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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/12)学習ノート②

(ここまでの12月一照塾)
冒頭の約30分、定刻に間に合った人がちょっとだけ得をする、一照さんのearly bird talkの模様は、学習ノート①をご覧ください。

この学習ノート②では、先月からのhomeworkをシェアする「さすが道元、よく言った!」のグループワーク(前半)について振り返っていきます。

0. 11月一照塾からのhomework

『学道用心集』用心第九・第十を読んで、「さすが道元、よく言った!」と思う一文を選び、その理由とともに発表する。

4人ずつのグループを組んで、各自取り組んできたhomeworkをグループ内でシェアし、その中から全体へシェアしたいもの、あるいは一照さんに問いかけてみたい一文を選んで、全体へシェアする。

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1. 仏道に礙えられる

(塾生aさんのシェア)
「夫れ学道とは、道に礙えらるるを求むるなり。道に礙えらるるとは、悟跡を亡ずるなり。」
学道というのを、坐禅に取り組んでいる人が辿っていくプロセスであると考えた時に、「学びの道にある人は、仏道に妨げられることを必要としている」というのが、なかなか深い意味があるなと思って、この一文をピックアップしました。

学道と言っている段階というのは、頭でも学理を理解して学びを積み上げていくことだとか、自分の外側にある何かを探し求めていくというか…"悟りに向かって歩いていく"というような段階だと思うのですが、「道に礙えらるる(仏道に妨げられる)」というのは、それまで自分が積み上げてきたものが一度ご破算になるというのか、<私>の不可思議さに破られることで学道から仏道へ深まっていくスイッチが入るというようなことを言っているのかなと読み取りました。

「悟跡を亡ずるなり(悟りの跡形をなくす)」というのは、どこかにある「悟りという概念」を求めて積み上げていくのではなくて、一旦すべてが破られたあとにほんとうの<私>に出会う…というようなことを、こういった表現で言っているのかなと思いました。

グループのメンバーで、ピックアップしてきた文章が少しずつ違っていて、例えば、「仏道は人人の脚跟下なり(仏道とはそれぞれの人の足もとにある)」、"足もとに戻ってくることは大事だね"という話が出ていたり、また、「仏道を信ずとは、須く自己本と道中に在りて迷惑せず、妄想せず…」、"自己本というのが何なのかをはっきりすることが大事なのかな"という話をいろいろする中で、学道、仏道、自己の足もとというところがつながってきて、道元さんよく言った!と、ハタとひざを打つ…というところに落ち着きました。

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〔一照さんコメント〕
いまシェアしてくれた一文は、もし誰もここを取り上げなかった時にはこのあとの講読の時に僕が話そうと思っていたところでした。

道元さんは、この「道に礙えらるる」という表現をよく用いています。礙えらるるというのは「邪魔される」という意味ですが、ここでは受身形になっていますね。
普通は「私が道を歩く」、私が主語で道は目的語になっています。そういうふうにイメージすると、僕の前に既に予め道があって、その上を僕が歩いていくということになるけど、それだけだと語弊があるといいますか…。

◆ 居着きを許さない表現
道元さんは、通り一遍の言い方では満足しないのです。別の面から言うとどうか?と執拗に問う姿勢があります。言葉は必ず一面的にならざるを得ないということがあります。それを道元さんはよく知っているので、同じことを様々な言い方で表現します。ある書物で言ったことと別の書物で言ったことが矛盾するように見えるけど、実は同じことをそれぞれ別の角度から多面的に表現しようとしているのです。それが道元さんの特徴の一つだと思います。しつこい言い回しのように読めることも多いけど、だからこそ「よくぞ言ってくれた!」と思うところもあります。

ある一つの理解の上に居着くことを許さない。それが「道に礙えられる」ということです。道元さんを読んでいると、「分かった!」という感じを取り上げられてしまうんですよ。一つの理解の上に胡坐をかかせてもらえない。
いまシェアしてくれた一文などがまさに、ここまで「仏道とは」「学道とは」という一面的な理解を取り上げてしまう表現ですね。道のほうから私に働きかけてくるのです。

私からすると、右の方へ行きたいのに道がそちらへ行かせてくれない。今まで真っ直ぐな道を歩いてきていて「いいぞ、この調子で真っ直ぐ行くぞ!」と思っていたら、道がこっちへ曲がっているので、真っ直ぐ行けないんですね。

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これはなぜかというと、道と私が共同作業しているからなんです。
既にできている道の上を僕が一方的に歩くというのではなくて、道から私への作用、働きかけというものがあります。道が私に働きかけてくる方向を忘れちゃいけないよ、というのが「道に礙えられる」ということです。

「悟跡を亡ずる(悟りの跡形をなくす)」というのは、「道ってこうなってるんだ!」というある洞察があったとすると、そういう「分かった!」とか「洞察を得た!」というものが、道に従うことで取り上げられていくということです。

◆ 刻々更新するプロセス
他にも言い方があって、「向上」というのもそうです。「上に向かう」と書いてあるから"改善する"という意味にもとれますが、そうではなくて「刻々に更新される」ことを向上と言います。
「仏向上」という言葉がありますが、「仏は向上なり」と読んで、「仏というのは、刻々に更新されるプロセスである」という意味を読み取りたいと思います。

いはゆる仏向上事といふは、仏にいたりてすすみてさらに仏をみるなり。
(『正法眼蔵』「仏向上事」巻)

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2. 現成何必 - not always so

道が次にどちらに行くかは、決まっていないのです。
最近出た、鈴木俊隆老師の伝記にサインを頼まれた時に、僕はいつも「現成何必」という言葉を書いています。これは鈴木老師にとって非常に大切な言葉です。「何必」というのは英語で言うと「not always so」です。

not always soは、皆さんは英文法の授業で習ったはずです、「部分否定」の表現ですね。「いつでも必ずそうとは限らない」という意味です。「何ぞ必ずしも(何必)」の英訳としてはぴったりの言葉ですね。

「現成」というのは、"現に、いまここで"。
現にいまここで起きていることというのは、いつでも同じ調子ではなくて、必ず刻々に更新されているということですから、「さっきまで真っ直ぐだった道が、いまここでは曲がっている」…ということが現成何必だし、あるいは、「昨日の正解は今日の正解ではないし、今日の正解は明日も正解とは限らない」ということです。

これが、「道に礙えられる」の実際の中身だと思います。なので、この一文は僕も「道元さん、よくぞ言ってくれた!」と思っています。

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3. 私は道

澤木興道老師の言い方を借りると、道と私が共同作業しているのを一番感じられるのが坐禅だということです。道元さんの書いたものを読むと、坐禅に引き当てて考えてみると答えが出てくることが多いのです。

道と私の共同作業。例えば、坐っている姿勢は「重力と私の共同作業」です。重力や、床、空気、音、光、匂い、味、身体感覚、それから脳の分泌物である思考(思量)。道というのは、これら全部のことです。

そして、私も道の一部です。あるいは、私が道。

先ほど引用してくれた「自己本と道中に在りて…」というのは、これからボチボチ道に近づいていくというのではなくて、私という存在そのものが道であるということです。

イエス・キリストは「私は道である」と言っています。

トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 」
(『ヨハネによる福音書』14章5節~6節)

「私を通らなかったら、絶対に神様のところへは行けない」。すごい自信ですね。

キリスト教では「私は道」と言えるのはイエス様だけなのですが、仏教では「私は道である、みんなそうです」ということです。ここが、キリスト教と仏教の大きな違いなのですが、キリスト教もいずれは「イエスがそうだったように、私たちも」と言うようになるのではないかと思います。

山下良道さんとよく対談をしている、柳田敏洋神父という方がいらっしゃいます。柳田神父は「キリスト教的ヴィパッサナー」というのを教えていらっしゃいます。

僕も個人的に「イエズス会無原罪聖母修道院」に行ってお話をお聴きしたことがありますが、柳田神父は「イエスに言えることは、私たちにも言えます。それがイエスの教えです」というようなことを仰っていました。
「そんなことを言ってしまったら、火あぶりの刑にならないですか?」と言ったら、「むかしだったらそうでしょうけど、今の時代は大丈夫です」と仰っていました。
柳田神父は「イエスは、手本なのです」と仰っていたので、「えっ?それでは仏教と変わらないですね?」と聞いてみたら「変わりません」と仰っていました。

僕がまだアメリカへ渡る前だったので、かなりむかしのことですが、内山老師のお宅を訪ねて行ったことがありました。その時に内山老師が「一照さん、こんなものが届いたのだけれど、読んでみなさい」といって渡された文書がありました。

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それは、バチカンから全世界のカトリック信徒へ向けて発信された文書を奥村一郎神父という方が翻訳したものでした。奥村神父は内山老師と親交が深く、NHKの宗教番組『こころの時代』でも対談されている方です。カトリックの神父さんですが臨済宗の老師に参禅もされていた方です。

その文書には、このようなことが書いてありました。

最近、世界にいる信徒の中で、ヨーガや坐禅をしている人が増えてきているが、それは必ずしも手放しでは喜べない状況である。彼らの言い分は、神へ至る道としてそういった行法が役に立つというのである。
これらは信仰を必要としない自力の行であって、キリスト教の教義とは違うものなので、各教区で心して動向を見守るように…

柳田神父も、「インドでヴィパッサナーをやったら、初めて"神の愛"を感じた」と仰っていました。永年にわたって真剣な信仰の道を歩んできたのだけれどどうしても神の愛が分からない。ところがヴィパッサナーをしたら分かってしまった。これは皆にも教えるべきだ…ということで、「ここで瞑想をしています」と、修道会の会堂でマリア様の前に坐蒲が置いてあるのを見せてもらったことがありました。

奥村神父も坐禅をされていた方だったので、その文書を内山老師に見せたのですね。そういう内容の文書だったので、柳田神父のような人が出るのを警戒していたのですね。でも、その流れというのは止められないので、柳田神父のような人が出てきたというわけです。

アメリカでも、カトリックの信仰を持ちながら坐禅もする人というのはいました。神父さんでありながら、臨済宗の公案体系をすべて修めて「Roshi-Father ナントカ」という人がいました。
上智大学では、門脇佳吉神父とか、愛宮(えのみや)ラサール神父、ウィリアム・ジョンストン神父といった、上智で永年教鞭をとられていたけど、坐禅も"老師クラス"という方がおられます。

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4. art of just listening

(塾生bさんのシェア)
用心の第九と第十は、分量が少なかったとはいえ難しい文章だったので、なかなか理解ができていない中で、先ほどの一照さんのearly bird talkのお話を重ね合わせながら、「この言葉はこういう意味かな?」という話をグループで共有させていただいていました。

「仏道は人人の脚跟下なり」
(仏道とは、それぞれの人の足元にある)


先ほどの"第五図"のお話と重ね合わせながら、劇場の方ではなく身体の方に仏道はあるのかなといったところが、「道元さん、さすがだな!」と思った次第です。

〔一照さんコメント〕
きょう講読する範囲のところを、京都へ来る電車の中で読んでいて、もし誰もシェアしなかったら僕がその箇所について話そうかなと思っていたところがいくつかあったのですが、これもその一つで、皆さんは目の付けどころがよいというか、なかなかよいポイントをついていると思います。

「仏道は人人の脚跟下」、これが禅の特徴だと思います。
「仏道を自分の向こう側に置いて見るな」ということです。経典や儀式を自分の外側に置いて、それを理解するとか自分のものにするというような構え・態度それ自体が二元的になっていて、禅からは外れていると言われるわけです。

禅寺に行くと、玄関に「脚下照顧」と書いた立て札がありますよね。いまこの和室に上がるところの写真を撮ろうと思って、ぐちゃぐちゃになって揃っていない皆さんの靴を並べ直したところでした。

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ここで"足元"とは何かというと、「いまここで現に自己に起きていること」です。「いまここで、現に、自己に起きていることを照らし、顧みなさい」ということです。
これは、考えていたらできないことです。考えていたら遅れてしまうし、自分というフィルターをかけることになってしまうので、"いまここで現に"ではなくなってしまいます。

では、どうやってするのかというと、いわゆる"如実観察"なのですが、僕はこれを「聴く」と言いたいと思います。"観察"というとみる方になっちゃいますので、"聴く"の方がいいかなと思います。考えるのではなくて「ただ聴くという態度」、art of just listeningが大切だと思います。

坐禅で、床からの支えを見るとか感じるのではなくて「聴いている」。
もちろん、床が「ミシミシ」と音を立てることもあるでしょうけど、僕と床が接触している音を聴こうとしていると、そこから何か感じられるものがある。

体感を感じようとすると、「体感」といった時点でそういう限定がかかっているので、それをはずそうとして「体感を聴く」という言い方をしたほうがいいのではないかと思います。意外な感じがするから。
「重力の音を聴く」とか。

昨日は、「磨塼寺」のリアル坐禅会をやってきたのですが、「呼吸の音を聴いてください」というinstructionを使いました。

吸う息の音を聴きましょう。
吐く息の音を聴きましょう。
吐く息が終わったあとのシーンとした音を聴きましょう。

という感じで、全部「listening」という言葉遣いにしました。

音は聴くものですけど、光も聴くし、匂いも聴く。
香道では「聞香(香りを聞く)」と言います。いま僕が言っていることは、ここから借りてきているのです。

味も、"きく"という字は違いますが、「利き酒」というのがありますから、味も聞くものです。身体感覚も聴くし、考え・思量も音として聴く。全部を聴こうという態度です。
いまここで、現に、自分に起きていることを聴く。
こういう言い方をするのは、実は今日から、今からなんです。

ここで言う"自己"は、内外一如です。
なぜかというと、道と私の共同作業というのは、内と外が触れあっているところで行なわれているからです。この共同作業の全体が道なので、道の中には内と外が両方含まれている。道と私の共同作業の全体を聴くというのが、脚下照顧です。

思考というのは、いまここで起きていないことについて想像したり考えたりしているので、脚跟下からはずれてしまうのです。人人の脚跟下にぴったり一致しているのが坐禅です。それを標準にして日常生活を営んでいく。

人人の脚跟下は、料理だとか掃除だとか、必ず具体的な状況の中で起きています。『正法眼蔵』には「洗面」という巻があって、歯を磨くとき、顔を洗うときが仏道の修行です。いまここで自己に起きていることには切れ目がないので、「いつでもどこでも」になってきます。

僕らは必ずどこかを"踏んで"存在しています。踏むということは「あなたのいるところの現実に直接している」ということです。あなたのいるところ以外では仏道修行はできないということになります。
そこに道が現れているので、その"状況に礙えられて"、修行が行われるということで、それをかたちにしたのが作法とか型といわれるものです。

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5. 刀に礙えられる

よく例に挙げるのは、居合という武術の話で、「刀はその特性に従うことでしか抜けない」ということです。僕の自分勝手には刀は抜けないですよね。刀に教えてもらいながら身体の使い方を学んでいく。道具とうまく向き合うことで、道具が人間を成長させるというようなものなのです。

僕にとって便利なようにしようとすると、真っ直ぐではなくて丸い刀になるのではないでしょうか。わざわざ真っ直ぐな刀で、しかも、自分の腕のリーチよりも長い刀なので、腕をいっぱいに伸ばしても、刀の先がまだ鞘の中に残っている。物理的にはできないことなのだけれど、身体を練っていくと、抜けないはずの刀が抜けるようになって、そこに速さだとか力が生まれてくる…というような逆転現象が起きてくる。
道具は、わざわざ自分にとって不利な、使いにくい状態でできているけれど、その道具に礙えられて動きを練っていくと、簡単に便利よく抜けるものよりも速く、そして武術的に高度な動きを身につけることができる。

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日本の道具というのは、刀が象徴しているように「道具に礙えられて人間が成長する」ということが起こり得る。
お箸なんかもそうですね。最近の外国の人はお箸の使い方がうまいですよね、日本人の方が変なお箸の持ち方してるんじゃない?
道具の方から僕らに働きかけてきて、お箸に礙えられて、あのような指先の器用な動きができるようになるわけです。

それと同じことが、坐禅でも床や空気や光や音、それら全部に礙えられて、それによって僕らはこの地上でどうやって安楽に生きるかを学んでいるわけです。気温が高い日もあれば低い日もあったり、道が傾斜していたり、時々揺れたり…いろいろなことが起きているのだけれど、その全部が僕らに働きかけて「道に礙えられる出来事」として受け止めることができれば、そこから何かを学ぶことができるということです。

なので、仏道修行にはvacationはないということです。
円覚寺の横田南嶺老師は、「生涯修行、臨終定年」と仰っていましたが…臨終でも定年はないのですよ。次の生があったら、そこでまた修行するから。臨終でも修行は終わらないと思うので「生涯修行、臨終継続」とでも言ったほうがいいようにも思うので、今度横田老師にお会いしたら、畏れ多くも聞いてみようかと思っています。

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6. 証り(さとり)を生きる

(塾生cさんのシェア)
レジュメ下段の現代語訳のほうで読みます。

「仏道を修行する者は、まず仏道を信じなければならない。仏道を信じるというのは、自分自身が本来、仏道の中にあって、迷いも惑いも抱かず、妄想も抱かず…」
「それがまさに学道の根本の礎である。その宗門における風規(きまり)は、心のはたらきを止めて、仏法を知的に理解する方に向かわせないのである」


…と書いてあって、僕らはどうしても、言葉や文字を通して、アタマを使って自我を通してしか理解できないのですが、道元さんに、「アタマを使ってごちゃごちゃ考えるのは止めなさい!」と言われているような気がして、すごいなと思ってこの箇所を選びました。


〔一照さんコメント〕
僕はここはレジュメの上の段の原文で読みますね。だってそのほうがカッコイイもん(笑)。

仏道を信ずとは、須く自己本と道中に在りて迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減なく、誤謬なきことを信ずべし。

ここで「信ずる」というのは、"仏道というのはこうであると信ずる"という決断の話をしています。

先日東京で、「禅僧が読む『教行信証』」という講義をしてきました。
『教行信証』というのは、親鸞さんの主著ですが、普通は、

教:仏の教えを聞いて、
信:その教えを信じて、
行:修行して、
証:その結果としてのさとりを得る

という順番なのですが、親鸞さんは「教→行→信→証」という順番にしたところがユニークです。

この「信」は、実は「教」の前にもあります。

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道元さん的には、これから仏道に入っていって少しずつ少しずつ迷いや惑いを削っていく…という話ではなくて、ここでレジュメ下段の現代語訳を参考に読むと、「もともと最初から仏道の中にあって、迷いも惑いもなく、妄想も抱かず、道理に反する思いも抱かず、特別に得るものもなく失うものもなく、誤りもないことを信じる」ということです。

つまり、迷いも惑いも妄想もない、得るものも失うものもない、誤りもないという「証」は、実はもう最初のところにあって、そのことを「信じて」、そのことが書いてある教を読み、修行して、"なるほど、確かにそうだ!"ということで、ここで親鸞さん的に言うと「信①→信②」になるということです。

そして「証」はここで終わりではなくて、"証を生きる"ということです。
道元さんが"さとり"と言うときには「証」という文字をよく使います。
「あっ!」という間の一瞬で終わるような、特別な体験の瞬間ではなくて、それがずーっと持続して深まっていくプロセスとしての「証り(さとり)」を道元さんは言っています。


◆ 証りのプロセスの3つの相(aspect)

1. awakening:夢や幻想からハッと「目覚める」
2. purification:過去からの古いパターンを「浄化する」
3. maturation:人間として「成熟していく」

purificationについては、夢から目覚めるawakeningのあとに、むかしからの古いパターンを浄化していくプロセスがないと、ただの変人で終わるよ…と僕は言われました。
それからmaturationについては、ブッダは菩提樹下で悟った時の状態が、その後の40年の人生でずっと同じ状態のままだったのではなくて、浄化と成熟のプロセスをずっと続けて深まっていったのだと思っています。


◆ 如来の十号
レジュメを少し戻って、用心第九の最初のところに、

夫れ釈雄調御は、菩提樹下に坐して、明星を見ることを得て、忽然として無上乗の道を頓悟したもう。其の悟道の所は、声聞縁覚等の能く及ぶ所に非ず。

と書いてあります。

「釈雄調御」、これはお釈迦様のことです。
ブッダは10の称号で呼ばれていた、という「如来の十号」というものがあります。「調御」はその中の一つで、漢訳の仏典では「調御丈夫」と書かれています。"自らをきちんと調えている人"という意味です。

覚えている範囲で言うと、「応供」は供養するに相応しい人、「如来」は、真実からやって来た人という意味です。
あと、それから…

(塾生dさん補足)
「正遍知」「明行足」「善逝」「世間解」です。

〔一照さんコメント〕
あなた、難しいのばっかり言うね!間違ってたら責任とってね(笑)。
「正遍知」は、正しい、偏りのない智慧をもった人。
「明行足」は、進むべき道がはっきりしていて足元が明るい人。

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「世間解」はちょっとおもしろくて、これは「世間のことをよく知っている人」。だから、聞く人に応じて説法ができた。怒ったほうがいい人には怒るし、褒めたほうがいい人には褒める。その逆をやっちゃうとまずいですよね。怒るべき人に褒めたら増長してつけ上がるだけだし、褒めるべき人を怒ったら、せっかく出かかった芽をつぶしてしまう。

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7. 〈私〉の発見、《他者》の発見

「其の悟道の所は、声聞縁覚等の能く及ぶ所に非ず」、ここはブッダと二乗(声聞乗・縁覚乗)の人たち、いわゆる小乗仏教的な人たちとの違いを言っています。声聞縁覚の人たちというのは、ひとことで言うと「利己主義の優等生」。一生懸命頑張って修行して、自分の問題は解決したけど、それで終わっちゃった人たちですね。

ブッダは、そうではなかったのですね。

今年は、東京にあるスリランカ料理のお店を舞台に、ネルケ無方さんと一緒に『正法眼蔵』の「菩提薩埵四摂法」巻の講義を、"四摂法(ししょうぼう"と呼ばれる衆生を救う4つの徳目、「布施、愛語、利行、同事」について無方さんと僕とで2つずつ分担してお話するかたちで行ないました。

先日は最後の「同事」について無方さんがお話したのですが、その時に無方さんが言っていたのは、声聞縁覚も釈尊も、"世間"を出たことは共通しているのだけれど、ブッダはもう一度世間に帰ってきて、他の人も"第五図的な人間"に育てていこうというプロジェクトをやった…ということでした。

ブッダは、自分自身の"第一のプロジェクト"は終わったのだけれど、"第二のプロジェクト"がそこから立ち上がってくるような悟りかたをしたのではないかということです。

これは、〈ほんとうの自己〉の発見と同時に、《ほんとうの他者》も発見したということですね。《ほんとうの他者》の発見って、すごいことですよね。〈ほんとうの自己〉が分かっていないと《ほんとうの他者》も分からない。

「構成された主観と客観の世界」だと、他者というのは客観世界の構成要素の一つでしかないから、「私にとっての他者」でしかない。ハイデガーの言い方を借りるとすると「道具」、私のために存在しているリソースぐらいの意味でしかない。

他者の中に〈私〉をみる…それは想像でしかないのだけれど、私の〈私〉とはまったく違うのだけれど、おそらくそれと同型であろうというような、「私と同じ幸福を望み、私と同じように痛み苦しみを味わう」というような存在であろうという《私》として接する…それを「慈悲」と言ってもいいと思いますが、それが「ブッダがもう一度世間に帰ってきた」という意味合いです。


◆ 往相と還相
ブッダのさとり(証り)というのは、世間から出るばっかりではなくて、それでは終わらないような悟り方をしたので、二乗の悟り方とは違う、運動が継続していくようなさとり、「開かれたさとり」だったのではないか。

では、なぜブッダはこういう悟り方をしたのか?ということです。

出世間をして、それで終わり…という人は、ブッダの他にもたくさんいたはずです。ブッダのさとりがユニークだったのは、"こちらへ還ってきたこと"、これは、親鸞さんが言った「往相と還相」という話とつながってくると思います。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
(『教行信証』教巻)

……このあと、学習ノート③に続きます。


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