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共生の厳しさと可能性|ビッグ・リトル・ファーム


「ビッグ・リトル・ファーム」は、ロスアンゼルス郊外で、東京ドーム約17個分もの荒れ果てた農地を、生物多様性を実現した自然と共生する農場に再生していく夫婦のドキュメンタリー映画。シアターキノでの上映を見逃してしまい、残念に思っていたところ、オンライン上映会を見つけて、観ることができた。

少し前に、協生農法という「有用植物が育つ生態系を人為的につくり、食料を収穫しながら生物の多様性を豊かにしていく」という農法を知り、札幌の果樹庭にその農法を導入できないかと、この春に多品種の野菜の種を密植するというのを試してみたけれど、見事に失敗した。生き生きとした雑草の隙間に、小指の先ほどの人参の葉を見つけたときに、まあ、そんなに簡単に行くわけはないよな、と悟った。ちょうどそんなタイミングで、この映画を見つけたので、これは必ず見るべきだと思っていた。

映画では、この夫婦の農場再生の8年間を追うのだが、「理想の暮らしのつくり方」という、ソフトな副題とは裏腹に、コヨーテが鴨や鶏を食い荒らし、、ネズミが果樹の根を食べて枯らし、かたつむりが葉を食べて樹を丸裸にし、鳥が果実を食べ売り物にならなくし、山火事が農園に迫ってくる、など大変な問題がひっきりなしに起こる。ただ、それらの問題は、徐々に、コヨーテが鴨ではなくホリネズミを食べるようになり、鴨がカタツムリを餌にするようになり、タカが鳥を襲うようになり、というように、生態系の中で解決されていくようになる。あくまで人間の目から見ての「解決」だけど。もちろん、これからも問題は起こるだろうけれど、おそらく、この生態系の中で最適化されていくのではないかという期待を感じさせて、映画は終わる。

常に、自分の果樹庭のことを照らし合わせながら、この映画を観ていた。せっかくなので、考えたことを書き残しておこうと思う。

印象に残ったことのひとつめは、この農場の再生に重要な役割を果たした伝統農法の第一人者、アラン・ヨークが荒れた農地に生えている植物を検分しながら言った「この土地にふさわしくないものをまずは取り除こう」という言葉。共生とか生物多様性という言葉には、なんとなくみんなで仲良く、みたいなイメージがあるから、「取り除く」という言葉に、最初は違和感を感じた。そのシーンでは、細かい説明がなく、完全に理解できなかったけれど、その後、アランは必要ないと言ったけれど、夫婦が必要だと思って掘った溜池が、突然大量の藻の発生によって、魚もろとも腐ってしまうという事件が起こり、なんとなく理解できたような気がした。その土地の生態系において、ふさわしくないもの(基本は人間が持ち込む)というものが確かにあって、それはやはり毅然として取り除かなくてはいけないのだということ。やはり、果樹庭においても、取り除くべき草はあったのではないかということだ。

2つめは、生物多様性が自己組織化し、そのメリットを発揮するためには、想像よりもずっと多くの種類の生物が必要なんだということ。夫婦が最初に植えようと思った果樹は3種だったが、アランが植えることを勧めたのは75種、全ての農作物をあわせると200種の作物を育てることになった。飼った動物は、鶏、鴨、豚、ヤギ、犬、ふくろうなど。そこに、野生のコヨーテ、ホリネズミ、リス、そしてたくさんの鳥がいる。そして、もちろん何万もの種類の虫や微生物がいる。これだけ圧倒的な種類のメンバーがともにいるからこそ、自己解決できていくということが、ようやく具体的にイメージできた。逆にいえば、そこまで勢ぞろいしていないとすれば、完全な自己解決は難しい、つまり人間が助けるのは当然だということ。

3つめは、もし多様性が十分に確保できていたとしても、その歯車が少しずつかみ合い、バランスがとれ、その力が発揮されるまでには、時間が必要だということ。また、それをなるべく上手に進めるには、丁寧な観察が必要だということ。例えば、溜池が魚ごと腐って、これから鴨をどう養っていけばいいのか、となったとき、鴨がカタツムリを食べているところを発見し、果樹園に鴨を放す。今までは人間が必死にむしりとっていたカタツムリは、鴨が勝手に食べてくれる餌になった。やはり、その生態系における最適な解決は、実際にそこで起こっていることを観察することでしか、見つけられないのだということ。既存の知識は助けにはなっても、解決をもたらしてはくれない。そういう意味では、私の果樹庭の観察は足りなかったのは間違いない。

見終わって感じたのは、共生というのは、思ったよりずっと厳しいものだなということ。1対1で向き合ったときに、やるかやられるかという現実が確かにある。ただ、いじめられた鶏がそのコミュニティを抜け出して、豚と仲良しになったように、圧倒的に多様なメンバーがいさえすれば、どこかに幸福な組み合わせが存在する可能性はあって、それが連鎖していくことで、結果として、みんなが生き延びられるかもしれない、というところに、共生の希望はあるのかもしれないと思った。

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