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【きのう何読んだ?】城山三郎「部長の大晩年」

経済小説の第一人者のひとりである城山氏の作品(1998年)。城山さんといえば社会派王道のドキュメンタリー、人物評伝が特徴です。「雄気堂々(渋沢栄一)」「官僚たちの夏(通産省の役人)」など、気骨ある人物を描いた作品が多いですね。

城山さんが取り上げる人物のなかで、少し毛色が違うと感じるのが本作。こちらの部長殿はサラリーマンをしながら俳句作りにのめりこみ、同人誌も発行。三菱製紙の工場で部長職に上り詰めるも、55歳の定年を迎えると喜び勇んで趣味の世界(骨董品集め、古書店巡りなど)へと入り浸ります。ここからが我が人生の本番、と言わんばかりです。

一見すると「釣りバカ日誌」の浜ちゃんみたいなキャラクターを思い浮かべてしまいますが、そこは城山文学。俳句の「深作」は仕事への熱中からくる…の言葉どおり、仕事と俳句を不可侵の領域とし、職場ではちょっと風変わりな管理職(部下からは信頼が厚い)である一方、日々作り出す俳句には仕事の匂いをつゆとも感じさせません。その律儀な性格は、おそらく城山さん本人にもつながるところがあったのでしょう。

永田耕衣は97歳で他界するまで俳句とともに生きますが、その作品が評価を得るのは最晩年の90代。あまりにも遅い受賞ではありますが、本人は一向に気にしている気配はありません。そもそも、評価を得るために俳句をしている訳ではないのですから。

本作を読みながら、読者はある疑問が頭の隅から離れません。それは、なぜ、あの城山三郎が永田耕衣を取り上げたのか。

城山さんが永田耕衣を描いたのはおそらく70歳手前(週刊朝日連載)。自らの晩年にも思うところがあり、理想の先達として永田の跡を追ったのかもしれません。また、こういう視点もあります。「人生100年時代の到来」です。

ほとんどの企業戦士(あぁ、昭和のフレーズだ)が定年とともに社会に放り出され、その先が意外と長いことに嘆息したことでしょう。光も影も同様に描くことを性分としてきた城山さんにとって、まだ描いたことのなかった定年後の生き様のひとつを、職業人と芸術家、それぞれを経験した永田の姿に投影したかったのかもしれません。

私が本書に手を伸ばしたのは、今年初めの元上司の訃報に上京し、かつての同僚や上司と再会したことがきっかけだったように感じます。
かつての上司が言いました。
「定年したら、やることがなくてね。毎日苦労しているよ」
聞けば、あまりの暇さ加減に先日は某私立大学を受験(シニアなんとかではない)。久方ぶりの受験勉強、偏差値との格闘の末、受かるつもりが不本意ながら不合格となり、夢のキャンパスライフをフイにしたとのことでした。

誰にとっても、晩年を生きることは容易くありません。永田耕衣は俳句で情熱を燃やし、その晩年を駆け抜けました。賞賛に値する大晩年に違いありません。

「部長の大晩年」城山三郎:新潮文庫

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