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砂の器

ネタバレ厳禁の方は要注意!

この映画を最初に見たのは、市内にある図書館の視聴覚ホールだった。月に1回無料の映画鑑賞会が開催されていて、そこで私はこの日本映画史上に名高い映像叙事詩と出会い、この映画を見た誰もがそうであるように、クライマックスの演奏会 ― 加藤嘉と子役の少年とが日本列島を放浪する無言の映像と、オーケストラによる悲壮なテーマ曲に、さらに丹波哲郎の語りに声を上げずに号泣した。
 
 今回、この映画を見るのは4回目くらいだと思うが、やはり初見時と同じように、あの問答無用の感動のクライマックスで泣かされた。あれは泣くなと言う方が無理だ。

小説である原作を映画の仕様に改編することを脚色というわけだが、「砂の器」は脚色が奇跡的なレベルで成功した作品として、日本映画史上でもベスト3に入るだろう。実際に映画の終盤における20分ほどの、父と子の放浪とその終焉を描いたロケーション映像が無ければ、この映画はせいぜい良く出来たミステリードラマの水準でしかない。製作と共同脚本を兼任した橋本忍の「逆転の発想」が、この映画を日本映画史上の不朽の名作にした。
 
 今回見終わって映画の印象や物語から受ける感動は、初見時とほぼ変わらないものだったが、新たに気付いた点が2つあった。

1つは丹波哲郎のユニークさ(個性)。この映画は終盤まで刑事による捜査の継続という形で、ある殺人事件の謎解きに終始するのだが、正直、映画の描写としては(推理小説ならともかく)退屈にならざるをえない。ところが実際に見てみると、この謎解きがそれほど退屈せずに見られる。いくつか要因はあるだろうが、最大の要因は事件を追う刑事を演じた丹波哲郎のユーモアとユニークさだろう。

はっきり言えるのは、この同じ役を仲代達矢が演じていたら、映画は破綻したということだ(皮肉としか言いようがないが、仲代は後にテレビシリーズでそっくり同じ役を演じている。勿論、私は見ない)。
 
 もう1つは殺人の被害者がなぜ面識のないはずの加害者に旅行先から進路を変更して会いにいったのか、という疑問の謎解きだが、「粗探し」を承知で言えば、やはりこれは不自然であると思う。

被害者がかつて共に暮らした加害者を記憶しているのは6歳か7歳の頃だ。被害者が映画館の壁に掛かっていた写真で見つけた加害者は、すでに30代前半の男性になっている。当然、本人も確信が持てないので二日続けて映画館に見に行ったという設定になっているが、それでも幼少時から20年が経過している人物を見分けるのは、ほぼ不可能だろうし、そもそも気が付かないのが自然だろう。
 
 これと同じ「不自然さ」は丹波哲郎の刑事が国立の療養所に加害者の父親を訪ねて行ったときにも繰り返される。

加藤嘉演じる父親は刑事から30代前半の息子の写真を見せられ、その場で息子だと気が付いて懐かしさのあまり号泣する。被害者と同じく父親もまた7歳くらいまでの我が子の面影しか記憶していない。ならば「・・これは誰ですか?」となるのが自然だろう。これらの欠点は例の感動のクライマックスの最中に露呈するのだが、正直、音楽と映像のコラボによる感動のパワーがあまりにも大きいので、それほどは気にならなかったというのが私の実感である。
 
 「砂の器」は映画という芸術において、時に音楽は映像以上の説得力を観客に与えるという代表的な例の1つだろう。私はこの映画を死ぬまでにたぶん、あと3回は見るだろう。

そして私が死ぬまでに、「砂の器」の主題である穢れを忌み嫌う日本人の心性(信仰)はおそらく変わらないだろう。何しろ「砂の器」が公開されてからちょうど半世紀が経っても、ほとんど変わらないのだから。
 


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