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「美しい」について哲学してみた。〜芸術家 岡本太郎氏が教えてくれたこと〜

はじめに

とあるオンラインコミュニティのウォールで
こんな問いが流れてきた。
 
「あなたにとっての美とは何ですか?」
 
気になったので立ち止まり、
思考を巡らせてみた。
 
このプロセスで感じたことがあるので
今回はそれを記事にしようと思います。

私にとって「美じゃないもの」は何か

まず自分が過去に感情が動いたことを
思い出すことから始めました。
 
人は感情が動いたことには
何かしら形容詞というラベルを貼っているものです。
 
うーん、あれでしょ。これでしょ。。。
 
いくつかリストアップしていく中で気づいたのは
「すごい」とか「素晴らしい」とか「きれい」「嬉しい」といった形容詞がつく出来事は多いけれど、「美しい」がつくのは少なかったということ。
 
また、別の観点からいうと「美しい」は
「自分が主体の体験」に対しては全然使っておらず、
「何かとの出会い」に対して使っていることにも気づきました。
 
そういう意味では、「美しさ」というのは
もし人生が、自分(内側)と自分の人生(外側)という風に分けられる
としたら外側に対して感じることなのかもと思いました。
 
例えば、私の場合は
誰かの態度(小説含む)や大自然の景色について
「美しい」と感じていました。
 
いずれも外側ですよね。
 
一方で、
大学時代に大きく感動した出来事が2つあるのですが
そのいずれも表現しようとすると「最高だった!」(形容詞じゃないじゃん 笑)となるんですよね。
 
自分に対して外見的な意味で美しいと使う人はいると思いますが、
自分の外見以外に美しいと使うのってどういう時なんでしょうね?
 
例えば、仕事については他人のに対して美しいといいますが
(主に職人さんの作品などに対して)
自分に対しては「いい」仕事とか「最高」という表現を使うと思うんですよね。
 
ちなみに、この「最高!」と似たカテゴリーの中にありそうで、
質が違うと感じるのが「嬉しい!」です。
 
このへんを考えだすと、どんどん広がって収集つかなくなるので
そろそろ本題に戻りますが、、、
 
「最高!」と「嬉しい!」の共通点は、
自分が主体のことに対して感じること。
 
異なる点は、「嬉しい!」は誰かとのやりとりの中で感じること
という「誰か」が存在するのに対して、
 
「最高!」は人というより、出来事や体験そのものトータルについて感じること。いいかえると「コト」ベースなのかも。
 
そう考えると、感動のプラス面に対して、「人」ベースと「コト」ベースという軸で分けられて、いろんな形容詞をマッピングできるのかも!?
 
なんて妄想も膨らんだり。
 
おおっと、いけない。もうやめます。汗

私にとって「美なもの」とは何か。 

上記で自分にとって「美しい」のラベルがついた出来事を振り返っていくのと同時に、美しいと感じた瞬間に自分に何が起こっているのかも思い出してみました。(マニアックですね 笑)
 
それで分かったのは、
思考よりも先に衝動がきているということでした。

衝動とは?
目的を意識せず、ただ何らかの行動をしようとする心の動きのこと。
(google検索より)

言い換えると、先に体の感覚へ訴えかけてくるものであるということでした。
 
そして、理由を説明しろと言われても
「理由がなく、ただそうだ」と感じるものでもあり、
そういう意味で絶対性のあるものだとも思いました。
 
また、先の考察を経て
自分の人生で見つけることができるものだとも思いました。
 
特徴をまとめます。
・体が先行している衝動であること
・絶対性のあるものであること
・自分の人生で見つかるものであること
 
では、
私にとって「美」とは?



・ 
 
・・・の話をする前に、
(ひっぱるね〜〜〜)
 
上記の3つの特徴の2つ目である美とは絶対性について
補足させてください。
 
この捉え方は確実に、ある芸術家の影響を受けています。
 
その方の名は、岡本太郎さんです。

芸術家に学ぶ「美しい」と「きれい」の違いとは?

昔、美しく生きたいと思っていた時期があり
「そもそも美しさってなんだろう?」と考えていました。
 
そんな時にたまたま書籍で岡本太郎さんの考えに触れ、
ビビビときたのです。
 
彼の著書から引用します。

「あら、いいわね」
「しゃれてるじゃない」
「まことに結構なお作品」
 
なんて言われたら、がっかりだ。
 
こちらは自分の生きているアカシをつき出している。
人間の、本当に燃えている生命が、物として、
対象になって目の前にあらわれてくれば、
それは決して単にほほ笑ましいものではない。

心地よく、いい感じであるはずはない。
 
むしろ、いやな感じ。
いやったらしく、ぐんと迫ってくるものなのだ。
そうでなくてはならないとぼくは思っている。
 
ぼくは『今日の芸術』という著書の中で、
芸術の三原則として、次の三つの条件をあげた。
 
芸術はきれいであってはいけない。
うまくあってはいけない。
心地よくあってはいけない。


それが根本原則だ、と。

はじめて聞いた人は、なんだまるで反対ではないか、
と呆れるかもしれない。しかし、まことに正しいのだ。

ただ一言、
「美しい」ということと「きれい」というのは
まったく違う
ものであることだけをお話しておきたい。
 
とにかく、美しいというのは、おていさいのいい、
気持のいい、俗にいうシャレてるとかカッコヨイ、
そういうものだと思っている人が多い。
 
しかし美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。
見て楽しいとか、体裁がいいというようなことはむしろ全然無視して、
ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動がおこる
のだ。
 
それはだから場合によっては、
一見ほとんど醜い相を呈することさえある。

無意味だったり、恐ろしい、
またゾッとするようなセンセーションであったりする。
しかしそれでも美しいのである。
 
本当の美人というのはその人の人間像全体がそのままの姿において充実し、
確乎とした生命感をあらわしている姿だと思う。
皺(しわ)クチャのお婆さんだって、美しくありうる。
 
鼻がペチャンコだろうが、ヤブニラミだろうが、その人の精神力、生活への姿勢が、造作などの悪条件も克服し、逆にそれを美に高める。
 
美人というのは本質的には女性の数だけあるとぼくは思っている。
もちろん男性においてもだ。
 
『自分の中に毒を持て』より 

また、岡本太郎さんは「きれいとは?」についても
著書の中で触れています。

『美の絶対感に対して、「きれい」はあくまで相対的な価値である。
つまり型にはまり、時代の基準に合っていなければならない。
 
<中略>
 
その「型」は時代によって変わるのだ。』
 
『自分の中に毒を持て』より

いかがですか?
 
当時の私は、漠然と感じていたことを
ズバっと言語化してもらえた気がして感動しました。
 
それ以来、私は「美しさ」というのは
突き抜けていて、何かと比べるという次元には
存在していないのだと思うようになり、
絶対性というワードがそこから出てきたというわけです。
 
「自分の中に毒を持て」は名著なのでぜひ読んでみてくださいね。

さいごに

散々引っ張りましたが、笑
ここまでを経ての私の美の定義を発表します。
 
ジャカジャカ〜〜〜〜、ジャーーーーンっ!! 

自分の人生の中でしか見つけることができない
体が教えてくれる、私にとって絶対的な衝動のこと。

説明は省きます 笑
 
そして、
この衝動という言葉にしようがない感覚をあえて言語化するならば、
「美しい・・・・」になるのだと思いました。
 
あえて、ね。
 
言葉がないと人に伝えることはできませんが、 
感覚をそのまま抱きとめて、そのまま分かち合う方法があったら
素敵だなぁと思う今日この頃。
 
今回は「美」に対する私の考えを紹介しましたが、
ぜひ自分の場合は?で考えてみてくださいね。
 
これからの時代は「私はこう思う」が自分を支えてくれると
思っているので。
 
では、また!
 



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