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雑感記録(4)

昨年、保坂和志の小説三部作

『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』

これらを読んでから自分の中で「時間」というものに対して

非常によく考えるようになった。

言葉と時間の関係性、経験と時間の関係性、精神的時間、身体的時間

などなどあげるとキリがないのだが

とにかくここ最近、まあざっと1年ちょっとぐらいなのだが

常に念頭に置きながら色々と考えている。


しかし、自分は如何せん頭が悪いものだから

「お!これだ!」とか具体的なロジックを構築するところまでには至らない。

もしこれを整理出来たらなあと常々思うのだけれども…

以下、思うことを書く。


(1)数直線に支配されている時間


手元に日本史や世界史の資料集があれば見てほしいのだが

年表を見ると大抵の年表は

左から右へと事象が時系列順に並んでいる。

また印刷の関係もあるだろうから

上から下へ向かうにつれて事象が時系列順に並んでいる。

しかし、冷静に考えて「直線的」すぎな歴史観では。

その直線上に並んだ「点」としての事象。

あらゆるものがその線上に表現されてしまうのである。

他の例を挙げるとすればVHSやカセットテープなど。

あれは再生するときに左の巻き→右の巻きとなるにつれて

時間は進んでいく。(左→右という進行方向と共に時間が進む)

何故、右→左という進行方向ではだめなのか?



(2)「点」としての表現による経験的時間の排除


人それぞれによって経験的な時間には差異があるはず。

同じ仕事をしていてもそれをこなす人間によって感じる時間は異なるはず。

経験としての時間は「点」では表現しえないのではないか。

例えば、日本史で言えば「1192年に鎌倉幕府誕生」みたいなもの。

これはこの言葉だけ見れば「点」として表現されている訳だが

そこに至るまでには様々な経験が介在している訳で

誕生するまでのプロセスの時間は「点」で表現しうるか?

よく「歴史の転換点」「人生のターニングポイント」と

表現されることがある。

それは数直線上で自身の人生やら、歴史とやらを捉えていて

そこの経験はどうでもいいと言わんばかりの表現で

僕は何かすごく嫌な気分になる。

その1点だけで歴史が変わるのか、人生変わるのか?

そこに至るまでのプロセスがあるからこそその「点」は誕生するのでは。

とにかく、昨今の結果主義が浸透していることにより

なお一層の強さを増して上記のことをよく感じる。



(3)文学、哲学、美術などの時間軸の破壊


フーコーが「歴史の切断」という話をしていた。

『知の考古学』…だったかな?

最近読んでる隈研吾『負ける建築』でも「建築の切断」とか言ってたけど

その数直線を破壊しようとする動きというのは少なからずある。

所謂、アナル学派?的な感じなのかな。

まあそこは置いとくとしてもこの数直線を見直す必要がある。

ここで素朴な疑問。

「何故、昔の文学や哲学、美術が時間を超えても読みうるに値するのか」

例を挙げればキリがないのだが

夏目漱石や森鷗外、時代は下るが芥川龍之介などが今も読まれるのは

何故なのだろうか?

ニーチェやハイデガー、フーコーなどが今も読まれるのは

何故なのだろうか?

普通に考えて、作品には少なからずともその時代の経験性

つまり、あんまりこの言葉は嫌いなのだが、あえて使うとすれば

「時代背景」が込めたくなくても、込められてしまう訳で

そこの経験性は普遍的なものではないと思うのだ。

しかし、それが現在にも通用しうるのは何故なのだろうか?

現に多く読まれている訳ではないですか?

数直線を見直す指標か、あるいは数直線をぶっ壊すクラッシャー的存在か。

ただ少なくとも言えるのは

一過性の文学(俗に言う大衆小説)なぞは

その線上に支配された「点」でしかなく、それも数直線に支配される。


以上なのだが

まず以て考えなければならないのは

(ⅰ)誰が数直線を規定したのか?

(ⅱ)数直線を措定することで誰が得するのか?

(ⅲ)我々は何故無意識に左→右へと時間が進んでいくと認識するのか?

これは直近の課題として継続的に考えていこうと思う。

よしなに。

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保坂和志は最高なので基本全部おすすめです。

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