【描駅停写】JR中央線東小金井駅

東小金井駅。通称「ひがこ」は新宿駅から電車で25分ほど、乗り換えせずに一本でいくことができる。特急は三鷹の次に国分寺に停車するためマイナーな駅かもしれないが中央線のほとんどは急行である。しかも急行とは名ばかりで申し訳程度に東中野と大久保に停車しないだけのことである。つまり中央線の急行はほぼ各駅である。これは東京の常識であるから上京する方は真っ先に覚えた方が良い。私は、以前2年ほど武蔵小金井に住んでいたのだが、武蔵小金井は日用品や食材がなんでもそろう店が多くあるため東小金井に行く機会はあまりなかった。しかし、そんな私にも大学4年にしてひがこに行く理由ができた。通学免許である。私は忙しない遊びの毎日に目まぐるしく追われていたため、親に喝をいれられるまで免許を取りに行かなかった。本来は大学1年の夏に山形に合宿に行き、たくさんの友達あるいは彼女をつくるというのが大学生のあるべき姿である。2年で取るならまずまず、3年生で取るのは遅い。4年の終わりでとる私なんて、世の中的にはとんでもない怠惰人間らしい。かくして、大学4年の卒業論文と並行して教習所に通うという東小金井詰め込みパックが成立したのだ。卒論の打ち合わせ、教授への発表資料作り、卒業旅行に向けて夜は夜中までバイトなどここからの4カ月間私は人生で一番充実した日々を東小金井で送った。

教習所を東小金井にした理由がないわけではなかった。大学の生協で申し込みをする際、2年ほど前に大学の先輩が「東小金井の教習所が空いていた」とポロっと言っていたことを偶然思い出したのだ。今考えると、これが悲劇の始まりだった。当時住んでいた家から電車で30分以上かかるし、行ってみたら全く空いておらず予約で痛い目をみるし、東小金井じゃなくてよかったと非常に後悔している。

いよいよ教習初日。教習所につくと最初の技能の授業の日を予約することになった。ここで私はいきなり衝撃を受ける。1カ月後くらいまで予約はいっぱいらしい。いきなり先がおもいやられる。学科はいつでも受けられるらしく、その日は学科の授業を受けて帰った。ちなみに電車賃の定期券などは自己負担らしく、初日から私のひがこ愛は冷める一方だった。その後、何度かひがこに通い学科を早々と終わらせたが、技能の予約はとにかく取りづらかった。技能の予約をする際に気づいたことがあるのだが、私はとにかくスケジュールをたてるのが苦手である。サークルでも会議的なことをしたりしたが、議論を進めることばっかりに夢中になり、スケジューリングなどの事務作業は他の人に任せていた。細かな事務作業は誰でもできるからなどと自分に言い訳をして見て見ぬふりをしてしまうのだ。いつか誰にも助けてもらえなくなった時に私はダブルブッキングの狭間で動けなくなる。何も言わずに事務作業を引き受けてくれた友達に「あの時の会議俺がスケジューリングするからやり直させてほしい」とあやまりたくなった。結局、仮免試験にこぎつけるのに2カ月ほどかかった。

仮免当日。学科は自信があり、一発で合格できた。ここまでは順調である。続いて緊張の技能試験。教習所内とはいえ、当時外で運転したことない綿sからしたらそこは首都高の縮図のように見えていた。最初に地図を見せられ、順番を伝えられる。試験は1つの車に教官と2、3人の生徒が乗り込み順番に試験を行う。私は、2番手だったのでこの間に自分が運転するシミュレーションシートと確認箇所の把握などをするなどとかなり貪欲に勝ちに行った。1番手の人の手が震えているのが見えた。「おいおい事故んないでくれよ~」と地図を覚えシミュレーション内で仮免合格した私は余裕で1番目の人の運転にあくびをしていた。次は私の番。やはり乗ってみると、少し緊張感を感じた。が、シミュレーションは完璧である。エンジンをかけ、アクセルを踏み、最初の角を曲がる。続いて30km制限速度道路で速度を上げるところで聴きなれない音がなった。速度の上げすぎかとそのまま運転し速度を落とすが鳴りやまない。突如私は体に異変を感じた。シートベルトをしていない。私は無意識下で極度の緊張をしていたのだ。すぐに車を左に寄せ、シートベルトをつけ再発進した。教官はなにやら紙に文字を書いている。不合格か?私の手は1番手の人と比較にならないくらい震えていた。頭は一気に真っ白になり覚えていた地図は真っ白のペライチの紙に成り代わった。そこからは正直よく覚えていない。どうせ落ちたからどうなってもいいやという気持ちだったことは覚えている。
そして、結果発表、私はどうせ落ちたから発表など待たず次の試験の予約をしたいくらいイライラしていたが結果は合格だった。私は唖然として
「シートベルトをしてなかったのにですか?」
と自ら間違え箇所をチクるような発言を思わずしてしまった。シートベルトをしないというあまりに異例のミスが減点対象として登録されておらず教習所側も灯台下暗しだったのだろうか。
かくしていわくつきではあるが、なんとか仮免に合格した。

ところで、予約といい電車といい不満のたまる毎日を東小金井で送っていたが、そんなひがこにもいい所がたくさんあった。
駅前のラーメン屋と街中華、吉野家などはよく授業の合間に通った。特にラーメン屋はかなり好きな店だった。塩ラーメン、醤油ラーメン、油そば、全てがおいしかった。駅を出るとすぐに住宅街が広がっており、ファミリー層で済むにはもってこいの街だと思った。授業の合間に散歩をしたら有名映画会社のアトリエなどもありとてもテンションがあがったことを覚えている。

仮免をとってからは、予約のコツをつかみ、学科、技能ともに順調に進んだ。
しかし、本試験を目前にしてまたしても問題が発生した。このペースで行くと本試験を受けるのが年明けになるのだ。こんな苦しい生活を来年に持ち越したくない。私はこの生活を新年まで伸ばすと初夢に富士山ではなく教習車が出てきて、大大凶の1年間のスタートを切る予感がして、教習ペースを上げることにした。しかし、必死にペースを上げたが、卒論も佳境であり、結局どれだけ早くても本試験を25日にしか受けられなかった。師走は忙しい。結局私は、聖なるクリスマスの12/25に朝8時から本試験を受けることになった。「別に彼女もいないし日本は無宗教だから!」とつよがる余裕があることに自分でも驚いたが、口とは裏腹に心の中はフィンランドの雪国くらい寒かった。当日赤い帽子を被っていないサンタ教官を助手席にのせ、私は人生の夢であったクリスマスドライブを教習車で果たすということになった。これだけ苦労したんだ。技能試験は途中で勝利を確信するほど余裕だった。12月25日。約4か月の地獄のひがこ通学免許が終了した。そして年末最終日に免許試験場で試験に合格し、私は大学時代に免許をとるという母との約束を果たしたのだ。免許写真の顔は10才ほど老けており誰が見ても仏頂面だった。イエスキリストが生まれた日に試験に合格した男の顔は紛れもない仏教顔だった。もう一生免許なんてとりたくない。

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