見出し画像

彼女の鯖とピスタチオのパスタ

2015年の秋、食をテーマにシチリアをめぐる旅をした。家庭の台所で料理を学びたい、という私のリクエストに、パレルモでオペラ歌手の勉強をしている友人がコーディネートを引き受けてくれた。彼が、パレルモでの機会として紹介してくれたのが、B&Bを営むエヴァだった。メールには「エヴァの得意料理は、鯖とピスタチオのパスタです」と書かれていた。「シチリアで鯖?」と、その時感じた違和感は、後になって間違っていなかったとわかる。

パレルモの空港に真夜中に到着し、友人に連れられて、みんな寝静まったB&Bにチェックインする。翌朝、台所で挨拶したエヴァは、真っ白い肌のスウェーデン人の老婦人だった。40年前に、恋人を追いかけてイタリアにやってきて、それからずっとここで暮らしている。「もうイタリア人みたいものよ」と小さく笑った。今回の旅で、最初に家庭料理を教えてもらう相手が、イタリア人ではなくスウェーデン人であることに、一瞬拍子抜けしたけれど、それもまた面白い巡り合わせだと思った。

エヴァには、その日の夕食の時に「鯖とピスタチオのパスタ」を教えてもらうことになった。実は、シチリアの郷土料理に「イワシとフェンネルのパスタ」というのがある。たくさん獲れて安いイワシと、野生のフェンネルの組み合わせに、松の実とレーズンが加わる。一見、その料理と似ているようだけれど、シチリアの郷土料理に鯖とピスタチオの組み合わせはない。しかも、鯖は水煮缶を使うという。

小さいけれど清潔な台所で、エヴァは淡々と説明しながら、つくり始める。フライパンに、たっぷりのオリーブオイルとにんにく、唐辛子を入れてじっくりと香りを出す。大鍋に湯をわかし、ブカティーニという穴あきパスタを茹でる。フライパンから香りがしてきたら、鯖の水煮とパスタの茹で汁を加える。鯖がほどけたら、ピスタチオを大量に入れる。茹で上がったパスタをフライパンに入れて、少し煮込んでできあがり。食卓につくと、瓶に入った黒パンのパン粉をたっぷりかけるようにすすめられる。

「鯖とピスタチオのパスタ」は、とても端正な味だった。何百回もつくりつづけられた料理に特有の、衒いのない、落着いた美味しさ。ただ、素材のエネルギーがドーンと押し寄せてくるようなシチリアの郷土料理とは、あきらかに違う。その理由は、もちろん缶詰の魚を使っているからだろう。新鮮な魚が安価に手に入るパレルモで、どうして缶詰の鯖を使うメニューが得意料理なのだろうと不思議に思って尋ねると、彼女は答えた。「家にあるものだけでつくれるからよ」。
前菜のサーモンのサラダのために、友人と買い出しにいった近くの魚屋には、あんなに新鮮な魚介類がたくさん並んでいたのに。狐につままれたような気分のまま、友人とマッシモ劇場のコンサートに出掛けた。

翌日、また別の料理を教えてくれるというエヴァと、初めてふたりきりで話をする。どういうきっかけだったか、彼女が、ぽつりぽつりとイタリアに来てからのことを語り出した。到着したばかりで、まだイタリア語の勘も戻ってきていない私との会話は、なかなかスムーズに進まない。簡易な語彙を選んで語られる、断片的な事実だけで、彼女の異国での40年に思いを馳せることは簡単ではない。ただ、最後に彼女はこうしめくくった。「移民で、シングルマザーの私が、この街で生きていくということは、それはそれはハードなことだったのよ」。

唐突に、彼女の人生と昨晩の「鯖とピスタチオのパスタ」とがつながった。
仕事で疲れて帰宅した彼女が、一歩も家から出ることなしに、自分と息子のためにつくることができる美味しい料理。それが、この料理だったのではないか。
もちろん、買い物に行く時間すら惜しかったのかも知れない。経済的な理由だってあるかも知れない。ただ、近所の魚屋の店員とのやりとりすら、きついと思う日もあったのではないだろうか。
若き日のエヴァと、幼い息子が、鯖とピスタチオのパスタを前に向きあって座る食卓が、IKEAの什器で整えられたクリーンな台所の向こうに、ぼんやりと見えるような気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?