推しVTuberが受肉して、安心した話

推しVがリアルになった。

と言って伝わる人と伝わらない人がいると思う。
またこの表現は直感的なもので、不適切、むしろ逆かもしれないが。

嫌がってもいいことだったけれど、むしろそれにより私はすごく嬉しくて、なんなら救われさえした。
その理由は多分推しを持つ人誰もに届けられるものだと思う。

一ヶ月遅れましたが、これは「怪歌」での花譜と廻花に対する「アンサー」記事です。
私が愛するアーティストの活動についての記事であり、同時に「推しを推すこと」全てへの、私の数年の考察発信です。

推しのこと

私のnoteでは何度か登場している。
バーチャルシンガーとして、主にYouTubeでアバターを使い、歌声を発信してきた「花譜」。
VTuber文化の隆盛とともに出てきた歌手の一人だ。

2022年には、VTuber初とされる武道館ライブを成功させた。
私は2018年に、コンポーザーだったカンザキイオリの発信を見てから応援をはじめた。

今年1月14日に代々木体育館で行われた4thワンマンライブ。

そこで花譜は、皆が馴染んできた「花譜」のキャラクターデザインとは異なる、「別のアバター」を発表した。
その名も「廻花」。
今までのイラストタッチと異なり、「歌っている本人」のシルエットを影絵でプロダクションして画面に映した姿だ。

その歌う内容も、「花譜」として言えずにいた、リアルを生きる「彼女」の心のひだや葛藤をとりあげたオリジナル楽曲だった。

皆さんはバーチャルユーチューバーの推しがいるだろうか?

キズナアイらの活動に始まって、VTuberの世界では、
「中の人なんていない」
という合言葉がある意味共通言語だった。
実際は声優さんだったり、動画投稿者だったり、皆「正体」があるわけだが、この合言葉は、あえて彼らがそれら「リアル」を度外視し、「キャラクター」として視聴者に接しようとする姿への、敬意であり、愛情だった。

花譜をプロデュースしている神椿スタジオはこの手法をあまり使っておらず、結構特殊なのだが、常識で言うと、「キャラクター」の見た目やイメージも含めて好きであることが前提とされた世界だ。
仮にも結構活動歴の長い人気VTuberが、ファンにリアルの姿を見せるというのは、映像上のシルエットでも結構な衝撃を産む。
実際のところ、ライブではリアルの身体で歌うアーティストも多い。が、今回の場合はしかも、「元のアバターで言えずにいたこと」という構成要素で、一歩間違えば、ファンが好きだった今までの活動を「あれは虚構です」と突き崩してしまう宣言にもなりうる。

私はYouTubeライブで後追い視聴したのだが、コメント欄は驚きに満ちていたし、デザインを含めた「花譜」のファンの中には、動揺で泣いてしまったという人もいた。廻花の発表を、「VTuberの歴史に残る」と表現している人もいた。

花譜や周りのプロデュースチームは、それをきちんと理解してすごく慎重にことを扱っている。その点は当事者のnoteやポストに詳しいので以下に貼る。

どんな愛も評価もあって当たり前だと思う。
しかし、私の見る限り、コメント欄やXのリプライでたくさんの人が言葉にしていたのは、
納得
という言葉で、
同時に、私が最初にこれらのリリースを見たときの感情は、
安心
だった。

何故なら私は彼女のことが推しだけれど、推しを推すということは、実は薄氷を踏むようなすごく怖いことだと思うから。私の好きなアーティストがその怖さを受け止めて、ちゃんと誰かの推しであることを、選んで生きられていることが伝わったから。

花譜プロデュースチームや兄弟のように見守ってきたファンに、もし伝えるなら、受け取ったよ、考えたよ、それから、「私、安心したよ」、と言いたい。

推しを推すのが怖かった

宇佐美りんの『推し、燃ゆ』という小説がある。
2020年の芥川賞受賞作だ。

主人公のあかりはアイドルグループの男性を、子役時代から追いかけているが、彼が「ファンの女性を殴った」と炎上する。
さらに、その真偽もわからないまま、結婚を匂わせ、引退してしまう。

残されたあかりの「信仰」そして「空虚」を描く本作は、推しってずっと画面の中にいるわけじゃないし、見えないところでも生活してるんだぞ、という怖さを孕んでいる。
だからこそ同じような葛藤を抱える全ての人に、隣に座るように響く作品だと思うのだが、私は「推しごと」には、この作品には描かれていない怖さもあると思う。

私達が見ているのは推しのあくまで一面で、その見え方を推し自身がどう思っているかは、説明されない限り知り得ないのだ。
私達が応援すればするほど、推しは自分への理想が高くなって、追い詰められていくかもしれない。
自分でも楽しく活動していると思っているが、実はファンの喜ぶ姿に合わせたくて、無意識に表情を繕っているかもしれない。

全て想像だから、言われない限り普通は、過度に心配する必要はない。
『推し、燃ゆ』の彼も、実は裏で自分の在り方を苦々しく思っていたかもしれないが、彼は大人だから進退には自己決定権がある。

だけど、私はこと花譜については、これを心配する理由があった。
花譜はデビュー時14歳だったからだ。

私は年若いことを、イコール本人には思考能力や決定能力がないととらえる考え方は好きではない。一律に大人が全て決めるべきだとするのは、個々人の考えに信頼を置かない、機会を剥奪するのと同じことだと思うから。

それでも、普通14歳の人間は、自分が考えていることがどこまで本心なのか、これから苦しくならないかの考察材料を持たない
比較対象の絶対数や、自分の性格とつきあった経験年数が少ないんだから、それは仕方がない。
まして、花譜はときどき「話すのは得意ではない」と口にしていたから、もし何か悩んでも、周りに言えていなかったらどうしようと勝手に心配になることがあった。

「実は自分は普通の人である」ことを歌う「そして花になる」がリリースされたとき、私は「なんだ、やっぱり悩んでたんじゃん!!」とちょっと思った。そしてそれをコンポーザーに共有できてよかったと。

ファンがどれだけ愛情を込めて接していても、それが負担になることは誰にだってあることだと思う。
プレッシャーで負けてしまうスポーツ選手や、親からの期待に悩む学生のように。

わかっていて、それでも年齢込みで推していたのは、プロデュースチームへの信頼であることは添えておこう。
当初から「14歳の彼女の生活を守るために顔を出さないバーチャルという手段でデビューさせた」と語っているプロデューサーは、アーティストが無理していないか、目を配って応援していると信じていた。
そして実際にそういう体制であったのは、多分神椿スタジオのファンは知っている。

それでも、何かあったら全てをプロデュースの責任にしたいわけではない。私は無意識に好きな相手の心を殺すことを恐れて、どこかで「推し」に線を引いていた。

そして、そのどこかおっかなびっくりとした愛し方に、廻花が答えをくれた。

あなたが救われるということに、推す人も救われる

4th one-man live「怪歌」での、廻花の言葉を少し引用しよう。

「私は花譜という存在と、本当に自分自身よりも近いかもしれないというくらい近くで一緒に育ってきたと思っているし、チームの方々と大事に花譜を育ててきたと思っています。だけど、そういうふうに心から言えるようになったのはすごく最近です。」
「お金を通してみんなに見せているのは、いいところばっかりだし」
「いつも何かを隠しているように思えてきたりとか」
「こういう、自分の根っこの部分にある、臆病で、劣等感の塊みたいなところを、見ない振りをしてきました」
「でもだからこそ、過去の自分は活動を続けてこられたのかもしれないと、今は思っています」

花譜は、2022年武道館で、まだ廻花の名義もない頃、初めて自作の曲を披露した。
「マイディア」というその曲について花譜は、「(ファンの)皆さんへの想いを歌った曲です」と言った。

このとき、私はもちろん嬉しかったと同時に、少し怖かった。
当時18歳の花譜が、この壮大な活動に対して、素敵な感謝だけを本当に考えられていたら、早くに大人になりすぎだと思ったのだ。

でも、今年の花譜は、引用した廻花としての挨拶で、「言えなかったことももちろんあるし、だけど、あれも本当の気持ちです」と言った。

私が心配したようなことは、ちゃんと自分でもう分かっているよとその声が言っていた。

「伝えたい人がいるとき、明るいことが言いたくなるのかもしれないです。」
「だけど、そうじゃない、あてどない、誰にも言えないことが言えたり、気持ちをぶつけられたりするのが私にとっては歌で、少なくともそれで、周りにいる大切な人を傷つけたり、困らせたりしないで済んでいると思っています」
「それがより、個人的なものになっているのが、廻花の曲だと思います」
「不安なのか、楽しいのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、よくわからない場所にいるときの曲が聴きたくて、自分で書いてみたいなと思っています。そういう時間の方が、生きていて、多いような気がします」

ぼろぼろ、と。
どれだけ警戒しても私の中にずっとあった、聖人君子のように優しい花譜ちゃん、の像が、無理なことは無理と涙する、普通の人の姿に変わっていく。

それを教えてくれてよかったと思った。
Pさんが、「芯の部分が素朴で深くて素晴らしい子なんです」と呟いた。
本当にそうだと思った。重荷を載せたいわけではなく、信頼としてそう思った。

一方で、それは自分の昇華のために使うべき姿じゃないの、という危惧も抱く。
そこまで私達に見せてしまったら、その居場所まで人向けの優しい姿に変わってしまうんじゃないの、と。

けれど、それも翌週、ラジオで声を聞いて氷解した。
花譜は、「花譜でも廻花でもない私も私です」と言った。
彼女はちゃんと「外に出さない自分」も守ろうとしている。

推しを推すって、怖いけどすごいことだ。
あなたが何か辛くても、自分で選んだ幸せを知っていることに、こんなにも涙できる私がいる

愛ってなんだ

推しを推すということは、危険で、いいことばかりじゃなくて、そして愛に溢れた行為だと思う。
実を言うと私は、昔から「愛」にちょっとアレルギーなところがあって、「愛してるって言っとけば許されると思ってんなよ」と斜に構えている時期が長かった。

たとえば、愛ゆえの歪みだったら親が子供を虐待していいわけではないし、彼氏が愛してるって伝えておけば彼女をパシリにしていいわけでもない。
この気持ちを一番的確に表現しているのは上に貼った小説なので、気になる方はご一読いただきたい。
そもそも周りに流れるラブソングに燃えなかっただけという部分も大きいけれど。

そんな私が、「ああ、愛ってこれなんだ」と一端にでも感じたのが、実は花譜の2022年の武道館ライブだった。
そのライブには「狂」というサブタイトルが付けられており、これは「狂想」というオリジナル熟語に引き継がれて、次のアルバムのテーマにもなった。

花譜は──あるいは花譜がそれを「プロデュースされた自分の綺麗なところだけの姿」だというのなら花譜プロデュースチームは、ライブを通じて、人に想いを届けようとしていた。

それを受け取った私が、あなたの幸せを願えていること。
それはきっと愛と呼んでいいんですね。

今回の「怪歌」ライブの最後にも、花譜は少し勇気を出した声で、「愛してる!」と叫んで舞台を終えた。

心の一方の私は相変わらず、「綺麗なところばっかりで無理せずに」とそれを引いて眺めているけれど、もう一方の私はファンとしてそれを両手で抱きしめたい。

ありがとう、花譜。そういえばもう二十歳だ。大人になったんだね。
誕生日おめでとう。
これからも廻花とともによろしくお願いします。

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