共感は2種類ある。そして、本当にグローバルな人とは?

 昨日、友人と話していた。その友人は、インターナショナルスクールで育ち、現在は海外を飛び回りながらサステナブルツーリズム、エコツーリズム、リーダーシッププログラムなどを仕掛けている。定期的に情報交換も兼ねて話していて、今回も色々な話題が出たのだが、その1つに先日私が参加したSHARE SUMMIT2019で得た知見があった。それは、ヨーロッパはアジェンダ設定がうまいということだった。「これが課題だよね!」と世界に対して打ち出す力が強いという意味で、わかりやすく言い換えると人が集まりやすい旗を立てるという感覚だろうか。
 これは、裏を返せば、そのスピーカーは日本人はうまくないと言っているのだが、もし実際にそうだとしたら「この違いは何だろうね?」という話になった。
 
 その時に浮かんだのは何かの本で読んだ地政学的な違いだ。日本というのは世界でも稀に見る島国に単一言語で生活している民族だ。言い換えれば、閉じた世界なのだが、閉じた世界のメリットは様々な文脈を深く共有できるということだ。察する・空気を読むといった言葉は、言葉にしなくても共有できている前提(文化的背景など)が多いと思っているから成り立つ。一方で、海外というのは同じ国であっても違う民族、違う宗教が入り混じっていることが当たり前である。また、(最近は日本も同様になってきているが)外見だけではその人がどの国の人なのか、どういう背景を持っているのかは判断できない。つまり、話さないと分からないのだ。それに、議論するにはまず、お互いの前提を揃えなければならない。だからこそ、自身の考えを言語化し、議題を立てて共有し、その上で話し合うというコミュニケーション力が高まることは必然だったのではないだろうか。そんなことを話していた。もちろん調べた訳ではなく、感覚レベルなので合っているかどうかは分からない。主張、ディスカッションというとアメリカも得意な人が多い印象が強いのでヨーロッパのそれとは違いはあるのかなど興味深い。
 
 また、コミュニケーションということで、この話に関連して思い出した記事がある。それは、「共感」に対する日本人の特徴について書かれたものだった。その記事によると、日本人は「共感」というものを1種類しか知らないそうだ。それは「私も同じ経験をしたことがある」というシンパシーによるものだと言う。言い換えれば、同質性に対して感じる共感のことだ。しかし、「共感」にはもう1つあり、それはエンパシーという「こんなにも価値観と世界観が違う私とあなたが一つの理解を得られたという協働の喜び」だそうだ。言い換えれば、異質性からくる「共感」である。実際、日本人が1種類しか知らないかどうかは別としてこの2つのカテゴリー分けは面白いと思った。
 
 というのも、私自身が経験上、人間が繋がりを感じる方法として2つのカテゴリーを見出しており、それと似ていたからだ。私の分け方は、その方法を女性的か、男性的かに分けて捉えるものだ。
 ここで言う女性的とは、感情を共有することで繋がりを感じる。多くの場合それは、過去のネガティブな経験、苦しみが扱われる。そういう意味で、上記のシンパシー(同情)というのと符合する。
 一方で、男性的というのは何かを実現することを共有することで繋がりを感じるというものだ。仕事でプロジェクトを共に成し遂げることで感じられる連帯感などがそれに当たるだろう。番長同士がタイマンをして、繋がりを感じることも当てはまる気がする。アメリカなどのディスカッションはタイマンのように喧々諤々とやるが、もしこれがラグビーのようなノーサイドの精神があれば、エンパシー的な「共感」になるのかもしれない。
 
 私の個人的な意見としてはこの国がどうとか、男性だとどうとか、そういう画一的な捉え方は適切ではないと思っている。なぜならば、現実はもっとグラデーショナルで、それぞれの要素がどういうバランスになっているかの違いがあるだけだと思っているからだ。その違いが国の個性になっている。個人に置き換えても同じだ、と思っている。だからこそ、何かを知る時に個別具体事例に囚われすぎず、そもそもどういう要素で構成されているのかを要素分解したり、抽象化して捉えて見るという視点が重要なのではないか。そうすることで、違いを違いたらしめている背景への理解が深まるし、その理解の上でコミュニケーションすることができる。
 そういう意味で、本当にグローバルな人というのは英語が話せることよりも、上記のような視点を獲得し、アップデートし続けられる人のことを言うと思っている。偉そうなことを書いているがまだまだなので精進していきたい。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?