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人文学は世界に必要か

note創作大賞にエントリーしようと思ったら期間が終わってた。へけっ。
だけどきっと創作大賞にふれるような人にとっては身近で、私にとっては、たくさんの人の目に留まったら嬉しいと思う話だ。

そのためちょうどいいと思って、國學院大學さんのタグを借りました。
私の学び直し。私が人文学についてここ数年真面目に考えて、学んだり先に進んだりしたことの記録です。

なお、この記事はいつもの27歳の若造が書いています。
青いなぁと笑い飛ばすか、看過できない愚かがあったら叱っていただく気持ちで世の中に出します。よろしくね。


文学部は必要か


人文学は世界に必要なのだろうか。
そんなタイトルだが、まずは槍玉に上がりがちな文学部について話そう。

よく思う。
私は特にきっかけなく、ものごころついたときから呼吸のように小説が好きだった。
そのまま、大学でくらい好きなことをやろう、と文学部に進んだ人間だ。

だが私が学生の頃は(今もかもしれない)、文学部の要否論争が盛んな時期だった。

当然私の受験期にも訊かれた。
文学部を出たら何をしたいの。仕事に結びつかないんじゃないのって。

時は、上掲した阪大総長の言葉なんかも出回っている頃。
私は訊かれるたびに、あまり深く考えることなく、「言葉を使わない仕事なんてない」と答えてきた。
「言葉について考えることは、すべての社会生活について考えることのはずだ」と。
だから大丈夫。どこでだって輝いてやると。
教師もそういう考え方を肯定していた。
社会でやりたいことは決まってはいなかったが、まあ、これからも迷うことはないだろうと思っていた。
少なくとも文書作成くらいはどこででもするのだし。

ただ正直、その頃はすでにできあがった論理のうえで言葉遊びをしていただけで、本心では何も分かっていなかったな、と思う。
文書作成で本当に文学の学びを活かせる気だったのか?

言葉について考えるとは?
すべての社会生活について考えるとは?
具体的なビジョンがまだ無かった。それが本当に何かの、誰かの役に立つのかも。
高校生だから当たり前か。まだまだ自分が社会で認められるかどうかだけを考えていたな、と思う。

文学部の要否の結論は、この記事の最後まで置くことになるが、少なくとも「当時の私が考えていたことは意義には足りなかった」のは間違いない。

大学という象牙の塔

文学部への理解が足りなくて困ることは、大学ではあまり無かった。
受験をして、ある程度文化基盤の共有された大学で、当たり前にみんな学問を肯定していた。
その中で、文学部が必要だということを、あえて否定する人はいなかった。
「最近そういう話があるけど……」
文学部不要論がテーブルに挙がると、続く言葉の定番はこうだ。

「直接役に立つ科学ばかり追い求めていると、いざというときに世界に幅がなくて貧しくなるから」
「理系が開発した技術の良し悪しを決めるのは、文学部の善悪論なんだよ」

この記事を書くために改めて調べたら、文部科学省の見解も類似のようだ。
みんな、お手本のような「答え」をすでに持っていたということだろう。

ただ、私にとっては恵まれたそんな環境の中で、
私にとっては、かえって違和感がでてきた。

「みんな、賢さの奴隷になっていないか?」

テストの成績でお互いを褒め合うこと。
豆知識の寄せ集めのようなレポートを出すこと。
自分の学問の意義を理解してくれない『外の人』を、困った口調で語ること。

それはすべて、「既に自分の中にある価値観の反芻」に見えたからだ。
本質を追求する哲学や基礎研究に対し、「すぐに役に立つ実学」を馬鹿にしているようにさえ感じることがあった。みんなの友達や家族にも実学志向の人はいるはずなのに。
私も若くて視野が狭くて、潔癖だったと思う。思い込んでいるだけだったかもしれない。
だけどそういった思い込みができてしまうと、離れなかった。

これらは本当に、「学び」が目指す目的なのだろうか?
大学の外を排斥すること、自分の価値観を満足して肯定すること。
あるいは私自身のように、苛立ちに凝り固まって自分の世界に閉じこもること。

私は大学四年生で、何人かに院進を勧められながら卒業し、就職した。
大学に残るには素質の足りなさも感じていたし、ちょっとした焦りもあった。

「私にとって居心地の良い論理の中にだけ収まっていたら、成長を辞めてしまいそうだ」

今からすると、そんなに遠回りに考えなくても良かったのに、と思える焦りではある。
ただ、かなりシビアに強く、「象牙の塔にこもりたくない」と思っていた。

(周りの院進した友達や先生たちを必ずしも排外的、停滞的だと思っていたわけではない。念のため。
ただ少なくとも、自分の価値観はもっと広がらないと、どこかで人間性が潰えると思っていた。)

私にとってのウクライナ侵攻

時が流れて、2022年。
私はこれについてあまり言及するべきではないと思っているが、ロシアのウクライナ侵攻がはじまった。

社会では全然関係ないことをしていたが、私の専攻はロシア文学だった。
文学を読むためではあるが、ロシア文化やロシア語に関してもある程度勉強した。
サンクトペテルブルクには大学三年生の真冬にホームステイに行った。寒いというか踏む地面が痛かった。

私はウクライナ侵攻について、ふだんほとんど主義として『ふれない』ということを貫いている。
恐怖はある。ショックも身近だ。
もしかするとあのときホームステイさせてもらった家族が避難しているかもしれない。
けれど、私はなまじまわりの、高校の友人や他の学部の知人たちに、「ロシア語をやっていた人」だと思われている。
だから、私が発言したことが、詳しくない人へ「総意」だと受け取られたらとても迂闊なことだとずっと思っている。
私は「すこしだけ文学部で片側の国の文化を学んだ人間」として、選択として沈黙を選んでいる。
人によってそれは逃げだと思われるかもしれない。逆にそんなに気負わなくていいと笑われるかもしれない。
ただ、私は私の自認として語るべき言葉を持たない。だから、無理やり直接のコメントを絞り出すことはどちらにせよできない。
大陸で起こっている戦争は、私の存在にとって大きな問題だったから、私はそれ以上ふれられないのだ。

もっと学んでくるべきだったと何度も痛感した。せめて自分の立場でものごとを語れるように。
かわりになのか単なる成長段階か、この頃から、強く繰り返すようになった言葉がある。
想像力」だ。

想像力は何かを救うか

私は昔から想像力を信奉している。

小さな頃はファンタジー小説が好きだった。好きな理由を、私は母親にこう語った。
「現実は楽しいから、普通にしてればもっと楽しいことを探さなくてもいい。
魔法のある世界には、本の中でしか行けないんだよ」

世界に行きたがる子供だった。

『セブンス・タワー』を読んで、子供たちがこんな冒険をしているのだから私も大変なことがあっても大丈夫、と思った。
『バーティミアス』を読んで、ずっとこの世界にいるのは嫌だけど、ちょっと遊びに行って妖霊たちに挨拶して、派手なアクションに巻き込まれて無事に帰ったら最高だと思っていた。
そう思ったまま大人になって、自分でも小説を書いたり、テーブルゲームで遊んだりした。

それはいたって単純で、言葉通りの想像だ。
だけど、最近の私が口にする「想像力」は、大人になるにつれてもっと色々なものにふれて、徐々に育まれたものだ。

想像力こそがすべてを変える。

貴志祐介『新世界より』(講談社,2008年)

想像力が僕をなぞっている あの夏にきっと君がいる

ヨルシカ「エイミー」(2019年刊アルバム『エルマ』より)

対立しているはずの立場に想いを馳せること。
自らの行動で働きかけられる未来を選ぶこと。
私が好きな作品群は、たびたびそんなテーマを描いている。

むろんどれも一筋縄ではいかない。人や、人に限らない生き物が生きていれば、対立は自然に生まれるものだ。
一人ひとりが考える程度で、問題は勝手に解消などしない。

それでも、想像力をはぐくむことは、人文学の本質ではないだろうか。
そう思うようになったのはとっくに大学を卒業してから、最近のことだ。

いま、人はどんな気持ちなのだろうか。
画面の向こうではなにが起こっているのだろうか。
道具だと思っているものは、これからどんな発展を遂げるのだろうか。
実生活的なそんな問いが、ふいにカチリと、人生で受け取ってきた人文学的思考と結びつくタイミングがあったのだ。

それを得た途端、私の言葉が伝わる人が増えた。
私の行動を良かったと言ってくれる人も増えたと思う。
世界のすべてが、学んできたもので繋がったような感覚だった。
多分、この感覚を既に持っている人もいれば、むしろ持たないほうが良いと思う人もいるだろう。
私も傲慢にはなりたくない。自分の頭の中で一定の物事の摂理が繋がったことは、世界を本当に理解したことは示さないのだから。
ただ、想像を馳せることで拾い上げられるものは増える。喜んでくれる人がいる。
それが充足するだけの学びの閾値がある。
そういうことを思うようになった。

人文学的思考はどこからくるのか

私は決して早熟な方では無かったと思う。
大学時代に同じ場所に至り、そしてもう乗り越えていった人は多いはずだ。
読者にも思い当たる節があるかもしれない。過去の思考だなぁ、恥ずかしい、と思われていたら私もちょっと恥ずかしい。

それでも大学以前の私のように、論理では正しいと思うことがまだ実感に結びついていない誰かに、折角だから私の気付きが届けばいいと思う。

じゃあ、ここまではとりあえず、どうやって気付いたんだろうか?
小説を読んだら、あるいは他の色々な文化圏の作品に触れたら、人文学的思考、たとえば想像力、は無条件に育まれるのだろうか?

必ずしもそうではないだろう。また、それを目的に芸術作品にふれる、というのも、なんだか観賞用の花を小腹がすいたと食べるみたいで、本末転倒で味気なく感じる。
芸術作品などがなくても、当たり前に兼ね備えている人もいるはずだ。その人の経験から、あるいは生まれ持った環境や脳の作りから。
だから口うるさく人に本を読めなどと言う、カッコつきの「象牙の塔」にはやはり私は懐疑的だ。

だけど、やっぱり人文学を学ぶことは、想像力を含む、人が生きる力の基本ルートだと思う。
一周回って、そんな当たり前のことに戻ってきた。

「人文学」には、文学以外にも以下のような学問が含まれる。
歴史学。人類学。社会学。哲学。
他にも分類によって様々な学問が人文学と呼ばれるが、そのどれもが「人の営みをひもとく」ものだ。

文学とはテクスト学であり、テクストとは、文字通り書かれたものだけではなく、人間を取り巻く状況そのもののことだ、と言っていたのは誰だったか。
東大の文学部長だったような気もしたが、さしあたりいま見当たらない。

人の営みをひもときながら、想像する。
過去からかわらないもの、かわったもの。これからも続くもの。
他の人が感じること、感じないこと。それを類推することが良い作用を起こすこと、あるいは失礼にあたること。
自分ができること、できないこと、この先起こること、起こらないこと。
生きるうえでこれらは、24時間365日、いつなんどきでも思考の中で回すことができる。

この思考がいつも良いものであるとは限らない。
私は仕事では難しく考えすぎとよく怒られるし、私事でも想像の方向を間違えて嫌がられることがよくある。
ただ、辞められるものではない。これが自分の存在を支えている。それがなんとなくわかるようになってきた。
文系、理系議論と同じだ。世界は役割分担。
この世のなかで私は相対的に生み出すものが少ないかもしれない。
ただかわりにそんなことを考え、考えた先に生まれた言葉を発信しながら生きている。
考えている人がいると良いことは……まだわからない。もし世界にすこし優しさを増やせるのであれば、それはとても嬉しいなと思う。

おかげさまでそれに感謝してくれる人もいる。一人以上いる限りは、続けててもいいかな、と思っている。

文学部不要論に寄せて

余談ではあるが、文学部不要論のなかで、私が個人的に納得しているものがある。
「文学部の営みは、一人で出来るものだ」という内容のものである。

さっきもふれたように、生まれ持った脳の作りや環境、経験で想像力をつけている人はたくさんいる。
色々な創作作品を通して学ぶ人も多いだろう。

文学部でこれを学んだか、と言われると、私自身謎だ。
むかしから考えるのが好きで、ひとの考えにふれるのが好きだった。
文学部にいったのは、自然な流れのひとつであって、私の人生のターニングポイントではない、おそらく。不真面目な学生でごめんなさい本当に。

けれど文学部は、少なくとも「その行為の意義を主張するもの」として存在する。
そんな気が今はしている。

ここに人間の善や本質について、真面目に考えている人がいますよ、と文学部棟は言っている。
私が「象牙の塔」だと思ったものは、そんな思考に人生を費やすことを肯定する場所ともいえる。
少なくとも文学部を出なければ、私は、世界に自分がどんなふうに寄与できるか、想像力でなにができるか、考えることがきっとなかった。

当然、私の人生だけでなく、それは戦争のようなもっと切羽詰まった状況下でも同じだ。
相手の苦しみが想像できたら戦争は起きない……などという単純なことまでは言わない。
けれど、たとえば誤情報の拡散による二次風評被害などであればどうだろうか。
一歩立ち止まり、この言葉を発すると誰が困り、傷つくだろうか、と考えることは、たぶん世界の苦しみをすこしだけ減らす。
目に見える量では減らないかもしれない。
同じだけ過つ人がいるのも人間だからだ。

だけど自分の中に、この思考がきっと美しい、と信じて留め置くことはたぶん、悪くない。

なんてことを言っても、多分受験当時18歳の私は「都合よくてウソっぽ」と思うんだろうな。
いつか本当にその力を信じる日が来るよ、と、私は笑うしかない。
大人ってウソっぽいね。


今日も私は世界が少しでも優しくなればいいと思いながら生きている。
私の想像が、一人にでもそう働きかけられたら最高だ。

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