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ねえ、久しぶり。

あと少し、あとひと越え努力すれば。
もっと昇れるのに頑張らない。

お前らは、そういう人間の集まりだ。

入学早々、担任は皆の前でそう言った。
進学校だったから、“今後はこのままでは通用しない”ということを伝えたかったのかもしれない。
けれど私は焦りも感じず、ただただ納得したものである。

県内で“中の下”のレベルに位置する高校は、正に担任が言ったような人間が集まりそうな場所だった。

もっとレベルの高い高校に受かるのは、そこからさらに努力できる子たちだ。

取り敢えず部活に入って、青春の真似事をした。
学業において、さほど苦労せず上位にいられることは唯一の誇りだった。

ちっぽけなプライドを満たせるのは、ここが“中の下”だから。
上には上がいる。途方もないくらい。

躍起になって流行を追っていたのは、今思えば何も持たない自分を飾り立てるためだったかもしれない。

半年、一年。中身のない時間は風のように過ぎる。
進路なんて、どこか他人事だった二年生の夏休み。

膨大な量の宿題と休みの残り日数は、もうとっくに釣り合いが取れなくなっている。
片手間にテレビをつけたのは、そんな日だった。

金属音と、耳を突く歓声。
スポーツに疎い私でも、夏の甲子園は知っている。

なんか凄い人たちが、さらにその最高峰を決める場所。
別世界。ルールだってよく分からない。

テレビを消そうとリモコンを掲げた時、ふとマウンド上のエースに目が行った。
他の体格の良い選手たちに混ざると、何だか細っこく見える。

大きく振りかぶった横顔がアップになった。
顎から汗が滴り落ちる。

ドキッとした。

その眼差しには、虚無な自分にはない真剣さがあった。
数日後。決勝で敗れた瞬間も、彼は同じ目をしていたと思う。

そのとき彼は涙を堪えていたのだったか、静かに泣いていたのだったか。もう思い出すことはできない。

忍び寄る秋の足音は、甲子園を記憶の彼方に消した。

大学では恋愛に執着しすぎて疲れただけで。
社会へ出てみれば、もっとイヤなことの連続だ。

上から罵倒されて、下には噛み付かれる。
今で言うパワハラはされていたし、多分してた。

逃げるように誰かに寄りかかっても、満たされることはない。

もっと昇れるのに頑張らない。
お前らは、そういう人間の集まりだ。

そうだね。
社会は、あの頃持ってた小さなプライドなんか簡単に潰しにくる。

ダルい人生。

ある年の夏、ふいに思い出した。
通勤電車に揺られながら、狭い空を見上げた時のことだった。
そういえば、あんな子がいたっけ。虚無な自分にはないものを持っていたエース。

別に郷愁にかられたワケじゃない。
ひたむきな高校球児を見習って改心したワケでもない。
朧げな記憶が蘇ったというだけの話である。

数年に一回くらいのペースで、その記憶は気まぐれのように私の意識をかすめた。もう、顔も名前も思い出せないくらい遠い記憶だけど。

それはいつも、水平線の彼方でキラッと光っていた。

あの子が何者だったのか、調べるのは難しいことではなかっただろう。でも何となく、それはしなかった。


時は流れ、家庭を持って子育てに追われるようになってしばらく。
未知のウイルスが猛威を奮い始めた。

感染した者は漏れなく外出を制限されるほどの威力を持つウイルスは、やがて我が家にも直撃した。

家にこもるだけの日々は、無気力に拍車をかける。
時間を知るため、暇を潰すため。テレビはつけっぱなしだ。

画面の向こうは、夏の甲子園。

テレビ観戦に興じる夫と子どもを横目に洗濯物を干している時、また記憶が意識をかすめた。
陽炎に揺れる後ろ姿。あの子は誰──。

家族が寝静まった頃、スマートフォンを手に取った。
その動きはすぐに止まる。
あの時、何年生だったか。私は、それすらも忘れていたのだ。
しかし、いろいろと試すうちに問題は解決した。

これまで確かめようとしなかった記憶が紐解かれる。

太陽が照りつける甲子園。
泥だらけのユニフォーム、エースナンバー、滴る汗。
あのとき、虚無だった私を揺さぶった眼差し。

「ねえ、久しぶり」

過去は、色褪せることなく目の前に広がっていた。

笑いが込み上げたのは、思いがけず彼の近影を目にしたからだ。
細身だった少年が、すっかり恰幅の良いオジサンになっている。

ねえ、久しぶり。

まあ、私もオバサンになったんだけどね。
気力に乏しいのは昔から変わらない。でも。
家族に囲まれ、細々と物を書いて生活する現在いま、まずまず納得の人生だ。

スマートフォンの電源を落とすと、現実に引き戻された。

今年も、夏が終わろうとしている。
来年の夏か、もっと先か。あの子は、これからも気まぐれのようにやって来るだろう。

キラリと光る記憶として。


《了》


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