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絵で伝える?文で伝える?

こんにちは。物語のアトリエの安藤陽子です。9月27日「世界観光の日」の出版をめざして、ユニバーサルツーリズム(高齢や障がい等の有無にかかわらず、すべての人が安心して楽しめる旅)をテーマにしたマルチリンガル絵本を制作しています。

前回は、「マルチリンガル絵本を作ろうと思った理由」について書きました。今回は、翻訳プロセスを通して改めて感じた日本語の魅力について書きたいと思います。


翻訳会社への依頼は断念

同じ物語を複数の言語に翻訳する場合、「日本語で書かれた原文をどう解釈するのか」、各言語の翻訳者さんに共通認識を持ってもらう必要があります。

最初は英語・中国語・韓国語・ポルトガル語の翻訳者がそろっている多言語対応の翻訳会社に相談してみたのですが、①依頼主が翻訳者に対して物語の背景や意図を直接説明する機会はない(伝える場合はすべて文面で用意し、翻訳会社のコーディネーターに転送してもらう)、②各言語の翻訳者をつないで方向性をすり合わせることはできないとのことでした。対面で打ち合わせできないという点にはさすがに不安を感じたので、1言語ずつ、個別に依頼することにしました。

コンセプトに共感してくれた4人の翻訳者さん

快諾してくださった4人の翻訳者さんは皆、多様な言語・文化を背景に持つ人たちが交流し、支え合う・学び合う場づくりに尽力している方々です。

4人とも、これまでユニバーサルツーリズムとの接点はなかったそうですが、「目に見えない心のバリアを超えていくには?」「差異のある人同士が協力し合いながら楽しく暮らすには?」という問いと日々向き合って活動している点は、著者さんと同じです。この企画がきっかけとなり「ユニバーサルツーリズム」というテーマに深い関心を寄せて下さいました。

翻訳者さんには、事前に以下の3点の資料を送りました。
①イラスト
②日本語の原文
③各ページの場面解説(登場人物たちの心情とその背景、ニュアンスなど)

翻訳作業に入っていただく前に、それぞれ2時間のミーティングを持ち、ひと通り解説した後、翻訳者さんから疑問点を細かく挙げてもらいました。

日本語は「説明」が足りなさ過ぎる?

日本語では、「主語」や「目的語」が省略される場合が珍しくありません。

この絵本のタイトルも然りです。「ほんとうに だいじょうぶ?」とは、誰が・誰に尋ねているのか(相手によって訳が変わる場合もある)。何について心配しているのか(たどり着ける?間に合う?段差があったらどうするの?みんなの足手まといにはならない?……)。打ち合わせでは、文章で具体的に説明した方が良いのではないかという意見も出ました。

確かに、あまりにも説明が足りないと、日本語話者ではない読者を、物語の世界に誘えないかも知れません。

しかし、一つ一つシチュエーションを限定して翻訳することが果たして最適なのかどうか……? 

心が不安で揺れ動いているとき、自問自答することもあれば、身近な誰かにすがりたくなる場合もあるでしょう。広く社会に向かって問いかけたくなることだってあるかも知れません。

また、ひとりで外出した経験がなければ、どんな困難が待ち受けているのか具体的に思い浮かべることは難しいような気もします。つかみどころのない暗雲のような気持ちを文で表現するには、どうしたら良いのでしょうか……

絵で伝えることと、文で伝えること。そのバランスをどのように取るかは、絵本を制作する上で、とても大事な意思決定ポイントだと感じました。

曖昧だからこそ広がりのある日本語

翻訳者さんには、1から100まで、すべてを言葉で説明するのではなく、イラストを手がかりに「もしも自分だったら……」と想像を膨らませながら読んでもらいたいという意向を伝えた上で、1ページごとに落とし所を相談しながら翻訳作業を進めていきました。

日本語の曖昧さは、時としてトラブルやすれ違いの原因になりますが、読み手に想像の幅をもたせる包容力も秘めていると思います。

自分とは違う角度から、この世界を見ている人がいる。
自分には想像もつかない気持ちを抱いている人がいる。

文(言葉)は、必ずしも世界の解像度を上げるためのものではないと、私は思います。物語や詩に触れると「世界には自分がまだ気づけていない領域が広がっている」ということを感じます。私にとって、本は「分からなさ」を与えてくれる大切な存在です。

この絵本の「曖昧さ」「分かりづらさ」が、どのように読者に作用するのか。出版後の反応に耳を傾けながら、今後も考えていきたいと思っています。