【観劇感想】明治座_11月花形歌舞伎_夜の部『鎌倉三代記』
明治座の11月花形歌舞伎、夜の部を観てきました。先に《鎌倉三代記》から。
『鎌倉三代記』 絹川村閑居の場
歌舞伎事典2000年版では、《鎌倉三代記》は「作者不明」となっている。
大坂夏の陣を扱うことが幕府側にいかに厳しい目で見られていたか、明確に作者が伝わっていないことからも感じる。
花道から、坂東巳之助の三浦之助の出。
美しい三浦之助。
木戸をまたぐ力も残っていない、疲労困憊の様子が細やかに表現されている。
疲れても傷ついても溢れる気品とキラキラ、”三浦之助っぽさ”まで、もう一歩!というところ。
中央の暖簾から、中村米吉の時姫が登場。手拭いを姉さんかぶりに、手には行灯。
姿は可愛らしく美しいが、こちらも、赤姫が姉さんかぶりという、場違いなファンタジック感がいまひとつ。
もっとも、《鎌倉三代記》のこの場面、ストーリー上は若い2人が主役でも、若い役者には超絶難しい。
”とにかくそういうことなんで”という、出の瞬間から観客を納得させる、歌舞伎独特の問答無用さが必要だ。
語りは最初は葵太夫。渋い中にきらりと光る重厚な義太夫節。後半で太夫が交代して、だんだんと”語り”より”歌い”に近くなってしまった印象なのは残念。
安達藤三郎実は佐々木高綱を演じるのは、中村勘九郎。彼が現れると、義太夫狂言の古典らしい豪快さ、ファンタジックな問答無用の世界観が出現する。
安達藤三郎は、ひたいに大きな入れ黒子がある。
『名作歌舞伎全集』(5巻)を読んでみると、絹川村閑居の場の前に、安達藤三郎は佐々木高綱だと疑われて捕えられる。
(実はホントに佐々木高綱なのだが)自分は藤三郎という者で人違いだと言うと、紛らわしいから間違えないように顔に入れ墨をしておけと時政が命じて、藤三郎は入れ墨をされてしまう。これがひたいの入れ黒子。
『名作歌舞伎全集』を読む限り、時政は藤三郎に、時姫を連れて戻ったら嫁にやろうとは言ってないが、絹川村閑居の場で藤三郎は、そういう約束だとうそぶき、姫への心中立ての入れ黒子と言い募る。
軽妙さと胡散臭さが心地よく同居する、勘九郎の藤三郎。
藤三郎を追い払った時姫、どうも三浦之助は自分を信じてくれないし、自害しようとする。そこへ「心底見た」と三浦之助が来て、時姫が父時政を討つことができたら五百世の夫婦だぞと、父親殺しを迫る。
時姫は「討ってみせましょう」と即決気味で、これは米吉に限らず、このくらいのテンポだった気がする。それでも危うく「はやッ」とツッコんでしまいそうになった。マスクしていて良かった。
時政側の富田六郎を市川左升。局に中村梅花と中村芝のぶ。局がそれらしくしっかりしてないと、時姫ひいては時政まで大したことない人物に見えてしまうので、局の存在感、キチンと感は大切。
中村鶴松が演じる、藤三郎の妻おくるは、はじめは時姫を連れ帰る役目の藤三郎の妻だから、六郎や局の手引をするのだが、実は、亡き夫のために佐々木高綱に味方しているという複雑な設定。
深い紫色の|石持《こくもち》の衣裳もよく似合い、物腰は控え目ながら賢く肝の据わった女性というのが表れている。それにしても鶴松の眼は宝石のように綺麗。
おくるは高綱の「実は」のあと、自害してしまう。突然の行動にも見えるが、鶴松のおくるは、先の戦で高綱の影武者として死んだ夫(本物の藤三郎)のもとへ行きたいという健気さが、説得力を持っている。
種明かしも済んで、三浦之助は佐々木高綱と最後の闘いに出ようというところで、幕になる。
『名作歌舞伎全集』を読むと三浦之助は生きているのが不思議なくらいの傷を負っている。
巳之助の三浦之助は、それが一貫している。
木戸の段差を超えるのも辛く、井戸のへりに足をかけることさえ難儀なのだ。
最後、戦の鉦の音が聞こえて、佐々木高綱とともに最後の闘いに出ようとするが、三浦之助は一瞬、気が遠くなってしまう。
ここで勘九郎の高綱が、弓でもって三浦之助の背中を打ち、意識を取り戻させる。これは本当に打ったのかとびっくりするほどの勢いと大きな動きだった。
息の合ったメンバーだからできることかもしれない。
わたしは巳之助の三浦之助を、とても楽しみにしていた。
もう一歩、というのが正直な感想だが、それは不満では全くない。なるほど巳之助ほどの力があっても、三浦之助はこんなに難しいのかと、興味深く観た。
米吉が挑んだ時姫も、《本朝廿四孝》の八重垣姫、《金閣寺(祇園祭礼信仰記)》の雪姫と並んで三姫と呼ばれ、赤姫の中でも難しい役。
これをすらっとやっているように見えた4代目中村雀右衛門がいかにすごかったかを感じる。
しかし、どんな名優も最初の一回がなければ始まらない。
次はいつ、巳之助の三浦之助が観られるだろう。そのときは、どんなだろうか。
そんなことを思う《鎌倉三代記》だった。