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『妹背山婦女庭訓』 三笠山御殿_六月大歌舞伎 歌舞伎座 昼の部

待ちに待った、6代目時蔵の襲名披露狂言『妹背山婦女庭訓』三笠山御殿の場。
観てよかった。この人のお三輪を観たい!と思った自分を褒めたい。

今回は姫もどりと、金殿の場面の上演。途中に襲名披露の口上が入る。

蘇我入鹿の妹である橘姫は、藤原淡海(烏帽子折の求女に身をやつしている)によって着物に苧環の赤い糸を付けられたと知らず、屋敷へ帰ってきた…というところから始まる。



姫もどり

かづき(被衣)を取った橘姫(中村七之助)の圧倒的な「おひいさま」感。
天智帝の后になっていてもおかしくないお家柄なので、内側から光り輝くような高貴な姿だ。

橘姫は淡海から、添いたいなら入鹿が持つ宝剣を奪って功を上げろと言われる。
家か恋か、と苦悩する橘姫は「お上(かみ)のため」やりましょうと決心する。

彼女は、天智帝の第一の臣下を藤原鎌足と争っていた蘇我蝦夷の娘。
そして、その蝦夷を切腹に追い込み、いまや帝に代わろうとしている入鹿の妹。
自分たちの動きが国を左右する、そういう位置にいるのだということを思い出させるセリフだ。

烏帽子折求女実は藤原淡海、を演じるのは時蔵あらため初代萬壽。

着物は黒地に裾に露芝。風情があって好きな衣裳だ。

萬壽の淡海はヘナヘナした男前ではないし、二世の誓いに条件を出しても憎くなく、スケールダウンしない。
淡海は、そういう次元で生きている人物ではない、というのが短い中でも充分に感じられる。

紅白の苧環。橘姫の袖についた赤い糸をたぐると、求女が現れる


金殿の段のはじまり

橘姫と淡海が舞台からいなくなると、花道からいよいよ梅枝あらため6代目時蔵のお三輪が登場する。

つい今までの、殿上人たちのいた空気を、時蔵のお三輪が一気に変える。
ハッキリと空気が変わって、一気に世界が庶民に降りてくる。

苧環の糸が「切れくさって…」と軽く毒づきながらお三輪は辺りを見回す。ほかに家は無し、あれに居るに違いないと考える。
お留守かえ、と声をかけても応答がなく、どうしようかというところへ、上手からパタパタぱたと豆腐買いおむら(片岡仁左衛門)が幼い娘おひろ(梅枝)の手を引いて出てくる。

おむらはお三輪に引き止められると、「ああ。お清所(台所)を尋ねるなら…」と勢いよく道を教える。

おむらが登場するこの場面は、おむらを良い役者がするので観る側は盛り上がり、あっという間に求女の祝言の情報に至るのだが、ほかにも大事なものが示されている、と思う。

一つは、おむらの道順案内に見える、この屋敷の広大さ。

文楽の床本の情報を探してみると、ほかの場面で、入鹿の家臣たちが新たに建てられたこの御殿の大きさを「春日の杉も前栽の草びら、若山、つづら山はまき石同然、猿沢の池はお庭の井戸に見えまする」と、やや大袈裟に言い合う、というくだりがある。

なので、この道順案内は、早口でまくし立てる面白さだけでなく、いまや万乗の位にある入鹿が建てたこの御殿が、どれほどの広さと豪華さであるか、あらためて示すものなのだと思う。

もう一つ示されるのは、言葉の違いだ。

おむらは「お清所(おきよどころ)尋ねるのなら」、あっち…と言う。
お三輪は「いえいえ私が尋ねるのはお清どの(おきよどの)とやらではござりませぬ」と返す。

おむらは「台所に行くには…」と道順を教えたのだが、お三輪は、「イエお清さんとかいう人じゃなくて…」と返しているように見える。

お三輪は、「お清所」の意味がわからず、おむらが「おきよ」という人に会うための道順を教えたと思ったのではないか。

ここで、少なくともこの屋敷に「おきよ」という人がいるらしい、という勘違いがお三輪の中に生まれたために、このあと官女に見咎められ問われた彼女は、咄嗟に、自分は「おきよ」の友だちだ、と誤魔化そうとした(とわたしは思う)。

この二つが示すものは共通している。
この場所が、お三輪の住む世界とは、何もかもまるで違う、ということだ。

淡海を含む天智帝をとりまく人々と、お三輪とが、どれほどかけ離れているかを表し、この先お三輪に訪れる穏やかならぬ展開を、予感させるもののように思う。


仁左衛門の口上に、襲名の尊さを思う

口上は、片岡仁左衛門を中央に、上手側に時蔵、下手側に梅枝が並ぶ。

時蔵に関して、古風でとても力があって、これからの歌舞伎を背負って立つ存在になると確信している、という温かい言葉。
新・梅枝については、自分は3代目時蔵に、このくらいの小さなころ大変お世話になった。その3代目の曾孫である6代目時蔵、玄孫である梅枝の襲名の場にいられることは縁を感じる、と。

これを聞いて、そうか同じ名跡の襲名は、一生でそう何度も見られるものではないのだという現実にハッとする。

5代目時蔵は、昭和56年(1981年)に時蔵を襲名して44年間。
6代目時蔵は、前名の梅枝を30年間。

わたしが、通うのに苦がなく歌舞伎を観られるのは生涯のうち何年間だろうか?
そのうちで、一つの名跡が先代から当代へ、さらに次代へ受け継がれるのを観られる可能性はどのくらいあるのだろう?

これはわたしが観られる「時蔵」襲名披露の、最初で最後かもしれない。

そう考えると、襲名も、その名跡や役者のエピソードを交えた先輩役者による口上も、とてつもなく尊いものに感じられた。

口上が終わると、芝居に戻る。

おむら(仁左衛門)は花道七三まで行って、「なんか忘れたような」と振り返り、ポツネンとしている梅枝を「こっちゃおいで」と手招きする。その優しいことといったらない。

お三輪に「萬屋さん、よぅお気張り」とにこやかな声をかけて、梅枝と共に引っ込んでいく。

求女はこの家の姫と祝言だという、求女を見つけて連れ戻そうか、しかし彼に嫌われるかも、と迷いながら、お三輪は階(きざはし)を上がる。人の気配がない金殿の廊下をうろついていると、上手側から官女が出てくる。

いじめの官女の登場である。

小川家 8人の官女

中村隼人、種之助、獅童。萬太郎、歌昇、又五郎、錦之助、歌六。

襲名披露狂言で、晴れやかに「6代目時蔵」をスタートする主役が、親戚に囲まれて散々にいじめられるのを観るという、実にめでたい(?)状況である。

責められ役も上手い時蔵(とわたしは勝手に思っている)なので、呼吸のあった官女の力もあり、異様なくらい盛り上がる。

隼人官女は、「そう短気を起こしてはいけません」と先の官女を諌めながら、自分も褒めたと思えば突然怒る、サイコパスぶりを発揮。
歌六官女は、謡(うたい)のくだりで、いい声を聴かせつつ、扇でぐいぐい刺してくる。

とはいえ、お三輪がいじめられる場面は、たとえこの芝居を初めて見ても、とても見覚えがあるというか、大昔から我々は進歩していないのかと心が痛む。

先の『上州土産百両首』でも、変われない人間の浅ましさ哀しさを感じたので、当月の昼の部は「変われない僕ら」みたいなテーマでもあるんだろうか?と勘繰ってしまう。

官女たちがお三輪と話す中で、「何のおぬしが知っていて良いものかいの」的なセリフが出てくる。
何気ないが、意地の悪い言葉だ。

「お前なんぞが知っていようはずもない」、「我々だから知っていること」。

官女たちは、自分たちは特別な階級の人に仕える特別な人間で、我々とお前とは天と地ほどの差があるのだと、この言葉を通して何度もお三輪を傷つける。

馬子唄をフリ付きで歌えと言われ、片肌脱いで段鹿子の袖を見せたお三輪の姿が、びっくりするほど野暮ったい(褒めている)。
頭に結ばれた白い手拭い、その端っこがビョンと立った有様がもう何とも言えず、哀れをビジョンにしたらこれに違いない、と思う。

あー面白かった、と官女たちが行ってしまいそうになるので、慌ててお三輪は取りすがる。
お三輪に縋られた官女がコケて、それが8人官女のカラフルなドミノ倒しに発展してコント的な笑いになる。

聟殿に会わせてくれると言ったではないか。
「誰が?」「いつ?」「どこで?」。

もう、目を覆いたくなる。

いちいち律儀に「あなたが」「今」「ここで」と答えるお三輪の哀れさ、いじらしさ。

「ああ、それを言うたのは私じゃ」という官女に、「…あなたじゃ。あなたじゃあなたじゃ」と縋るところも良い。繰り返しのセリフもくどくならず、時蔵は変化の付け方が本当に上手い。

疑着の相〜お三輪の死

散々にいたぶられて、お三輪は気を失う。

しかし、お三輪は弱いばかりの女性ではない。
このまま1人で中へ踏み込むより、いちど帰って、丁稚の太郎を連れてこよう、と助っ人を連れてきて仕返しすることを思いつく。

帰ろうとするお三輪に、官女たちの「おめでとうございます」の声が聞こえる。

そんな声を聴かせて、自分をそっちへ行かせようとするのだろう、その手には乗らない、とお三輪は悔しさを滲ませながらも首を振る。

歩き出すと、また「おめでとうございます」の声。

この二度目を聞いて立ち止まった時。

時蔵のお三輪の纏う空気がスッと一瞬、凍りつき、何か恐ろしいものが彼女の背中にベッタリと張り付いたとでも言うのか、魔が差し込むように空気が変わったと思った。

我に返るように、耳を塞いで、「帰りましょ」とお三輪はまた足を踏み出し、花道にかかる。

「おめでとうございます」。

お三輪はたまらず、キッとなって振り返る。

「あれを聞いては…」となる。

花道で髪をさばいて変質するお三輪。
「思えば思えばつれない男」から、恨む心は膨れ上がって「このの女めに見返られたが口惜しい…!」と正体が変わる。

求女の心変わりばかりが悲しい恨めしいのではない。その相手が、こんな(ろくでもないことをする)「家」の女だということが許せない。

その「この」への絶望と憤りは、鱶七(実は金輪五郎。尾上松緑)に刀で刺され「さては姫の言いつけじゃな」となって、最高潮になる。

刺されたお三輪は階の下(少し上手寄り)に座り込み、座敷にいる鱶七を見上げ、客席にほとんど背中を向けている。

乱れた十六むさしの着物、長く垂れた黒髪、ほどけて絡みつく赤い結綿。
その先端で、グッと目一杯持ち上げた後ろ頭が、まるで鎌首をもたげた蛇のようにグロテスクに、怪物じみて見える。

まさに「いまわしきそのありさま」。

的外れかもしれないが、十六むさしの着物の柄は、ここで、目玉模様が羽にある蛾のような、ギョッとする恐ろしさ不気味さを感じさせる。
丁稚を連れて仕返しに来ようかというお三輪の気の強さと相まって、わたしは十六むさしという柄の効果を(勝手に)感じた。

鱶七に刺されてから三方を潰すところまで、その緊迫感に息を詰めて見入った。

鱶七の話を聞いて、求女の行動がすべて大義のためだと知り、お三輪は、どうかひと目会いたい、と声を震わせる。それも叶わず、お三輪は伏して事きれる。

落ち入るさまも哀れではあるが、お三輪が恨み憎しみのまま死ぬよりは救いでもあり、苧環を手繰る姿に、苧環伝説と違い、思う相手につけた糸が切れた、出のお三輪が自然と思い出され、悲劇だけとはまた違った余韻があったと感じる。

そして「人間の娘」の一念が、この金殿に象徴される、はるか殿上の、人を人とも思わぬ者たちの企みと威勢を崩すアイテムの一つになる、という構図に唸った。

観終わっても興味の尽きない、時蔵の素晴らしいお三輪だった。

…読みにくい長文に、お付き合いくださいまして、心からありがとうございます。

三笠山御殿の場に関する道具の数々。歌舞伎座地下


2階ロビーの襲名記念

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