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早慶上智での大学生活を終えて~栄光と挫折と悟りと~①前編

今月の初め、無事に大学を卒業できることが決まった。大学生活色々あったので、一応記念として振り返ってみることにする。このNoteを誰が読むかはわからないが、もしこれから大学生活を始める人や今現役大学生の人はふーんこんな人もいるんだ程度に思って欲しい。既に卒業されてる方は昔を懐かしんで読んでみるといいかもしれない(共感してもらえるとは思わないが)。

ちなみにタイトルだが、自分の大学を明示したくはなかった一方、自分の経験をより切実なものと感じてもらうために早慶上智とややぼかした形で示すことにした。副題は上の通り「栄光と挫折と悟りと」であり、これが自分の大学生活を表すのに一番ふさわしいと感じた。

栄光

大学デビュー

大学に入学した時の自分といえば、まさにこの世の春を謳歌していた。世間的に全く申し分のない大学の私立文系に進学するとあっては、有頂天になってしまうのも最もである。つまり、この文体からは想像もできないかもしれないが、大学入りたての私は典型的な大学デビューパリピ陽キャ🤘😎🌟として振る舞う(この表現が後で重要になる)ことになる。

大学サークルは一応お勉強系サークルにも入っていたが、テニスをしないテニサーにも入っていた。毎週数回は何らかのコンパに行ってた気がするし、自主休講とかもめちゃくちゃしてたし、大学近くの友達の家にたまってたりと、まあ普通にウェイな大学生活を送っていたと思う。

多くの人が大学デビューを経験したのではないだろうか

ちなみにこの痛い大学生ライフは突然終わりを告げる。その理由がアホほどしょーもないのだが、サークルクラッシャーになったからであった。具体的にいうと、当時仲の良かった(婉曲表現)サークルの先輩がいたのだが、実は同じサークルにその先輩彼女がいたというものである。しかもあろうことか、私は先輩との恋愛相談をその彼女にしてしまったのであるww(当時私はまだその人が彼女であることを知らない) いろいろあってその先輩に縁を切られた(ちなみな彼女も縁を切られた)私は悲しみのあまりキラキラ生活をやめそれまでの友達ともごく少数を除いて疎遠になってしまう。

なお、ここで副題のいう栄光が瞬時に終わった訳では無かった。

コロナ

私の第1期キラキラ期が終わるやいなや、コロナがやってきた。コロナはマスクが嫌だったことを除いてはそこまで嫌な思い出はなかったと思う。というのも実際の私は引きこもり陰キャであり、家にずっといていいというのは天国以外の何物でもなかったからだ。というわけで私はコロナ禍で自宅警備生活を謳歌していた。

まさにこれ

このときに大きな出会いがあった。ギリシア語との出会いである。これはコロナが無ければ実現しなかっただろう。もともと某ソシャゲの影響でギリシア語をやりたいという願望があったが、やはりギリシア語は難しそうという偏見がありなかなか踏み出せなかった。そこにコロナがやってきたのである。家にずっといれて時間が有り余ってるこの時だからこそだった。

実際ギリシア語の勉強はとても捗った。まあ最初のうちは中動相とか希求法とか意味わかんなかったけど、それでも楽しかったのを覚えている。ギリシア語を教えてくれた先生も最高だった。勉学や生き方について自分の哲学を押し付けるわけではない一方、生徒の質問や相談には親身に乗ってくれる素晴らしい先生だった。この先生は次第に私の中で恩師となっていく。

そんなわけで派手では無いけどまったり生きていたコロナ禍であった。今思うと、私が最初から追い求めるべきだったのはこういう生き方のままでよかったのかもしれない。

第二期キラキラ期

だがコロナ禍の生活はいつまでも続くはずも無く、1年くらいすると徐々に元の生活へと戻り始めていった。私はもうすぐ3年生になるという時期だったが、ここで何故か「キラキラしたい」という欲望が復活する。多分、みんなが就活の話を少しづつし始めて、なんとなくその競争に勝ちたいと思ったのかもしれない。それか、色んな行動制限が解除されていく中で何か新しい扉を開きたいという想いがあったのかもしれない。

そうと決まれば私の行動は早かった。ゼミは学部で屈指の就職実績を誇るゼミに入った。それだけではない。私は留学をすることにしたのだ。就職強いゼミ入って留学すれば就活無双できて人生イージーモードになるでしょ🤘😎🌟などと甘いことを考えていたのだった。

大学3年の春の私は典型的なこれになっていた

留学は3年の夏からだったが、その前の3年の春学期はかなりブイブイいわせてた(と思う)。就活セミナーやインターンに参加したり、コンパ(今度はゼミの)にも沢山参加したり。しかしこの時の私はまだこれから起こることを知らなかったのだった。

挫折

留学

そして程なくして私の挫折はやってくる。それはとりもなおさず、留学においてであった。

簡単にいえば、自分の本性に合わないことをして無理をしてしまったということに尽きるだろう。このNoteを読んでくれた人なら薄々気づいていると思うが、私は根っからの陰キャコミュ障である。仲がいいわけではない他人との関わりはできれば最小限にしたいし、休みの日もわりと引きこもっていたいタイプだ。大人数でのコンパもそんなに好きじゃない。大学デビューのときも3年の春も、あれも所詮演技に過ぎない。勿論当時の自分にそんな自覚はなかったけれど。しかし自分が一番幸福を感じられたのは、そんなムーブをしているときではなく、コロナのときの慎ましいながらも自分の好きなことをしている時間だったのだ。

そんな自分に留学はあまりにも厳しすぎた。陰キャでいるとがちのぼっちになるし、ぼっち陰キャが許されない雰囲気があったのである。

例えば日本の大学では大教室講義も多いしぼっち参戦する人も結構いるので、自分がぼっちだからといって特に何とも思わない。これが留学先(一応ヨーロッパ)になると、クラスの人数はだいたい20人くらいが限度でかつなぜかぼっちが0なのである。他の学生はその授業で初対面の学生とでもすぐに打ち解けられるので、ぼっちで授業参加ということは早々に無くなる。この雰囲気をすぐに察知した私もとりあえず近くにいる人に話しかけてぼっちだけは回避したのだが、普通に全然話が合わなくて〇んだ。それはそうだ。普段そんなことをしない上、狭く深くの関係がモットーの人間がいきなりそんなムーブをしても仲の良くなれるわけない。でもぼっちになりたくなかったので、うわべだけの人間関係を続ける他、私に選択肢はなかった。

こんなのは一例にすぎない。本当はもっと色々語りたい(もしかしたら後日改めて記事を書くかもしれない)が、このNoteは大学生活全体を振り返ることが目的なので割愛する。いずれにせよ、留学では人と積極的に関わらないと詰む雰囲気があり、一応自分もそれを頑張ってみたのだが、そういうのが生来苦手だったのでどんどん病んでいったという話である。大学1年のときと3年の春は苦しくなかったのか?と思われるかもしれない。だが、日本でパリピを演じられたのは、ぼっちになっても許される雰囲気、つまり逃げ場があったからである。実際あのときでもいくつかの授業は全然ぼっちで受けていたし。そこでぼっちでいる気まずさを感じたことはなかった。

ただ、おそらく陰キャコミュ障であったとしても、非常に強い精神力があれば海外でも陰キャを貫いて上手くやっていけたのだろうと今となっては思う。だって人と関わらないのも個人の自由だから。けれどそのときの自分にはできなかった。せっかく留学に来たのに周りの学生にも家族にも寂しい人だと思われたくなかった。留学に行って成功した人というのはたいてい友達を沢山作ってエンジョイしているイメージがあったから自分もそれになりたかった。自分の評価を他人に委ねていた。でも、「自分がなりたい自分」は「自分の性格に合わない自分」だった。

最終的に私は留学生活に耐えきれなくなり、途中で留学をやめることとなる。自分を偽り続けた結果が、このザマである。惨めとしかいいようがない。留学で成功して一流企業に就職してハッピーイージーライフ(笑)を送るという私の甘い夢はこうして虚しく散っていった。人生において最初にして最大の挫折であった。

病み。


そんなこんなで私の(いうほどそうでもないかもしれないが、比較的)華やかだった大学生生活は終わりを告げる。後編では、どうしてこんなことになってしまったのか、そしてその後自分が辿り着いた悟りについて語ることになる。

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