愛おしい時間について
多くの人が愛してやまない「アバウトタイム」という映画を見た。
時間を遡ることができる主人公がその能力を使って幸せな人生を模索していく、というような映画だ。
結論から言うと、とんでもなく良かった。
でも、映画が描く柔らかな雰囲気の中に僕は何故だか焦燥を感じた部分が多かった。
上手くいくだけではないタイムトラベル、過去を変えることで今も変わってしまうという代償や人の命と時間に関わること、、
毎日生活していく中で必然である偶然性というものが、彼には無効であるからだ。だからこそ、やり直しが効くという保険が人生を狂わしているのではないか、という焦りに少し冷めた汗をかいた。
ただ、この映画の描きたかったことが
「今」の素晴らしさであることは言うまでもない。
2時間のヒューマンドラマがこんなに短く感じられたのは初めてで、シーンを挟むごとに繰り広げられる登場人物たちの知的なやりとりや時々ある人間的な悪ふざけが愛おしくて仕方がない。だからこそ本来不可逆的なはずの人生が巻き戻しの効く安価なものに成り下がっているようで、きっと焦りや不安が募ったのだ。そして、だからこそこの主人公が本当に人生の素晴らしさに気づいた時、「今」という現実が誰よりも価値のあるものへと昇華したのだと思う。
かく言う自分は「今」をどう捉えているのか。
そんなのアバウトタイムの主人公と同じさ、なんで格好いいことが言いたいのだけれど、分かっていても動けない、思えない、そんなことが毎日毎日繰り返される。
毎朝歩くあの道に、満員電車で聞くラジオの中に、ふと友人と話す会話の中に、お昼に食べるコンビニのおにぎりにも、夜道を潤わす微かな俄雨や、帰りに通り過ぎた路上ライブをしている若者に「今」という愛おしさが一杯詰まっているかもしれない。いや、確実に詰まっている。それはそれはリスが餌を頬張って膨らめたほっぺたのようにパンパンに。
だけど、忙しくてさ、辛くて面倒くさくて、素晴らしいなんて思えないのが関の山だ。
僕だって毎日そうだ。
だから、思い立ったら耳を澄まして目を凝らさないといけない。嫌な音や嫌いな風景にもきっと愛おしい時間が溢れているはずだ。そんな愛おしい時間がきっと「今」を彩ってくれる。
確かにそれは難しいことかもしれない。至極簡単に言うなら、物事をマイナスに捉えずプラスに捉えよう、ということだ。そんなことができたら苦労しないよ、誰もがそう思うだろう。だけど、意志がなければ道は開かない。そんな有名な言葉が僕たちの基本なのだ。変わりたいなら変わりたいと思わなければいけない。毎日、毎日毎日毎日、そうやって少しずつでも愛おしい時間に出会えるように耳を澄まし目を凝らさなければいけない。確かに良いことだけじゃないかもしれないけど、少なくとも聞こえない見えないフリをするよりも、素敵な人生が待っているじゃないかな。
そう思えたいつの日からか、辛くて苦しい現実さえも「今」しか味わえない愛おしい時間だと感じてしまうのだろう。