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【閑話休題#11】伊藤氏貴『同性愛文学の系譜』

こんにちは、三太です。
以前、noteに【まとめ#1】を投稿しました。
そのときに新たな気づきとして、吉田修一作品には「同性愛について描かれている作品が多い」ということを書きました。

そんな折、伊藤氏貴『同性愛文学の系譜』(勉誠出版・2020)という本に出会いました。
そして、本の帯を見ていると、どうやら吉田修一についても言及されている様子。
これは読むしかないと、早速購入して読みました。

要約

本書で、筆者は「日本の近現代文学(特に純文学作品に限定)において、同性愛に対する意識はどのように変化してきたか」(p.21)という問いを立てています。
筆者はその問いに対して、語彙や表現を含め、同性愛がどのように描かれてきたのかを、後から生まれた概念に頼らずに辿ります。(p.5)
そして、年代順に作品を配列していきます。(p.21)
問いに対しては、「同性愛に対する見方に大きな変化があった。ごくかんたんに言えば、囚われなき状態から、西洋的な差別視の時代を経て、解放へと向かっているが、ただし、その解放は『同性愛者』という西洋発の概念に基づくものである」(pp.256-257)という答えを導き出しています。
そして、『同性愛者』というカテゴライズに囚われなかった『最後の息子』の「ぼく」のあり方に、日本文学における同性愛の描き方への多様性を見出し、その可能性を示そうとしています。(p.257)

引用と考察

 しかし「ぼく」は、母にこそ「閻魔ちゃん」の存在を隠そうとするが、元カノの「佐和子」にはすべてを打ち明けている。人に好かれたいという思いの強さゆえに、相手によって多少態度を変えるだけで、性的指向は「ぼく」のアイデンティティを形成しはしない。その点で実は、「ぼく」は「閻魔ちゃん」たちよりも〈自由〉なのだ。そして、「オカマ」でもなく、「閻魔ちゃん」でもなく、ただ「岩倉雅人」としてまなざすことによって、相手をも〈解放〉する可能性に途を拓く。
 これは「同性愛者」としての〈自由=解放liberty〉ではない。「同性愛者」あるいは「LGBT」あるいはそれをさらに細分化したどこかに自分を位置づけ、そうした「者」としてそれぞれがそれぞれの権利を獲得していくというものではない。ただ、自分が今たまたまこの人を愛しているということ、その時その相手の性別に囚われないでいる、という〈自由〉である。その意味では「同性愛者」「LGBT」というカテゴライズからも〈自由〉なのだ。

『同性愛文学の系譜』(pp.253-254)

自分が同性を好きになる、あるいはその好きな人も同性愛者であるということ以前に、人としてその人を好きになるということ。
吉田修一『最後の息子』の「ぼく」はそういうことをしているんだと思います。
一見簡単そうに思えることですが、(そして当たり前のことのようにも思えますが)本書を読んでくると(LGBTの歴史を知ると)それが最前線のように思えます。
筆者はこのあり方を「十分現実味を帯びた可能性」だとも述べています。
感想でも述べますが、筆者は『最後の息子』という作品をかなり重要視していて、吉田修一をずっと読んでいる自分としてはそのような可能性のある作品だという指摘が単純に嬉しかったです。
その作品をデビュー作として書いた吉田修一もすごい。

感想 

本の帯に吉田修一という文字が書いてあったので手に取ったのですが、(他にもたくさんの作家の名前が書かれています)思った以上に本書では重要な役割を果たしていました。
なんと終章はほとんどすべてが『最後の息子』への言及なのです。
その終章の冒頭を引用します。

ここまで百二十年余に亘る日本近代の同性愛文学の系譜を辿ってきたが、吉田修一『最後の息子』(一九九七年)をもって締めくくりたい。前章で二十一世紀の作品を出しておきながら、あえて二十世紀末にこの作品でデビューした吉田に戻るのは、これが今現在もっともありうる可能性の一つを啓いて見せてくれているからだ。

『同性愛文学の系譜』(p.243)

この文章を読むと、それほど重要な作品だったのかという驚きがあります。
と同時に、吉田修一作品を再読したからこそ発見できた「同性愛」というテーマから、ここまで辿りつけたのかという感慨というか面白さもありました。
また、吉田修一以外にもたくさんの作品で同性愛が描かれているという発見もありました。
例えばいくつか取り上げられた順に列挙してみます。

森鷗外『ヰタ・セクスアリス』
外村繁『澪標』
坪内逍遥『当世書生気質』
内田魯庵『社会百面相』
夏目漱石『こころ』

三島由紀夫『仮面の告白』
→この作品は「同性愛者」(同性愛をアイデンティティとして持つ者)を誕生させたという意味で、本書では重要視されています。ここまでの作品にも同性愛は描かれていますが、そこには同性愛が描かれているだけで、同性愛者はいなかったと筆者は考えています。

坂上秋成『夜を聴く者』
加藤秀行『シェア』
山崎ナオコーラ『この世は二人組ではできあがらない』
吉本ばなな『スナックちどり』
村田沙耶香『ガマズミ航海』

これら以外にも、いくつも文学作品は出てきます。
名前を聞けば知っている作家、作品も多く、文学(純文学)における同性愛の占める位置の大きさに驚かされます。
逆に、文学に比べれば、日常生活からは同性愛が背景にしりぞいているようにも感じました。
最後に、改めて多くの文学作品を扱って、あるテーマについて論じていくことの面白さを感じました。
そして、同時にそのテーマの素人が、そこで論じられていることを読み取っていくことの難しさもひしひしと感じました。
まだまだ一読では十分な理解に達していないように思います。
ただ、自分もこのような視点を持って文学に向き合っていきたいと思えましたし、そのために幅広く本を読んで、裾野を広げながら、深く究めることはとことん究めて、バランスよく文学を楽しんでいきたいと思います。

それでは、読んでいただき、ありがとうございました。

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