自信とか自己肯定感とかを超えるもの(後)
元アスリートのことばから
自分を深くみつめてたどりついた答えがこれだった。
自信とか自己肯定感とか
そんなものを超えてしまう「確信力」
私たちもこんなふうに確信をもっていたのに
いったいどうして疑うようになったんだろう?
やっと一歩進んだと思ったら
また新たな疑問にぶちあたる。
前回のつづきです。
だれでも確信力を持って生まれてきた。
なのに私たちはまるで先天的に持っていたかのように自分を疑いはじめる。
なぜ?
後天的にしくまれた「疑うこと」
赤ちゃんの頃の記憶はもうないのだけれど、こうして第三者を見ていると自分にもそんな時代があったことを思い出す。いまは10代の子供だってたしかに無邪気な幼少期があった。
では、いつ、どこから疑いがはじまるのか?
最初は親、家族。
友人、先生、教育システム。
メディア、上司、会社、常識。
恋人、夫婦、義理家族、世間。
「ダメだよ」「危ないでしょ」
「なんでできないの?」
「そんなこともできないの?」
「あてりまえでしょ。常識だよ」
「そんなこと無理でしょう」
「いい年してなに考えてるの?」
世の中のあらゆるところにしくまれている。
そういうと意図的な感じがするけれど、意識的なものも無意識なものもひっくるめてわたしたちの行く手を阻んでいる。どこにもひっかからずに大人になったのならあなたは相当ラッキーだ。
コートの厚み。枚数はどれほど?
わたしたちはかなりの「疑い」というコートを着込んでいる。もともとあった確信力などまったくかくれてしまうほどに分厚く、その存在さえも忘れてしまうくらいに重ねてぶくぶくだ。
ひとによってコートの厚みも枚数もちがう。
それだけあなたの人生とわたしの人生はちがう。
わたしはコートを着込んでしまった場所やひとを思い返しては「なんであんな環境に…」「なんであんなひとと…」そんなことばかり気にしていた。
でもいまならわかる。
コートを着込んでいることがわかったのなら
あとはそれを脱ぎ捨てるだけ。超シンプルだ。
遅ればせながらようやく季節が変わっていたことに気づいた。
「おや?もうコートはおかしいぞ?」
自分のエネルギーを注ぐのはどこか?
だれが、いつ、どこで私にコートを着せたのか?
それはもうどうでもいい。
過去はすでに終わっていて出来ごと自体を変えることはできない。
自分のチカラでどうにかなるものではないことに執着しない。生まれた環境も親も自分の努力でどうにかなるものじゃない。
私がエネルギーを注ぐのはそこじゃなくて「自分で変えられること」だ。
ぶくぶくなコートを着たまま、あーでもないこーでもない言っていても現状はなにも変わらない。まずはそのコートを脱ぎ捨てよう。
むかしにくらべれば相当身軽になったと思う。
自信とか自己肯定感とか正直どうでもよくなっている。
頭の中にその言葉が浮かぶこともほとんどなくなった。
それはおそらく「確信力」に出会ったから。
親の育て方も生まれた環境も超えてしまうほど力強いものだから。
そして
確信力はどこかに探しにいくものじゃない。
もともとあなたにちゃんと備わっている。
しずかに、ただ自分を信頼しよう。
何度も何度も
たちあがろうとする子供のように。
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