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ヒカリとカゲ 箱入り令嬢の夢見がちな日常 第三話④

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第三話 お医者さま④


樫の木と涙

ヒカリとカゲは、無言で歩いた。

互いに示し合わせるでもなく、二人の足は無人の公園に向いた。

鈍色の雲から、堪え切れなくなったように雨が落ちてくる。

大きな樫の木の下に辿り着いた頃には、既にヒカリの目からも雫がこぼれていた。

「最初っから、そうしとけば良かったんじゃねえか」

意地張らずにさ。

隣で、カゲがそう言った。

「そっか……そうだね」

声に出したら、“泣きそうなもう一人の自分”はいなくなった。

簡単なこと。
ヒカリは、ずっと泣きたかったのだ。

大人みたいに笑ったり、奥さんに張り合おうとしたり、先生の家に突撃したり。

そんなことせずに泣けばよかった。
叶わないって知ったときに。

「すごい遠回りしちゃった」

「だな」

雨も、涙も。
とめどなかった。

奥さんのことを嫌いになれなかった。

当然だ。彼女は真先生が選んだ人で、美亜ちゃんのママなんだもの。

むしろ、あんなに図々しいお願いができたのは。

リラックスして話せたのは。

(少し、ママに似てたな……)

ヒカリは奥さんの中に、母親を重ねていたのかもしれなかった。

買えば何でも手に入るのに、作る手間を惜しまない。

絶え間なく愛情を注いでくれるひと。

奇しくも、ヒカリが両親を喪ったのは美亜ちゃんと同じ年頃だ。

壊そうとするなんて。
手を振り上げるなんて。
できるはずがなかった。

いつしか、ヒカリは声を上げて泣いていた。

カゲは、ただ隣に立っていた。

ポケットに手を突っ込んで、雨を見つめながら。


小降りになってから公園を出た。

屋敷に着くと、橋倉の小言が待っていた。

濡れて帰ってきた、車を呼ばなかった、帰りが遅かった、護衛としてどうなのか──。

「違うの、橋倉。これには事情が」

「うっせーな」

ヒカリが説明しようとすると、カゲが前に出た。

「これくらいの距離で何が車だ、めんどくせー」

カゲが不貞腐れた態度を取れば、橋倉は顔を真っ赤にしてさらなる雷を落とす。

「外で立っとれ!」とどやされて、二つ返事で耳を掘りながら勝手口へ向かう彼と目が合った。

──いいから何も言うな。

と言われている気がした。

ぼんやりする時間。
泣く時間。

カゲは、時間が必要なことを黙って察してくれた。

だから車を呼ばなかったのだ。

ヒカリは、少しだけ彼に申し訳ないなと思った。


勝手口の狭いステップに腰掛けると、カゲは煙草を咥えた。

一旦小降りになった雨は再び勢いをぶり返し、雨よけのテラス屋根からひっきりなしに雫が滴っている。

(……くくく。遺産、遺産)

彼は、ゆっくりと煙を吐き出した。

例の話を、まだ本気にしている泥棒である。

令嬢が医者のことを諦めたので、遺産が一歩近づいたと思っている。

(バカ執事め。俺様をこき使えるのもあと少しだぞ)

いずれ莫大な遺産が手に入るなら、どやされるくらい何ほどのこともない。

遺産を手にした暁には、あのうるさい執事を馬車馬のように働かせてやる。

カゲはほくそ笑んだ。
彼がご機嫌な理由は他にもある。

(尿意を気にしない生活。快適……!)

特に雨の日は、足元から冷えるから大変だったのだ。

「くくく。あーはっはっは!」

「やかましい!」

すぐに橋倉の声が飛んできたが、彼はしばらく笑いが止まらなかった。

風邪を引いて学校を休んだ。

原因は恐らく先日の雨だ。

ほんの数日前までは、何でもいいから体調を崩して通院したかった。

しかし、今となっては不本意である。

ヒカリは、カゲに伴われてクリニックに足を踏み入れた。

ぼんやりしたままソファにもたれる。

「なあ。俺、コーヒー飲んできてもいい?」

カゲがソワソワしながら言った。

体調が優れないヒカリは、「うーん」と適当な返しになる。

(飲み物くらい勝手に飲んでこればいいのに……っていうか何よ、あのウキウキした後ろ姿は)

頼りになるのかならないのか。

よく分からない男だ。

カゲの事情を知らないヒカリは呆れた。

彼は、尿意に悩まされなくなった今、後先気にせず飲み物を購入するという夢のような生活を堪能しているのだ!

「胡桃沢さまー」

ナースに呼ばれて中待合室に向かう。

「はあ? またヒカリですの?」

「げ。姫華」

彼女も風邪を引いたらしい。

顔が赤く、明らかに熱がありそうだ。

「アンタはどうして、いつも私の真似ばかりしてくるのよ」

「失礼ね。真似しているのはそっちじゃなくて?」

互いに体調が優れないためか、非難の応酬も続かない。

二人は押し黙ってソファに沈み込む。

姫華が先に呼ばれ、それぞれ診察を済ませた。

ヒカリは、誠先生に会ったらまた苦しくなるかもと思ったが、呆気ないくらい平気だった。

彼は、ヒカリにとって頼れるお医者さまになったのだった。

コーヒーを飲み終えたカゲは、クリニックに横付けされた業者の小型車を横目に院内に戻ってきた。

ヒカリは診察を終えたらしい。

業者がフラワーベースの花を入れ替えている。

白い壁に白い床。
至って普通の風景だ。

しかし。

「ん? う、がああぁぁっ……!」


久々に、来た──。

“なぜ”の二文字とさっき飲み干した缶コーヒーが、脳内でスロットのように回転する。

何らかの予感…

(あの医者、まだ何かあんのかよ!?)

カゲは、内股でソファに寄りかかった。

身体に水分を入れてしまったことを激しく後悔する。

しかもコーヒーだ。
コーヒーはヤバい。

それにしても、一体どこに危険が潜んでいるというのか。

カゲは、油断なく辺りに視線を走らせた。

患者や業者が出入りしている。

院内はいつもの風景そのものだ。

医者の方にまだ秘密があるにしても、ヒカリの方はもう諦めている。

ここで尿意が来る意味は何だろうか。

「カゲ? 終わったよ。しんどいから今日は車回して」

「お、おう」

ああ、トイレに行くチャンスを失った──。

(またやってる……。久々ね)

カゲの事情を知らないヒカリは首を傾げた。

彼は、身体をくねらせながら車の手配をしている。

きちんと車を回してくれるならいいかと思い直し、ヒカリは再びソファに沈み込んだ。


「お、おい。車が着いたぞ」

カゲが知らせた。

本当は、走って帰ってトイレに駆け込みたい。

「うーん。ありがと」

ヒカリがダルそうに立ち上がる。


「お嬢様、迎えの車が。大丈夫ですか」

姫華の方にも迎えが到着したようだ。

双方、正面のガラス扉に向かって歩き出す。

扉の前で、胡桃沢と冷泉が顔を合わせた。

両家の意地がぶつかり合う。

先に出るのはウチだとばかりに互いが進むものだから、入り口前は団子状態だ。

両家、睨み合い。譲る姿勢を見せない。

実にバカバカしい話だが、当人たちは必死である。

(どうでもいいから早くしろよおおぉぉっ!!)

トイレを我慢している彼は、互いの家の意地などどうでもいい。

デザインなのか何なのか知らないが、ガラス面に対して入り口が狭すぎるのだ。

カゲは、ガラスを叩き割ってやろうと拳に力を込めた。

一秒でも早く。

トイレのために──!

そこへ業者の男性がやってきた。

ダンボール箱を抱えているため前が見えていないようだ。

そのまま直進してくる。

「あッ」

「うわ!」

「きゃあぁっ!」

大量の花束が、雪崩のように落ちてきた。

待合室の巨大フラワーベースに飾る用なので、花の量がハンパないのだ。

バラの他に、ガーベラやトルコキキョウ、ミニヒマワリ、カラーなど種類も豊富である。

「ああっ、申し訳ありません!」

キャップを被った業者の男性はあたふたと花束を拾い始めたが、

「うわぁー、ど、どうしよう! 患者様の邪魔にならないようにって先輩から言われてるのに」

大失敗で頭の中が真っ白らしく、作業はなかなか捗らない。

「ああ、別に良くてよ」

姫華は作業が終わるまでのんびり待つつもりらしく、もう一度ソファに腰掛けた。

ヒカリは足元に落ちた花束を拾い上げている。

(良くない!!)

のんびりしている場合じゃないカゲである。

尿意のレベルが急上昇しているのだ。

コーヒーか?
コーヒーの作用なのか?

「ほらよ。ここに入れればいいか?」

冷泉家の護衛も協力して花束を片付ける。

ふと横を見て、彼は目を剥いた。

胡桃沢の護衛が、軟体動物並みに身体を捻っているのだ。

そして「コーヒーか、でもなんで、オカシイ」などと、聞き取れないくらいの声でブツブツ言っている。

(マジで何なんだ、コイツ──)

先日は麦茶ごときに至福の表情を浮かべ、今日は打って変わって絶望を体現。

狂ってやがる……。

一体どういう環境で仕事してるんだ。

冷泉の護衛は屈強な身体を震わせた。


「すみませんでした。お足元、お気をつけて!」

飛び散った花びらや水分をタオルで拭き取ると、業者の男性は床に膝をついたまま頭を下げた。

「構わなくてよ」

「ご苦労さま」

カゲが高速ステップで入り口を通過し、次に姫華とヒカリが悠々とクリニックを後にした。



「セレブの人って風格が違うなあ」

業者の男性が感心したように呟く。

「おい、お前。まだこんなとこにいたのか」

「す、すみません!!」

同じ業者のツナギを着た男性が血相を変えて飛んでくると、彼はまた頭を下げた。

花束をぶちまけてしまった彼は、どうやらまだ年若いアルバイトのようである。

「シーッ。病院では静かにって言ったろ」

「はい!!」

「まったく……。さ、続きをやっちまおう」

二人はせかせかと院内に戻ると、仕事に取り掛かるのだった。


胡桃沢邸に辿り着いたカゲは、便器にまたがったまま絶望していた。

また尿意に苦しむ日々が始まったと思うと泣けてくる。

短い天国だった……。

クリニックでのあれは、一体何の危機を示すものだったのか。

考えていたら、またブルリと震えがきた。

同時にトイレの電気が消える。

滞在時間が長すぎて人感センサーが切れたのだ。

「畜生!」

無人だと見なされた。

センサーにまでトイレの近さをバカにされている。

彼は悔し涙を流しながら、前後左右に身体を揺らすのだった。


泥棒の小細工と、箱入り令嬢の目覚め

くだんのメロドラマは、本日が最終回である。

不倫男の妻がついに陥落。

不倫(バ)カップルの障害はなくなったかに見えた。

しかし。

まさかの最終回で脚本がさらなる迷走。

何やかんやあって、結局二人は別れることになるのだった。

青空をバックに『忘れない、あなたのこと』とヒロイン(?)の声が入り、不倫男は元サヤに。

包丁を手に目を血走らせていた鬼嫁は、突然性格が変わったかのように良き妻、良き母となり、慌ただしくも幸せな日々を送る。

ヒロイン(?)、そして同僚(チャラい)、御曹司など、それぞれの登場人物たちも前を向いて歩いていく──。

という、薄口すぎる群像劇もどきに仕上がった。

メロドラマじゃなかったのか……。

一体何を見せられていたのか。

多くの視聴者たちが置いてけぼりにされるドラマであった。


ーーー

「……」

「……」

橋倉が無言でテレビを消した。

さすがのカゲも言葉が出ないようである。

ヒカリはいない。

もうこのドラマを視聴する必要がなくなったのだろう。


「じゃあ、オッサンたちは最初から分かってたのかよ?」

カゲが言った。

ドラマの話ではない。
ヒカリの、恋の騒動の話である。

「当たり前だ。お嬢様は、ご両親に恥じるようなことはなさらない」

橋倉は胸を張って答えた。

「ふうん」

“若先生なら心配ない”とは、そういう意味だったのか。

ドラマの影響を受けたり、思い詰めて姫華と協力関係になったり。

ヒカリの言動にはカゲも振り回されたが、春平と橋倉は「黙って見ておれ」と言った。

万能か。と言おうとして口を噤む。

この場合、万能とは言わないなと思った。

彼らはただ過保護で甘いだけではなく、胡桃沢ヒカリという一人の人物を心から信じているようである。

こればかりは、付き合いの浅いカゲにはできない芸当であった。

(ああ、それで尿意が来なかったのか)

最後には、ヒカリが自ら降りることになるから。

実に確度の高い尿意である。

「カゲー。ここ?」

軽いノックの後、ヒカリがひょっこり顔を出した。

「やっぱりここだった。ねえ、クリニック連れてって」

「んあ? 薬なら俺が貰ってくるぞ」

「ううん。喉の腫れが酷いから、一応もう一度診せてって先生に言われてるの」

ヒカリはちょっと億劫そう言った。


クリニックに到着すると、膀胱がワヤワヤと騒ぎだした。

ただし、まだ余裕を持っていられるくらいのレベルである。

(いろいろあったから緊張してんのかな)

最近、胡桃沢邸や学校の方で急激な尿意が来ることはない(前もって頻回にトイレ行っとけば大丈夫)。

基本、平和な日々が続いていた。

(念のため飲み物はやめとこ)

カゲたちが来院した時間帯はたまたま患者がおらず、ヒカリはすぐに診察室へ通されて行く。

あることを思いついたカゲは、そろりと中待合室に近づいた。


「ありがとうございましたぁ」

「はい、お大事に」

ヒカリが診察室を出ると、北白河はパソコンに向かって処方内容を確認し始める。

すると、

「よぉ」

「うわあっ!」

突然、降って湧いたように黒服の男が現れた。

「あ、あなたは胡桃沢様のところの。ビックリするなぁ、もう」

カゲである。

「うちのジジイ、じゃなくてあるじから健康診断について問い合わせて来いと仰せつかっている」

無論、そんな命は受けていない。
口から出まかせである。

「し、しかし」

「個人情報のことなら大丈夫だ。俺は信頼されてるからな」

カゲがあまりにも自信満々なので、北白河は「そういうことなら」とパソコンに春平の検査結果を映し出した。

「ほう。この横についてる記号は何だ?」

「これは、──ということさ」

カゲの表情が曇る。

何やらブツブツと呟き始めた。

「くっそ。あのジジイ、くたばりそうもねえな」

「え?」

「いや、何でもない。じゃ、問題ねえんだな?」

爽やかな作り笑顔でカゲが訊いた。

「ああ。若者に負けないくらい健康だよ」

北白河は少し考えてから、「ああ、でも」と頭を抱える。

彼は、検査そのもののことじゃなくてねと前置きして、

「いささか説明不足だったかもしれない。実は、あの日は早く帰る約束をしていて……美亜に寂しい思いをさせていたから」

顔を上げてさらに続けた。

「記号のこと、胡桃沢様は気にされていなかったかい? 忙しすぎて用紙に凡例を載せるのも忘れてしまってね」

「ま、その辺は俺が上手く伝えといてやるさ」

カゲが親指を立てると、北白河は安心した顔で礼を述べた。

「その代わりと言っちゃなんだが」

揉み手で医者に擦り寄る。

「──」

「ああ、それくらいお安い御用だよ」


ヒカリたちがクリニックを出るのと入れ違いに、患者が増え始めた。

いつもの道を歩く。

こんもり緑を背負った公園も通り過ぎる。

ヒカリの顔は、いつになくスッキリしているように見えた。

ああ良かった、とカゲは思う。

この尿意レベルなら、帰ってすぐトイレに行けば充分間に合う。

ヒカリの通院はこれで一段落、当分クリニックに来ることはない。

彼の膀胱もしばらくは平和だろうと思われた。しかし。

「おーい! この前のセレブの人ーっ!」

小型車の窓から、先日の業者が手を振っている。

「あら。彼は」

「ぐぎっ! 来ちゃったあぁ……」

カゲが内股で電柱にもたれている間に、業者の彼が走り寄ってきた。

「先日は、ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでしたぁっ!」

彼はキャップを取って深々と頭を下げる。

「いいんです。あの、顔を上げてくださ、い──」

ヒカリの動きが止まった。

キャップを取った業者の彼は、アイドルと見紛うほど整った顔面だったのである。

「良かった、お詫びができて」

爽やかな笑顔にキラキラが飛ぶ。

「お、お詫びだなんて、そんな」

「あ、これ」

彼は背中に隠していたものを手前に持ってくると、空いた手をツナギでゴシゴシと拭った。

「俺が初めてアレンジしたものなんだけど、良かったら受け取って」

「まあ、きれい」

ヒカリの顔がパッと輝いた。

彼がヒカリに手渡したのは、ミニサイズのブーケだ。

赤いバラがラウンド状に配置され、オシャレな包装紙に包まれている。

「どうもありがとう! あなたは、お花屋さんなの?」

「これからなるんだ」

照れ臭そうな笑顔の破壊力たるや──。

「素敵。私、きっとお買い物に行くわ」

潤む瞳は、すっかり恋する乙女のそれである。

「ああ。待ってるよ。それじゃ!」

「がんばってねーっ!」

清涼感あふれる出会いのすぐ横で、カゲは内股でステップを踏み続けていた。


♡エピローグ♡

「泥棒! おい、泥棒!」

春平と橋倉が、背中に引っ付かんばかりの勢いでついて来るのは分かっていたが、カゲはトイレへ直行した。

もう余裕がなかったのだ。

「トイレなどどうでもいいだろう!」

ドアをバンバンされる。

「ちょっとくらい待っとけや、せっかちジジイどもが!」

カゲは激昂した。

春平たちが、トイレの苦労をまるで分かっていない発言をしたからだ。

「来い!」

トイレから出ると、橋倉に首根っこを掴まれて書庫へ連れて行かれた。

カビ臭い、カゲの部屋である。

「今度の相手は何者だ」

春平が押し殺した声で問う。

ヒカリがブーケを抱えてルンルンで帰ってきたので、次なる敵が現れたと察知したのだ。

「花屋だ」

「くっ」

橋倉が書棚に拳を打ちつけた。

「自らの得意分野でお嬢様をたぶらかすとは、卑怯な……!」

「これって卑怯っていうのか?」

カゲはダルそうに壁にもたれた。

春平がキッと顔を上げる。

「そもそも貴様は何をしていた? ヒカリが危ない目に遭っていたというのに」

内股でステップを踏んでいた。
危なかったのは膀胱だ。

「そんな下心のある奴に見えなかったぜ?」

しかし本当のことは言えないので、とりあえずそう答えておく。

「甘い! 貴様は分かっとらん!」

「おっしゃる通り」

橋倉が目を光らせた。

「見たところ、あのブーケには赤いバラが六本」

「何で、んなもん見てんだよ?」

「赤いバラの花言葉は“あなたを愛している”。本数によっても様々な意味があるが、六本は……」

橋倉が言葉を切る。

春平がゴクリと唾を飲んだ。

「六本は、“あなたに夢中”──」

「ぬうぅ」

春平が難しい顔で腕を組む。

「気持ちわりーな」

カゲは眉をしかめた。

オッサンが「愛」だの「夢中」だの言うからである。

「何でそんなこと知ってんだ」

「万能なのだ。橋倉は」

「そこまで博識そうな男に見えなかったけどな。テキトーに作っただけじゃねえか?」

「とにかく! このことはお嬢様にはご内密に……」

「うむ、そうじゃな。花言葉など知ったらヒカリがおかしくなってしまう」
 
おかしいのはお前たちだろうと、カゲは思った。

茶番の予感しかしない。

「泥棒、聞いておるのか?」

「心してお嬢様をお守りせよ」

カゲは面倒くさそうに欠伸をした。

「頭悪いな、てめーら。花屋とガキがどうなろうと、認めなきゃいいだけの話だろうが」

彼は胸を張り、親指を自分に向かって突き立てる。

「ガキの相手は俺様。財産を受け継ぐのはこの俺様なんだからよ!」

彼は、まだあの話を真に受けているのだ。

約十秒後、書庫内は窓ガラスが割れるかというほどの怒号に包まれた。


「この……大馬鹿者が!! ワシがそんなこと認めるワケがなかろう!!」


「料理長! 塩を持って来い!!」

カゲは、二人の勢いで入り口まで追い詰められた。

「てめーが言ったんだろうが! 財産と一緒にくれてやるってよ!」

「愚か者めが!! あれだけ真に受けるなと言っただろう!」

橋倉は、料理長に持って来させた塩をカゲの口に塗りたくる。

「穢らわしい……!」

 
辛い、痛い、トイレに行きたい。

カゲは何とか橋倉の手から逃れると、口元を拭った。

めちゃめちゃしょっぱい。

「あーあー、そうかよ! 俺だって願い下げだ、あんなガキ!」

遺産の話があって以来、ヒカリには気を遣ってきたつもりだった。彼なりに。

口うるさいことは言わず、北白河のことを諦めるまで見守ってきたのだ。

しかし、それはすべて無駄だった──。

「やめたやめた! ジジイがくたばるまで時間もかかりそうだしな!」

カゲが投げやりな様子で髪を掻きむしると、春平がピクリと眉を動かした。

「何のことじゃ?」

「医者によると、オメーは超健康なんだとさ」

ここで、春平や北白河医師が気にしていた“記号”の話である。

この記号とは健康診断の各検査項目につけるアルファベットのことで、

A 良好
B 概ね良好
C 経過観察
D 危険
E 今すぐ病院へ!

という具合にレベル分けされている。

春平はほとんどAとBで、肝臓の項目で一つCが付いていた。

彼の年齢を考えればBやCが付くのは珍しいことではなく、同年代と比較しても超健康ということになるのだが。

業界のトップを走り続けてきた彼は、“A”が少ないことを気に病んでしまったのである。

しかも、北白河が忙しすぎてA~Eの凡例を載せ忘れたことも話をややこしくした。

……ちょっと人騒がせなところもある春平じいちゃんである。

「勝手に話を聞き出すとは何事だ! しかもなぜ黙っておった?」

橋倉がカゲの首根っこを掴む。

「フン。ダメージ食らったままの方が、くたばるのも早えと思ったんだよ」

「こやつ!」

春平がゲンコツを落とした。

「何しやがる、健康バカ! 元気ジジイ!」



「……カゲ」

戸口にヒカリが現れた。

鬼の形相である。
途中から話を聞いていたのだ。

──スパパパパパァーーーンッ!!

ヒカリの往復ビンタが炸裂した。

「アンタなんかこっちが願い下げなのよ! 気持ち悪いわね!」

カゲは知った気がした。

ドラマのセリフに出てきた『紙一枚』の重さというものを──。


「何も……ない?」

「ああ。まったく問題ない。健康体だね」

 

未だに腫れが治まらないカゲの頬を気にしながら、北白河が言った。

数日前、極秘でカゲの健康診断が行われたのだ。

無論、「近いから」と言うのは恥ずかしいので、自分も内緒で健康診断をしてほしいとだけ伝えた。

絶対にどこか引っかかると踏んでいたのだが……。

何も問題がないのでは治療することもできない。

「何か、心配事でもあるのかい?」

北白河がカゲと対面になるように身体の向きを変えた。

しっかり話を聞き取ろうとするところは医者の鑑と言っていい。

そしてイケメンだ。

「い、いや。何でもねえ」

頻尿だから、などと言えるワケがなかった。

西の空に白い月を見ながら歩く。

空の色は、彼の心持ちを現すかのように不穏であった。

(結局、俺は死ぬまで激チカなのか)

ならば、この身体の特性を活かして泥棒稼業に邁進してやるか。

居候先での遺産相続が不可能となった今、せめて他のお宝はゲットしなければ。

彼は悲壮な覚悟をもって、明日からも胡桃沢家に仕えるのである──。

そしてまた、めくるめく騒動に身を投じる羽目になるのだが。

それはまた、別の機会に。


◇第三話 お医者さま◇完


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