかなぁなどと思い

この歌をタイトルにしてみました。

この解釈すら人の数だけ。


言葉の意味を考え、相手の心を考え、思いやりと優しさを持って、己の言葉を紡いでいく。

そこからがすでに、茶の心に通じるのではないかなぁなどという戯言でしめさせていただきます。

そうあらねばと反省と共に。


茶の湯講座のお知らせ

📝《みんなの茶の湯講座『茶の湯と棗②』》

薄茶器の代名詞「棗」

二回目の今回は、「町棗」やその流れを汲む「嵯峨棗」そして千家の塗師 中村宗哲の歴史に焦点を当てます。

中村宗哲は、武者小路千家 初代一翁宗守との関わり、そして千宗旦の頃から今日に至るまで千家の茶の湯を支えてきました。

今回は特にお茶をされている方にオススメの回です♪

・日時 8月18日(日)
    ①14:00〜15:10 ②15:20〜16:30

・場所 GINZA FOREST 2F 白いハコ 

・参加費 3000円(抹茶+和菓子付き)








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