遺書① 20代でがんになった 発覚
最期くらい、自己顕示欲を思う存分に発揮したい。
読んでほしい特定の人はいない。
私を知っている、全ての人へ。
多くの人のおかげでここまで生きれました。ありがとう。
2019年12月19日
その日は大学時代の先輩と久々に飲みに行く予定で、なんとなく気合を入れいつもは使わない盛れるブラジャーを身に着けようと思った。
出社直前、装着して胸を寄せた時に違和感があった。
左胸の内側にしこりがある。
よく聞く話だ。乳がんは胸かリンパにしこりができる。セルフチェックで気付ける。何度も触ってみたが、確かにある。
いやでもまさかな…別の何かだろう…そうに違いない…
でも本当に乳がんだったらどうしたらいいんだ?
そんなことをぐるぐる考えていたら、家を出なければいけない時間になった。パニックで出社してしまった。結局仕事が手に付かず、人目につかない場所で乳腺外来がある近所の病院を探し、就業時間中に電話をかけた。
「胸にしこりがあるんですが、診てもらうことはできますか?」
自分の声が震えているのがわかった。やはり不安だった。受付の人にも伝わったのだろう。最短日程で予約を取ってくれた。
その日の飲み会は、せっかく遠方から来てもらった先輩もいたのに楽しむことができなかった。始終上の空だった。
2019年12月23日
念の為、念の為だからと自分に言い聞かせつつ、午前休を取り病院へ向かった。家から徒歩10分。担当してくれたのは優しい女性の先生だった。
まずは触診とエコー、マンモグラフィを行った。
しかしそれだけでは悪性か良性かの判断がつかず、細胞を取って病理検査に出すことになった。
胸に針を刺し、先端についたペンチ状の器具でしこりの一部を取る。バチンと音がし、痛みが走った。
検査結果が出たらすぐに電話しますと言われた。
一般的な検査で判断がつかない状況なのかと不安が募った。
午後から出社する気には到底なれず、休む旨電話をした。部長に繋いでもらい、嘘をついた。
「検査が長引いているので終日休ませてください。またこういうことがこれからも続くかもしれないので、後日お話しするお時間をください。」
余計なことを言ってしまった。何故か涙が流れ始めた。
一度出た涙は止まらなかった。
そのまま帰宅したが、自分では抱えきれないと感じ、ある人に連絡をした。先日の飲み会にいたHさんだ。
Hさんは先輩だがウマが合い、卒業後も定期的に連絡を取る仲だ。
Hさんとはすぐに連絡が取れた。事情を捲し立てるように説明した。
予想外の返事がきた。
「正直、様子がおかしいのには気付いていた。心ここに在らずといった感じだった。」
さすがHさん。私のことをよくわかっている。
「これから辛いことがあったらいつでも連絡して。私はいつも目の味方だから。」
何度もお礼を言い会話を終えた。万が一病気だったとして、治ったら真っ先にHさんに伝えようと思った。
その勢いで母に電話をかけた。
母も数年前に女性特有のがんを患っていて、経過観察中だった。
余計な不安をかけたくないから結果が出るまで隠しておこうと思っていたが、衝動的に動いていた。
状況を伝えると母は泣いた。
「話してくれてありがとう。辛いことを一人で抱え込まなくていい。
そんな思いをさせて申し訳ない。そんな身体に産んでごめん。医療費は全部出すし、病院も不安なら一緒に行く。」
そんな身体に産んでごめんーーー
そんなことを思わせてごめん、とは言えなかった。
2020年1月4日
正月休みで実家にいた。気もそぞろだった。
夕方、検査結果を知らせる電話がかかってきた。
リビングにいた。いてしまった。母がそこにいた。病院から電話がきたことに気付いていた。複雑な気持ちだった。
『オールオッケー!良性なので放っておけば治ります!』
という言葉に期待して、一旦自室に戻り通話ボタンを押した。
「恐らく良くないものです。精密検査を進めましょう。大きな病院への紹介状も出します。」
実感がわかなかった。恐らくということは誤診の可能性もあるかな、なんてまだ考えていた。
後になって思ったが、ここからはもう後戻りはできなかった。治療というレールに乗せられ、ひたすら辛い日々が続くことにまだ気付いていなかった。
電話の内容を母に伝えた。母から父に伝えられた。私はやっぱりただ見ているだけだった。
父は乳がんの専門医だ。
いきなり自分の病院に連れて行かれ、有無を言わさずエコー検査をされた。両親の剣幕に負けて行ったが、ものすごく嫌だった。
帰りの車内、不貞腐れている私に向かって父はずっと話していた。
「しこりにも色々あるから。蓋を開けてみたら良性なんてこともよくある。」
恐らく父は分かっていた。
にも関わらず、大丈夫と繰り返していた。
信じたくなかったのか、私を落ち着かせたかったのか、あの時の父の気持ちはわからない。
だが、恐らく私以上に悲しんでいた。それを思うと、今でも泣きたくなる。
2020年1月6日
自分の家に戻り、徒歩10分の病院に改めて検査結果を聞きに行った。
先生は丁寧に検査結果を説明してくれた。それでも私はまだ信じていなかった。往生際が悪い。
「先生の私見で構いませんので教えてください。がんだと思いますか?」
初めて「がん」というワードを出してみた。
先生の立場的にこういう質問は答えづらいだろうなと分かっていたが、訊いてみた。
ゆっくり、目を見て答えてくれた。
「正直そうだと思います。ただ、転移していなければすぐに治せます。まずは検査を進めましょう。」
2020年1月7日
初めてMRIに入った。
職業柄、原理は分かる。要はNMRの中に入っているのだ。サンプルになった気分だった。ここでも他人事に感じていた。
その結果を持って、再度徒歩10分の病院へ向かった。その時に大学病院への紹介状を渡された。
有給がどんどん減っていくな、なんてくだらないことを考えていた。
2020年1月9日
紹介状を持って初めて大学病院へ行った。今度は男の先生だった。
明確に「乳がん」だと告げられた。
これから転移がないかの検査を行い、治療の進め方を決めると説明を受けた。
なってしまったものは仕方がない。治療はしてみよう。親も心配しているし。親も祖父母もがんに罹っていたから、私もいずれなるだろうとは漠然と思っていた。ただこんなに早いとは思わなかった。
がんの治療で最も不安だったのは、抗がん剤治療の副作用で髪が抜けることだった。
私は自分の容姿で遊ぶのが好きだ。服、メイク、ヘアスタイル。その髪が抜ける。終いには眉毛や睫毛も抜けるというではないか。
想像もしたくない。可愛くなくなってしまう。
乳がんの種類によっては、抗がん剤を使わない治療もあると聞いていた。
頼むからそれであってくれ、と毎日願っていた。
2020年1月16日
大学病院で精密検査を受けた。PET CTは初めてだった。
薬の投与後に待ち時間があることを知らされておらず、たまたま持っていた本で時間を潰した。
貴志祐介の『天使の囀り』。
ホスピスで働く女性が主人公。周りの人々が死に魅了されていくストーリー。
病院で読む本ではないなと苦笑いした。
検査自体は横になっているだけだった。
まるでベルトコンベアに乗せられたように物事が進んでいくな、とここでも他人事のように感じながらボーッとしていた。
2020年1月24日
母の誕生日だが、大学病院で検査を受けていた。
何回同じような検査をするんだろうと感じはじめていたが、これで終わりのようだった。
2020年2月1日
抗がん剤治療が始まってしまった時に備え、念の為、ウィッグを準備しに専門店へ行った。
抗がん剤を避けられるのではないかとまだ少しだけ期待していたが、母に連れて行ってもらった。
ナチュラル志向で、少し暗めの茶色いボブのウィッグを選んだ。
ただこの時の私はショートヘアで、ウィッグの方が少し長い。しこりに気付く直前に美容院に行ってしまっていた。間が悪いにも程があった。
人毛の混ぜ込まれたウィッグは値段が高い。5万円は超える。
母は値段を気にせず好きなものを選ばせてくれた。
その夜、いつもお世話になっていた美容師さんのところにウィッグを持っていった。事前に事情は説明していた。
できるだけ自然に馴染むように、微調整のカットをしてもらった。
とても可愛くなった。不自然さも殆どないように見える。嬉しかった。
代金を払おうとが、受け取ってもらえなかった。
「プロにお願いしているのだから、受け取ってほしいです。」
「僕は美容師ですが、ウィッグカットのプロではないので要りません。早く元気になって、また目さんの髪を直接弄らせてください。」
優しさに触れ、込み上げてくるものがあった。ボロボロ泣いてしまった。
何度も何度も感謝を伝え、帰路についた。
この頃から寝つきが悪くなっていた。まんじりともできず朝を迎えることもあった。
布団に入り電気を消すと、余計なことを考える。
仕事は続けられるのか?髪が抜けたら実際どういう見た目になるのか?周囲はウィッグだと気付くか?いっそがんだと明かしてしまった方が気は楽か?
そういえば「転移していたらどうしよう」という不安は感じなかった。その時は恐らく死ぬので、仕方ない。それよりも自分の見た目や環境が変わることに対しての不安が大きかった。
毎晩、少し前に他界した大好きな祖父にお願いをしていた。どうして祖父だったのかはわからない。
「じいちゃん、見守ってくれてるよね?お願いだから助けて。治してとまでは言わないから、抗がん剤治療を避けるルートに進ませて。お願い。」
祖父からしたらいい迷惑だろう。祖父はきっと天国でゴルフを楽しんでいるはずだ。邪魔していたら申し訳ないなと今は思う。
2020年2月3日
検査や通院で、既に有給を殆ど使い果たしていた。大学病院での診察を夕方にしてもらい、時間休で通院した。
この日が治療前の最後の診察だった。
全ての検査結果が出揃い、治療の方針が決まる。
夕方、父が会社の近くまで車で迎えにきてくれた。そして診察に同席したいと言った。同業者なので迷惑がられるのではないかと思い、診察室のドアを開けて主治医に確認した。
「父が同席したいと言っているのですが良いですか?その…外科医なんですが……」
そんな漫画のようなことがあるか?と主治医は思ったのだろう。微笑みながら父を診察室に招き入れた。互いに自己紹介をしていたと思う。
そして、トリプルネガティブというタイプの乳がんだと告げられた。
また転移は現状見られないが、腫瘍が大きくなっており、ステージ2だと診断された。
この型は、抗がん剤治療が必要だ。事前に調べていたから知っていた。
目の前が暗くなった。なんの根拠もなく避けられるのではないかと期待していたが、目の前の現実は厳しかった。
2週間に1回のペースで8回抗がん剤を投与し、腫瘍を小さくしてから手術で切除し、最後に放射線治療を行うプランになっていた。
父と主治医が検査結果を見ながら専門用語で話しているのを、私はぼーっと眺めていた。
一通り話し終え、この父の言葉だけは理解できた。
「先生の治療方針で間違いないと思います。よろしくお願いします。」
投薬は一週間後から始めることになった。
抗がん剤の副作用に備え、生理を止める薬を注射した。これで半年間子宮が眠りにつき、抗がん剤の害から免れることができるらしい。生き延びてしまった将来のためにと、否応なく打たれた。
もう私には選択権はなかった。
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