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利休百首の一首から勝手に読み取る師匠としてのあり方とは?

千利休の教えを和歌にしたものとされている利休百首(利休道歌)というものがあることを知ったのは、こちらの首を知ったことがきっかけでした。

その道に入らんと思う心こそ 我が身ながらの師匠なりけり

<現代訳>
何事でもその道に入りそれを学ぶにはまず志を立てねばならない。自発的に習ってみようと言う気持ちがあれば、その人自身の心の中にもう既に立派な師匠ができている

こちらから引用

実際に口に出してみても心地よく、意味も含めて気に入っています。

師弟と呼べる関係において、「弟子にしてください」と言われて、師匠(厳密にはその時点で認めていないので師匠ではないですが)がけんもほろろに追い返すシーンをよくみる気がしますが、あれこそ、どのレベルで「この道に入らんとするか」を推測っているのだなと思えます。その想いのレベルがその後の取り組みにそのまま直結するわけですから。

先日、父性と母性について学ぶ機会があったのですが、その動画によると母性とは、対象に対してケアしに行くという行動をとるもの(もちろんこれだけではありません)、それに対して父性はケアしにいく人のケアをしたり、そもそも来てくれないところからスタートしている存在である、といった違いがあると語られていました。

この違いでいうと、師匠というあり方は(利休百首における、という前提はつきますが)父性的であり、先生という漢字で表してもいいような「先を生きている(待っているというより、歩き続けている方が適切に思える)存在」なのだと思えます。

また、個人的には最初の頃は師から学んでいるようであっても、やがて、師と「師にとっての道」との関係から学んでいくように変わっていくものなのではないか、と思っています。

このように書いてみて、ふと20代に出会い10年間に渡り、人生レベルで大きな影響を受けてきた師との関係が数年前に変わったことを思い出しました。

今の私は特定の師を求める生き方ではなく、どんな結果も受け入れながら、自身の道を歩んでいくという生き方へシフトしているのですが、それはある種、健全に師を忘れる行為に等しい、言い換えれば、守破離の離のようなものなのかな、と捉えていました。

しかし、実はそうではなく、今こそ、師が自身の道とどのように関わって生きてきたのか、から影響を受けるタイミングなのかもしれない、そんな捉え方が浮かんできて、驚いています。

早速、師の人生を辿ったものに改めて触れてみようと思います。

また、利休百首すばらしいのでぜひみてみて、お気に入りを見つけてみてくださいね。


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