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自然農をして良かったこと

自然農と言うと大層な表現やけど、自然農を手法として取り入れた家庭菜園を試行してよかったことをまとめとく。

まだ初めて2年目の浅い経験なのでこれから変わってくことはあると思うけど、残しておく

良かった点

  1. 自然界と久々に向き合えた

  2. 自信を持って安心を担保できる

  3. 全てが経験値になる

  4. 都合よく行かないことが身に染みる

  5. 既存の社会システムと距離をおける


1.自然界と久々に向き合えた


まず平成生まれの自分として草木の名前を再度調べる、蚊に刺されながら手を泥だらけにするという行為が凄く懐かしいし、鈍ってた人生の仕切り直し感が得られる。土に触れることが素晴らしいかなんて知らないけど、凝り固まってきた今の自分に、子供の頃の無垢な気持ちを思い出させられ、マインド・リセットされる。

2.自信を持って安心を担保できる

これはそのまま。色んな諸説を気にせず(種子がどうのこうの、遺伝子組換えとかはあるかもやけど)農薬、肥料をあげてないので取ってそのまま水で土を落としてかじっても安心。人にも安心してあげられる。絶対的な安心。

3.全てが経験値になる


こんなことするまで当たり前にスーパーで数百円で売られている野菜を育てるのにこんなに労力がかかるなんて!という当たり前の感覚や、商品としてしか関わってこなかったものを1から自分で作った!という経験値だ。
その他には、これまで社会が生産性を突き詰めた結果としての土壌の在り方についての考証、そしてこれを生業とするために選ばなければならない農薬、化学肥料等への按配への気づき。
消費者側は有機とか無農薬とか、偉そうに選択するけど、生産者達は何を信じて何を優先するかの絶妙なバランスをもって辿り着いた答えに対して、一生懸命育てた野菜に消費者がどう挙動を取るかをみて一喜一憂してるんだろうなーということも垣間見えた。

4.都合よく行かないことが身に染みる


まず思った通り、本で読んだ通りならないよね。
気温?土壌?水の流れ?虫?病気?
素人にはわからないことだらけ。
ただ、野菜や自然界にはそのようになる摂理が存在してて、それは多面的な原因と結果が重なり合った結果である。
一概に一言、一つの理由で片付かない。
現に畝の半分上手く行くのにもう一方は育ちが悪いものもある。
現代に生きてると全てはググれば答えが出たり、それっぽい答えが山ほどあるけど、その土地、その状況の複合的な環境の産物が作物になってるのであって、意見は意見で参考にしつつも、実際に対象に向き合って観察し、あーでもないこーでもないと試行錯誤すること(気を張りすぎず)が大事だなって体験として思う。

5.既存の社会システムと距離をおける


まずもって野菜を生産し、生業とするということが経済システムとして合理的でない。これだけ手間かけて一つ数百円。または数十円!
合理的な生産性を突き詰めた結果、食の安全性、土壌の疲弊化、肥料だより、生産コスト(肥料、原油)等諸問題が、本来の野菜が持つ様々なポテンシャルに対しての臨界点に直面していると感じている。
そもそも、私も野菜を買っているのでそういう生産性の産物にはもちろん感謝している。
ただ、繰り返しになるが生産性を上げることを良しとする資本主義経済の限界も同時に感じる。

生産者が少ないから生産性の良い、多少色んなものを含んだ生産物をよしとする基準制定。これは社会が様々なデータを都合よく解釈し、あたかも正当性があるように見せているだけの可能性は捨てきれない。

なぜ生産者が少ないか。土地の配分が上手く回ってないから。気軽に土地って買えないでしょ?
財を持つものが大きな農業を行う社会も合理的だけど、個人が小さな家庭菜園を沢山行う方が「私は」多方面で気づきのある社会になるのかなと思ってます。
こんだけ耕作放置されてる土地があるのに所有権やらなんやらでそのまま放置されて、自給のための家庭菜園の機会すら阻まれる現状はもったいないなぁってつくづく感じます。
地目が田畑だったらもっと柔軟に人が売り買い、貸し借りできたり、土地の所有者が誰かわかる仕組みがあればいいのに。

まとまりのない感想文みたくなったけど、読み返すと「え、当たり前やん」で終わる内容だ。
ただ、普段意識していないと当たり前の感覚さえ鈍化して、気づけば既存の社会システムに自分が埋没してしまっている。
定期的にふと当たり前の感覚に気づき直るということ自体が、人生をただただ消費しない自己への再認識に繋がるのかなと爪の間の土を落としながら考える。


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