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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/05)学習ノート④

(ここまでの5月一照塾)
正法眼蔵の様々な編集形式や弁道話の位置づけにまつわる基礎的知識についての一照さんの講義は、学習ノート①にて。
4月一照塾の復習を踏まえつつ、「路線変更」を主題とした一照さんの講義の模様は、学習ノート②にて。
5月開講までの間に塾生各自で取り組んできたhomeworkをシェアするグループワークと、それへの一照さんのコメントの模様は、学習ノート③をご覧ください。

この「学習ノート④」では、一照さんの「弁道話講話」について振り返っていきます。

1. 道元さんの"問題"

道元さんにとって"一生の参学の大事"が分かった」というのは、何が分かったのかというと、「坐禅を見つけた」、それも「只管打坐の坐禅」を見つけたということですね。

道元さんが生きていた当時に主流として行われていた「悟るための手段としての坐禅」ではなくて、

坐禅が悟りそのものである
坐禅によって悟りが具体化している


…という、「図と地の反転」が起きて、道元さんの中で坐禅観がガラッと変わったということだと思います。

道元さんが問題にしていたのは、やはり先ほど言った「第一義的接触と第二義的接触」のことだと言ってもいいと思います。

第一義的接触を、道元さんが生きていた当時の仏教の状況に照らして言うならば「本来成仏」。もう既に神(仏)と接触しているのだから、今さら改めて神(仏)と接触する努力をする必要はない、とする考え方ですね。

道元さんが修行を始めた比叡山延暦寺は、天台宗の総本山で、天台宗は「法華経」を所依の経典とする教えです。
天台学というのは、法華経が最上の経典であるということを学問的に証明しようとしているような宗派です。その他の経典も研究しているのですが、最高のお経は法華経で、ほかのお経は法華経に導くためのstepping stone(踏み石)のようなものだ…というのが天台の教えです。
その法華経のキーワードが「本来成仏」。

しかし、よく現実を見てみると、諸仏あるいは祖師方は皆必ず発心して、修行して、菩提を得て、涅槃に入っている。
この「わざわざ修行をしている」という実態と、今さら改めて成仏する努力は要らないとする考え方は合わないということになる。この矛盾にどのように折り合いをつけていけばいいのだろうか?と道元さんは考えた。

もちろん天台の教学の中では、理論的には折り合いがついているわけなのですが、道元さんはそれを聞いても臍落ちしないのですね。ガッテンできない。日本中の様々な高僧に聴いてみたけれど、理屈を言うだけで、道元さんを納得させる人がいなかったので「中国にならいるかもしれない」と思って宋に渡った。しかし、道元さんが直面していたレベルの疑問に真剣に取り組んでいる人は中国にもいなくて、ほとんど諦めかけていたところで天童如浄禅師に出会って、師と弟子の「契合」が起きたのです。

そうなれば、もうほとんど仕事は終わったようなもので、あとは時が熟するのを待って、「一生参学の大事ここに終わりぬ」、道元さんの問題が解決したということになるのですが…では、何が解決したのか。

それは「第一義的接触と第二義的接触の関係」と言ってもいいし、道元さんの当時の大乗仏教と上座部(小乗)仏教それぞれの"行き過ぎの状況"の乗り越えと言ってもいいでしょう。

最近、プラユキ・ナラテボーさん(テーラワーダ仏教僧、タイ「スカトー寺」副住職)と「大乗と小乗を乗り越える」というテーマで「ダーナnet」というWebメディア上で全5回にわたって対談をしたのですが…


2. 上座部(小乗)仏教の行き詰まり

「修行」と「悟り」の関係について、上座部(小乗)仏教と大乗仏教とで2つの極端な行き過ぎ・行き詰まりがありました。
まず、上座部(小乗)仏教の側の分かりやすい行き詰まりの側面は「修行は、悟り目指して頑張ることだ」というもの。

修行の最後に悟りが待っているから、そこまで一生懸命ダッシュしていって、悟りというゴールテープを切る…「涅槃目指してガンバレ!」というモデルですね。

涅槃に至らないところは「生死(しょうじ)」といって、当てになるものは何もなく、すべてが変化していて、浮いたり沈んだりするところです。一方、涅槃というのは時空を超えた世界なので、変化がありません。

このモデルではそのように考えないと、論理的に困ることになる。
涅槃が条件によって現れたり消えたりしていたのでは、「涅槃が最終ゴール」なわけですから、ゴールしたらもう何も変わるところがないというようにしないと困るわけです。

「生死を離れて涅槃に入る」というモデルです。
「煩悩を無くして菩提を得る」と言っても同じです。私はこれを

「二世界モデル」

と言っています。

このモデルでは、涅槃に向かって進んでいなければならなくて、止まってはいけない。涅槃に至ることが至上命題なので、止まるということは修行のgive upになってしまいます。語弊があるかもしれませんが、これは言ってみれば"受験生マインド"です。所定の大学に入れなければ、あなたの受験勉強はムダでした…ということになってしまうので。

煩悩は私たちのこの身体から立ち上がってきますので、煩悩をなくすには死ななければいけない。この二世界モデルのアプローチだと、極端に言えば「死なないと最終解決はない」ということになります。

また、「この世に生きている限りは涅槃はムリ」と考えるならば、"否定"という言葉をあえて使うならば、「涅槃否定、成仏否定」にあたるわけです。
この世ではブッダになることはムリで、せいぜい阿羅漢までが関の山。それも、途方もなく膨大な努力をしなければならないか、あるいは前世からの功徳を積んでいる人でないと阿羅漢にもなれない。

生死の世界と涅槃の世界がふたつにハッキリ分かれている「二世界モデル」…これは、ブッダの教えとは違うのではないでしょうか。
ブッダは、生きている間に菩提を得て、30歳代前半で涅槃に入り、その後40年近くにわたって"愉快な人生"を送りましたから。

私の新しい本『ブッダが教える愉快な生き方』という…怒られそうなタイトルの本がもうすぐ出ますけれど(笑)。
曹洞宗国際センター所長も辞めたし、もう怖いものはないので(笑)(笑)。

こういった二世界モデルではおかしいじゃないか?という疑問から「大乗仏教」という流れが出てくるのですが、大乗仏教では、

「煩悩即菩提」とか
生死即涅槃」と言ったりします。

また、「維摩経」には、

「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得る)」
という言葉もあります。

§

3. 大乗仏教の行き詰まり

上座部(小乗)の立場の人からすると「そんなこと…ありえない!」というようなことを言うわけですが、一方、この大乗仏教の側にも「行き過ぎの状況」がありました。「もう我々は涅槃にいる。だから何もしなくていい」という"修行否定"の姿勢です。

小乗仏教の行き詰まりが"成仏否定"なら、大乗仏教の行き詰まりは"本来成仏"を盾にとって"修行否定"…。

「こんなことが「仏教」であるわけがない!」

道元さんが生きていた当時の仏教は、このように2つに乖離した、中道からはずれて行き詰った状況にあったわけです。
道元さんにとっては、この乖離状況の乗り越えが自身の課題であったのです。修行もしなければならないし、"本来成仏"も請け合わなければならない…。
しかしその当時、道元さんの周囲にいて「本来成仏」と言っていた連中は皆、「酒を飲んでも、女を抱いてもいいだろう?これが悟りの表現だ!」といって修行否定している…。

4. 道元さんが見つけた「第3の中道」

ブッダの中道というのは、感覚的な快楽に溺れるでもなく、苦行で身心を責め苛むでもない「中道①」。
これが龍樹(ナーガールジュナ、縁起と空の思想を説いた"中観派"の祖)になると、"あるでもなく、ないでもない"という「存在の態様」に関する「中道②」。

道元さんが探し求めて示したのは、「修証一等」という新しいタイプの中道でした。これで道元さんは得心がいった。

坐禅は修行でもあるし、本来成仏の証明でもある。

これで、道元さん的には問題が解決したというわけです。

道元さんは相当悩んで、あらゆることをいろいろ考えに考え抜いて…ギリギリまで追い詰められていたのでしょう。そして最後にパッと扉が開くきっかけになったのが、宋での天童如浄禅師とのやりとりであったのです。

「弁道話」で今後読み進めていくところに出てくる"十八問答"は、すべて「成仏否定」の立場から出る質問か、「修行否定」の立場から出る質問から成っていて、それに対して道元さんはすべて「第3の中道、修証一等」の立場から答えている…ということになります。

道元さんにとっては、修証一等の立場で行じられる坐禅というのが最終回答で、「正法眼蔵」もすべてその立場で一貫して書かれているということになります。

§

5. 仏印マークの上書き

「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。」

「三業(さんごう)」というのは、「からだ・ことば・こころ(身口意)」の3つのはたらきです。
普通、私たちの三業についているのは仏印(ほとけのしるし)ではなくて、こういう言葉はないけれど、あえて言うならば「凡夫印」

この身体をオレの欲望のために使う。
この口を、オレの思い通りに人を動かすよう指図するために使う。
このアタマも、「こう言ったら彼女の心がオレになびくだろう」と考えている…。

全部「オレのため」に使っているではないですか。「オレが物足りようという思い」で三業を使うのは、仏印ではないですね。
私たちの身体や口やアタマには全部「凡夫マーク」がついているわけです。牛のおしりについている焼き印のような凡夫マークを自分でつけているのです。

坐禅というのは、その上から仏印を上書きしているのです。

仏印というのは何かというと、「自受用三昧のしるしをつける」ということです。自受用三昧というのが仏のあり方ですから。

「標し」というのは、坐禅の作法に則って、脚を組み、手を法界定印のかたちにし、口を閉じ、アタマも思いを手放していく…というようなことです。

そして、自受用三昧の中に浸り切るようにきっちり坐るときに…私だけの話ではないわけです。先ほど言ったように、私は世界を"生命体験"しているので、私がその状態になった時には、遍法界、私の体験している世界全部が「仏印マーク」になっちゃう!…という話になります。私のあり方と世界の相貌は、ひとつなのです。

「尽虚空ことごとくさとりとなる」。
ブッダは悟りを開いた時に何と言ったのかというと、まず「奇なるかな、奇なるかな」。英語で言うと「Wonderous! Wonderous!」。「Wow!」という感じの感嘆詞ですね。
それから、山も川も、私の周りの世界全部が私と同時に悟っているし、すべてのものが、如来が持っている智慧や慈悲の輝きをシェアしている(「一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す」)と言いました。

「世界の見え方がガラッと変わった!」
というわけです。それは、先ほども言った重力や空気や、六根を通してやってくる感覚と私との"関係"がガラリと変わったからです。

今までは「あれがない、これがない」というのを見つけるために眼や耳や鼻を使っていた。自分のコンプレックスを通して世界を見ていた見方が、すべて融解してしまって、そのままで世界を見られるようになった、というすごいことが起こったわけです。

こういった「坐禅の功徳」が、ブッダひとりに起こるのではなくて、きちんと坐禅したら、世界中が同時に悟るというようなことが一瞬でも起こるよ…ということが、この文章には書かれているわけです。あとは、その一瞬を"二瞬、三瞬、四瞬…"と拡大していけばいいということです。

§

6. 直証なるをもてなり

「しかあれども、このもろもろの当人の知覚に混ぜざらしむることは、静中の無造作にして、直証なるをもてなり。」

この文章も大事なところです。

坐禅した人がよく、

「ブッダが言ったような「一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す」とか、道元さんが「遍法界みな仏印となり尽虚空ことごとくさとりとなる」と書いているような、ドカーンとした感動的な体験が起こらないのですけれど、どこかやり方が間違っているのでしょうか?」

…というようなことを言うのですが、自受用三昧のあり方というのは、私が五感を通して対象として向こう側に見えるというようなものではないのです。向こう側に見えたら、それはもう"水くさい関係"になってしまっているというわけです。この文章にある「直証(じきしょう)」、直接触れているというようなことにはならなくなるからです。

私が使っている"タネ本"に載っている、その部分の現代語訳には、こう書いてあります。

「ではあるが、こうした悟りの世界がこれらの坐っている当人の意識分別に上ってこないのは、坐禅が静かに坐って何の思量もなく、作為もなく行われる直接の悟りだからである。」

その次の文章も大事なので読んでおきますと、

「もし凡流のおもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし、覚知にまじはるは、証則にあらず、証則には、迷状およばざるがゆえに。」

「普通の人が考えるように、修行と悟りとを別の段階とするならば、修行の時と悟った時とはお互いに区別して意識されるであろう。そのように意識に上るならば、それは悟りではない。悟りそのものは、思量分別の迷いでは及びもつかないものであるから」

"〇年〇月〇日に、〇〇の場所で私は悟った。あの日時場所が悟る前と後の境目だ"という人もいるでしょう。そういう体験的なことがあるのかもしれないけれど、それは道元さん的に言うと「悟りと呼んではいけないもの」ということになります。

私たちには必ず、その経験を自分のものにしてポケットに入れたいという気持ちがあります。そしてそれを、自分や他人に誇りたい。
「オレは得たんだ!お前はまだだろう?だからオレの方が偉い」というように。あるいは、ほかの人との関係でなければ、「昨日のオレは持っていなかったけれど、今は持っているから、昨日のオレよりいまのオレの方が偉い」というわけです。これは、「ひとかどの人間」を目指す我々がもつ根強い習性です。そういうスタンスで修行を考えたら"間違い"ということです。


§

7. 坐禅の価値、坐禅の当体

「問答1」の手前のところの文章は、私がよく引用するところでもあります。

たとひ十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

「無限の数の仏が一生懸命力を合わせて助け合って、無限の智慧を使って、たったひとりの人がちょっと坐っただけの坐禅の功徳の量を測定して知り尽くそうと思っても、とても見当もつかないだろう…」と書いてあります。

ましてや、自分がやっている坐禅を良いとか悪いとか思う自己判断は、当てにしない方がいいのです。アメリカで指導していた時にも、そういう人がよくいました。「私のきょうの坐禅はとても良かった!」と有頂天になっている人。うまくできなくて落ち込んでいる人…。

でも、それは心配しなくていい。
あなたの坐禅の価値は、あなたが判定できる外側にあるから。


私たちは、意識上の体験にとらわれていると、意識の外側で起きていることをないかのように思ってしまうのです。
私たちの知覚にしても、一般的に人間の耳が聞こえる音の可聴範囲は低い音で20Hz、高い音で20kHzくらいまでの間といわれていますし、光にしても「可視光線」というくらいですから、その外側、紫の外には「紫外線」があり、赤の外には「赤外線」という光があるわけですから。

坐禅が問題にしていることは、意識の上での体験と、意識の外側で起きていること、その全体の自受用三昧のありかたです。
坐禅の中で私たちの意識に映っているものはほんの一部で、「坐禅の当体」は、意識できることと意識の外側にあるもの全てを含んだ「全宇宙」なので、意識の中に入ってくることはないのです。

瞑想をしていると脳内のある神経回路が活性化して、その周辺の神経網が分厚くなる…ということが言われているのですが、でもそれは私が意識して「あそこの神経網が分厚くなれ」といって瞑想しているわけではないですからね。ある方法に則って心を使うと、それが縁になって、脳に変化が起こる…というわけです。


例えば、「皆さんは腸内の細菌や寄生虫に操られて生きている」というようなことが書かれた本が出ているそうです。「何かを食べたい」と思うのはなぜかというと、細菌や寄生虫がそれを食べたいと思っているからで、食べ物の好みというのは寄生虫が脳を操ってあなたに食べさせている…という科学的な実験結果があるそうです。そうなってくると「あなたって何なの?」ということになりますよね。

坐禅中は腸内細菌や寄生虫も喜んでいるのかな?(笑)
というわけで、私たちの身体の中にも宇宙は広がっているのです。こういうことは私たちの意識には全く入ってこないけれど、坐禅はそれをもincludeしている…ということを覚えておいてください。

坐禅の価値というのは、あなたが坐禅中に体験したことよりも、あなたが坐ったという事実にこそ無限の価値がある、ということです。

その時間を使って泥棒することもできたし、オレオレ詐欺みたいなことをすることもできたのに、その時間で人間ができる最高に尊い営みをやったという価値は、誰も測れない。

坐禅に対してこのくらいの意味付けを道元さんはしています。「人間ができる最も尊いことは坐禅である」という確信が道元さんの中にあった。だからこそ、「正法眼蔵」という長大な文章で、膨大な量の言葉を尽くして語り続けたわけです。

坐禅の価値は「すること」に意味があって、"したことによって何を得たか"にはないのです。

§

8. 出路に一如を行ずる - 日常のhubとしての坐禅

前回読んだところに、「出路に一如を行ずる」という言葉があります。

「いまをしふる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらむや。」

「出路」というのは、自受用三昧・妙法から出発して…ということです。
そして「一如」というのは、自受用三昧・妙法から出ていくけれどもそこから離れない…ということなので、これは「日常生活」と言えると思います。

自受用三昧の坐禅によって、第一義的接触を思い出し、第二義的接触の自覚に立って日常を生きる…というのが「出路に一如を行ずる」ということになります。

これで、坐禅が日常生活の否定ではなく、ほんとうに日常生活をきちんと送るためのハブ(hub、車軸)になっているわけです。

自転車の車輪があって、その中には何本ものスポークがあります。この一本一本のスポークが、料理だったり、育児だったり、仕事だったり、トイレにも行かなければいけないし…こういう様々な日常の活動が次々に展開しながら、私たちは日常生活を送っているのですが、それをまとめて、ひとつの意味を持たせているのが、車輪の真ん中にある、空っぽの中心軸…これが坐禅です。

自受用三昧の坐禅そのものは、日常生活とは全く関係がないし、絶対に触れることができない。空っぽで、日常生活的には全く意味がない。けれど、

すべての日常生活に意味と方向性を与えてくれているもの

として、坐禅はあるのです。

これがないと、生活の中でいろいろやってみても、バラバラで、忙しいだけ。方向性も行き当たりばったり。
坐禅だけが中心軸になり得るというわけではありませんが、念仏でもいいし、神への祈りでもいい。何か「それ自体は生活そのものではないけれど、生活を束ねて、統一してくれるもの」があるといいですね。

§

(参考資料)

西尾実さんという、国語の参考書などを書いておられる国文学者がいるのですが、仏教学者ではありませんが道元さんの著作を国文学の作品として非常に高く評価しています。
この西尾先生が、正法眼蔵の現代語訳を出されていますので、関心がある方は見ておいてください。

あとは、塾生の方が紹介してくださっている、道元禅師の著作を分かりやすい現代語訳にしてupしているWebサイトがありますので、そちらも参考にして下さい。


……このあと、学習ノート⑤に続きます。


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