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遺書② 20代でがんになった 投薬前半

僕の書いたシナリオはこうだ
「きっと成功するはずなんだ」
変わらない毎日はごめんなんて君と作戦会議したよな
(衛星十七号/ポップしなないで)

2020年2月4日

定時後に部長達を呼び出した。
さすがに休みが多かったので簡単に事情は説明していたが、今後の方針が定まったので改めてお話しした。

乳がんであること、これから定期的に通院すること、手術と放射線治療の時は休職せざるをえないことを説明した。

かける言葉も見当たらないようだった。

「投薬しながらも働けるらしいので、できる限りは頑張ります。見た目も変わると思います。ご迷惑をおかけしますが、ご容赦ください。」

身体を優先するようにと温かい言葉をかけてくれた。かけざるをえなかったとは思う。
既に決まっている休職の期間や、有給を消費しきると欠勤扱いになることなど、事務的な話も一通りした。

「そんなことがあるんだ…」
最後に部長が言った。

「私も誤診だと思ってたんですけどね〜」
泣きながら答えた。

この頃は泣く頻度がどんどん上がっていた。

仕事で直接関わりがある人にも、理由を説明して迷惑かけることを伝えた。
皆、豆鉄砲で打たれた鳩のような顔をしていた。

印象的だったのは、女性に伝えた際は皆に「なんでわかったの?」と訊かれたことだ。きっとセルフチェックという単語が頭に浮かんだのだろう。

2020年2月10日

いよいよ抗がん剤治療が始まった。病院まで母が付き添ってくれ、投薬中も待っていてくれた。

指定された持ち物が多くて驚いた。
手に副作用が出ないよう凍らせたペットボトルを握る。
足に副作用が出ないよう圧着ソックスを履く。
口に副作用が出ないよう氷を口に含む。
クーラーバッグを持って病院に向かった。

しっかり準備をしたつもりが、致命的な忘れ物をした。

イヤホンだ。

投薬は2時間程度で終わるが、逆に言えば2時間も完全に拘束される。
持ち物リストに入れておいてほしかった。最も必要なアイテムではないか。
結局、普段見ない昼前のくだらないワイドショーを2時間眺めるしかなく、ただでさえ苦痛な時間に拍車がかかった。

投薬は点滴で行う。私は血管が細く、採血の際にいつも難しがられる。
点滴の針はそれよりも太い針で、なかなかうまく刺してもらえなかった。
何度もブスブスと刺し直され、痛くて泣いてしまった。
泣くことに抵抗がなくなってきていた。

この時に副作用は何も生じなかった。すぐに出る訳ではなく、体に回るにつれて出てくるものらしかった。

「ぼーっと座っていただけなのに、とても疲れた」と直筆の日記に書いてあった。

2020年2月12日

抗がん剤治療中は白血球が減り、感染症などに罹りやすくなってしまう。
それを防ぐために、抗がん剤の2日後には白血球を増やすジーラスタという注射を打つことになっていた。
先生曰く
「骨髄をハンマーで叩いて活性化させて白血球を作り出させる」
という仕組みらしかった。注射自体は5分もかからなかった。

驚いたことが2つあった。
1つ目は、この薬の値段だ。
会計の機械に「33000円」と表示された。目玉が飛び出そうになった。麻雀の役満より高いじゃないかと思った。

2つ目は、この薬の副作用の強さだ。
帰りのバスの中で、椅子に接している太ももの裏に鈍痛を感じた。インフルエンザに罹った時のような痛みだった。
帰宅してからもどんどん痛みは増していき、特に下半身の痛みが耐え難かった。
そういえば先生が言っていた。
「太い骨がある部分に痛みを感じやすいかもしれない。」
まさにその通りだった。立っていても、横になっていても痛い。

痛いしか考えられなかった。

その日はずっと母が一緒にいてくれた。心配してくれる母に対し、酷い態度をとってしまった。

「何をしても痛い!耐えられない!もう治療を止めたい!これでは普通の生活を送れない!」
子供のように泣き叫んだ。完全に八つ当たりだった。
日が経つにつれて痛みは徐々に減っていったが、母に対する申し訳ない気持ちは大きくなっていった。

2020年2月14日

ジーラスタから2日経過し、身体の痛みは20%程に減っていた。
久々に出社して終日働くことができ、達成感があった。

仲の良い先輩と雑談していた時に、思いも寄らないことを言われた。
「もしかして転職活動してる?」
先輩は転職してきた側の立場で、前職の時に休みがちになったことで周りにバレた経験があったらしい。なるほど、そういう見え方をしていたのかと驚いた。
先輩のことは信頼していたので、正直に病気のことを説明した。少し気が軽くなった。

2020年2月16日

私はライブに行くのが趣味だ。この日は特に好きなパスピエというバンドのライブがあった。
既にチケットを買ってしまっていて、友達と行く予定にもなっていた。バンドの記念ライブであり、どうしても行きたかった。苦しい日々の息抜きもしたかった。

この頃は新型コロナのことが世間で取り立たされ始めていたこともあり、母は本当に行くのかと心配していた。
ただ、まだ本格的な脅威であることも分かっていなかったし、それでストレス解消になるなら…と、マスクの着用と手指消毒することを念押しして送り出してくれた。

音楽は偉大だ。趣味は大切だ。ライブを心から楽しんだ。

「まだら」という曲がリリースされたばかりだったと思う。

絡まる針が命を急かして 身体を脱いで捨てても自由にはなれない
泣きながら生まれて 泣きながら生きるの

感情を揺さぶられて涙が出た。何かにつけて毎日泣いていた。

2020年2月21日

会社での昼食は毎日社員食堂を利用していて、入社した時からいつも同期で集まって食べていた。内心よく思っていない人もいたが、なんとなくの習慣になっていた。

しかしこの日を境に、完全に決別することになる。

食堂に向かう途中、先のよく思っていない人が話しかけてきた。
「最近よく休んでるよね?病気とか?」

一言一句違わない。こう訊かれた。
もしかしたら本当に心配からの発言だったかもしれない。ただこの頃の私には、野次馬根性からのものにしか捉えられなかったし、今でもそう思っている。余りにも不躾だった。
会社において病気のことは、伝える必要がある人と信頼している人にしか話していなかった。この人はその基準で言うと対象外だった。
適当に話を流して場を逃れた。

この頃から、周りが敵にしか見えなくなっていた。
徐々に心の余裕はなくなっていた。眠れない。忙しい。心身ともにしんどい。早くも楽になりたいと思っていたが、レールに乗せられた私の身体はどんどん闘病を続けていた。

この日以降、4年間続けた同期と昼食の場に参加しなくなった。

2020年2月22日

治療を始めてから、お風呂に入るのが1日で唯一癒される瞬間だった。
入浴中は痛みが軽減された。浮力のおかげだ。

お風呂上がり、脱衣所に落ちている髪の毛がいつもより多いような気がした。

2020年2月23日

私には弟がいる。以前フレデリックというバンドのライブにたまたま連れていった際に気に入ってくれたらしく、この日は横浜アリーナで行われるライブに一緒に行く約束をしていた。

新型コロナが本格的に問題となり始めていた。ライブが開催されるかどうかも直前まで検討されていたようだ。
結果的にこの日は開催されたが、次の日くらいから殆どのライブが中止になっていった。

ライブは言うまでもなく楽しかった。自分のお気に入りのバンドを弟が好きになってくれたことがとても嬉しかった。
ライブの感想を話しながら、高揚した気分のまま帰宅した。

ライブの疲れを取るために、早々にお風呂に入った。
いつも通り髪を洗った。違和感があった。

排水溝が黒い。

髪がごっそり抜けて溜まっていた。

恐れていたことがついに起きた。
シャンプーを流すために頭に触れる度、際限なく抜け落ちる。
洗ってしまったからには乾かさないといけない。風を当てるとどんどん抜け落ちる。
脱衣所の床一面に、愛しい茶色い髪が散らばっていた。

死にたかった。この日を含めた2〜3日間で殆どの髪の毛が抜けた。
鏡に映った自分の姿がとても醜かった。
後始末も大変だった。人間の髪の毛の量に驚いた。

弟が家にいなかったら最悪の選択をしていたかもしれない。

2020年2月25日

抗がん剤の2クール目を行った。今回も吐き気や痺れなどの副作用はなかった。
やはり母が付き添ってくれた。
私は親不孝だろうか。

2020年2月26日

初めてウィッグを被って出社した。もうどうにも取り繕えなかった。
会社を休もうかとも考えたが、今日休んだら気持ち的に二度と行けなくなると思った。

私は愚かだった。気にしているのは案外自分だけだった。

出勤時に同部署の先輩と一緒になった。
「髪、イメチェンしたの?かわいいじゃん。」

澱んだ気持ちが一気に救われたように感じた。
仕立ててくれた美容師さんへの感謝の気持ちも込み上げた。
色んな感情の波に飲まれて涙が出そうになったが、朝8時から泣くわけにもいかず、なんとか堪えた。お礼を言う声は震えていた。

2020年2月27日

ジーラスタを注射した。会社は終日休にした。
この頃は既に有給を使い果たしており、欠勤扱いになっていた。
欠勤日数が増えると、ボーナスが減る。お金には困っていないが、少し悲しかった。さらに昇進が遅れる。こちらは大いに悲しかった。

注射後、やはり身体の痛みが襲ってきたが、初回ほどではなくて安心した。前回同等の痛みだったら、治療かジーラスタを諦めていたと思う。
副作用は痛みだけではなく、熱っぽさと倦怠感もあった。夜は寝付けないのに昼間は無限に眠れた。
副作用は1日で治まらず、次の日も欠勤することになった。

乳がんになってから、常に何かを考えていた。基本的にはネガティブなことだった。
だがこの時は違った。痛みが初回よりマシだった安心感と、先日ウィッグ姿を褒められたことから、少しだけ気持ちが上向きになっていた。

いくら髪が抜けても、私は私だ。私はかわいい。このかわいさは変わらない。
そんな私が縮こまって生きるのはおかしい。
ウィッグだって似合っている。美容師さんが気合を入れて仕立ててくれたんだから当然だ。私という土台もかわいいのだから、堂々としろ。自信を持て。

当時の日記に書いてあった。何度も読み返して、自分に言い聞かせていた。

その後の数日間は普通に働けた。治療中であることを忘れてしまうくらい仕事に没頭できた。

2020年3月9日

抗がん剤は早くも3クール目となった。痺れのような副作用は出なかった。
ただ、血液検査から肝機能が低下してきていたようで薬を処方された。

2020年3月11日

恒例となった抗がん剤後のジーラスタ。病院へ向かう足がどんどん重くなっていた。
一方で身体は徐々に慣れてきており、痛み止めを飲めば耐えられる程度にはなっていた。とはいえ倦怠感は拭えなかった。寝ても寝ても疲れが取れなかった。

2020年3月12日

直筆で残していたこの日の日記の文をそのまま記載する。

『体がしんどい。足が重い。1日中ねてた。だれか助けてほしい。』

心が疲弊し始めていた。

2020年3月16日

組織のトップであるYさんの異動が決まっていた。
Yさんは何かと私を気にかけてくれていた。恐らくだが、仕事に対する態度や上司に対しても物怖じしない姿勢を評価してくれていたのだと思う。
そんな部下の様子が最近おかしいと思ったのか、声をかけてくれた。

Yさんは今でも私の心身を案じ定期的に連絡をくれるし、職場に来た際には必ず顔を見に来てくれる。年代の近い娘さんがいるため、余計に心配なのかもしれない。
とにかく、トップに立つ人はやはり人格者だと感じる。

この日は仕事終わりに食事に連れていってくれた。
人目を憚らずに話せるよう、個室を取ってくれていた。
優しい視線に甘えた。これまでの経緯を全てお話しした。

「僕は同じ病気に罹ったことがないので、目さんの苦悩や苦労の全てを理解することはできない。だが、心の底から応援しているし無事に治ることを願っている。既に頑張っていると思うから、頑張れとは言わない。とにかく元気な姿を見せてほしい。そして快気祝いを盛大にしよう。」

感極まって泣いてしまった。泣き癖がついていた。
絶対に治すことを約束して帰路についた。

2020年3月23日

4クール目の抗がん剤投薬を行った。
針を刺されることには毎回抵抗があったが、点滴中の過ごし方には慣れてきていた。主にYouTubeを見て過ごしていた。
病気のことを知っている同期に、投薬時の時間潰しに見るからおすすめの動画を3本程度送ってくれとお願いしていた。
大体しもふりチューブが送られてきた。単純にその同期がハマっていたからだ。

そして私もどハマりした。後に全ての動画を見ることになる。
化学療法室にいることを忘れて笑うほど面白かった。特にせいやのエピソードトークが好きだった。
心の支えが一つ増えたと感じた。霜降り明星には感謝だが、それを教えてくれた同期にも心から感謝している。

これで抗がん剤治療は折り返し地点までたどり着いた。
5クール目からは薬の種類が変わることになっていた。そのため現状を確認するためにMRIとエコーを撮ることになった。

しこりに気付いてから4ヶ月でここまで治療が進んだ。
振り返るとあっという間だが、心はまだ2019年の12月に取り残されているような感覚だった。

2020年3月25日

お決まりのジーラスタを打った。諦めて受け入れていた。
打った後、すぐにロキソニンを飲んでおけば多少楽なことに気付いた。妙なライフハックばかりが増えていった。

2020年3月29日

人生で二度目のMRIを受けた。以前は外部機関だったが、今度は大学病院で行われた。
MRI中はとにかくうるさい。カンカン鳴り響く音を軽減するためにヘッドホンを貸してくれた。最初は穏やかな音楽が流れていたが、検査が始まるとそれが掻き消され全く意味がなく、結局はぼーっとしているしかなかった。

治療は順調に進んでおり、MRIの結果も問題ないとのことだったが、新型コロナの影響がいよいよ世間に出始めていた。

抗がん剤の副作用の影響も出始めていた。



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