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「働かない公務員」という幻影

公務員は働いている。僕たちが日本という国で暮らす上で、これ以上ないほど頑張っている集団だと思う。もちろん、押し並べて全員そうだということを言うつもりはなくて、どんな世界にも働きアリとキリギリスがいるのも確かだと思う。

しかし、コストカット、ボーナスカットと言う言葉と共に「公務員」のみなさんの価値が貶められていることがあると思う。企業経営に比べて圧倒的に安定した仕事であることは間違いないし、正社員で働く人よりも多くもらっている場合もあるだろう。

経済情勢の変化があり、市民感情として、給料の調整が必要な場合もあるだろう。だが、その際も決して「働いていないのに、もらいすぎている」と言う論理ではなく、「経済情勢が厳しいので、税収を下げて、市民の負担を少しでも軽減するために、少し削減させてください」と言うような論理ではないだろうか?

なぜここまで僕が公務員のみなさんを重視するのか。僕はこれが事実だと思った書くのだけど、今、SDGsを達成する上で投資すべきは民間ではなく行政であると思うからだ。

「持続可能な世界に投資するためには行政への投資が不可欠である」という主張を3つの理由で述べてみたい。

1、セーフティネットとしての行政

新型コロナウイルスの対応を担当することで一躍注目されるようになった保健所について先日、現役保健師の方と話していた。今なお、休日出勤を余儀なくされる日々だそうだ。

彼女の話では現在はチーム性で分業が進んでおり、精神や公衆衛生、難病などカテゴリ分けされて仕事をしているという。一見効率がいいように見える現在の保健所の体制だ。昔はどうだったのかといえば地区制であり、たくさんの保健師がいたそうだ。

この地区制の最大の特徴は「一人の人を一人の保健師がみていた」ということである。これは今風に言えばフィンランドの子育て支援「ネウボラ」に近い状態である。

この体制を敷く福祉上のメリットは現代の日本では測りしれない。なぜなら、「深刻化しないと見えてこない課題」というのが都市で発生する社会課題の特徴だからだ。

子供で言えば、不登校、虐待、孤食。高齢者で言えば孤立死、病気、認知症。このいずれもが脆弱な社会システムの中、「自己責任」と「プライバシー」という名目の元、通報されたり、周囲が代わりに助けを求めてきたり、本人が限界まで耐えてから見つかる。

そして、福祉職につく多くの人がため息をつく。どうしてもっと早い段階で見つけられなかったのかと。早期に発見し手を打つことができていれば、改善できたかもしれないのにと。

ただ単に保健師を増やせばいいという単純な話ではないけれど、それでも僕らの暮らしのインフラは建物だけじゃない。健康に暮らしている一般市民には映らない多くの問題への予防を公務員たちは担っている。この予防に投資することが人を健康なまま暮らせるようにし、健康に暮らせるからこそ社会、経済活動に参加できる。参加する人がいるからコミュニティは持続する。

2、倒産しない組織としての行政

コロナ禍の今、痛み分けのように公務員の給与やボーナスのカットが叫ばれている。もちろん、最初に述べたとおり必要な調整は行えば良いと思うが、行政の仕事はインフラを支えることで、ソフト面のインフラでいえば生活が保証されなくなった人々が最低限の暮らしができるようにすることだろう。

大変なこの時期こそ、困難な状況にある人の生活を支えている彼らの仕事には感謝しないといけないはずだ。

話を持続可能性に戻すと行政組織に投資すべきというのは先ほどの人員体制の充実に加えて、もう少し質的な話も含まれている。

現在の行政機構が「数字」をあげるための測れる仕事に注力をした結果、測れない仕事の質がどんどん落ちている。悲しいのは公務員の力量がこの「測れない仕事」にこそ現れる点だ。そして、仕事のやりがいもここに詰め込まれている。

これを「言われてないことをやる能力」と呼ぼう。例えば、「保健師の方であれば何人の住民を回ったのか?」「窓口業務であれば何件の相談を受けたのか?」などが「数字」にできる結果であろう。

「数字」にできない結果には次のようなものがある。「あの住民が病気医以外に抱えている生活リスクはなんだろうか?そして、それを適切に支援できるのは誰だろうか?」「今受けている相談は、うちの窓口ではどこまで融通を効かせられるだろうか?」などは「数字」にはならないが住民としては「丁寧に対応してもらえた」と感じる基準である。

しかし、言葉を選ばずいうなら公務員の仕事時間は有限である以上、これらは数字を上げることに貢献しないので「余計な仕事」となる。トップダウンで指示されていないのに、余計に住民の相談に乗るから仕事時間が遅くなる。仕事の時間が遅くなれば数字をあげられなくなる。数字をあげられなくなると評価が下がる。評価が下がると処罰が降るので余計な仕事をやらなくなる。余計な仕事をやらなくなった結果、住民サービスが悪くなる。連鎖しているので図にしてみよう。

行政批判の自己強化型ループ

このループから見えてくるのはより良い行政サービスを受けるために行った改革によって行政サービスの質が下がるという事態である。こんなことが起きているにも関わらず私たちは気づかない。

なんでだろうか?

ことは意外とシンプルだと思っている。そして、それが行政に投資すべき3つ目の理由だ。

3、翻訳機能としての行政

このような自体に気づかない理由はどのポジションにいる人も、その人が持っている視野に限界があり、全体像をつなげて考えることが難しいことにある。政治家は政治家の、公務員には公務員の、市民には市民の限界がある。

だからこそ対市民に対して、公務員のみなさんには公務員の視点から見えている自治体や国家の姿を政治家とは異なる目線で伝えていくことが必要だと思う。それが健全な民主主義を守るために必要だと思う。

できれば僕は現場の人の声が聞きたいし、その声の中に真実が隠されている面もあると思う。その最前線で起こっていることに僕たちが協力しあって解決すべき課題があるように思えてならない。

一方、対政治家に対しても市民の声を政治家に直接伝えるだけで良いわけではないと思う。というのも市民は多様なので、多種多様な様々なニーズが含まれているだろう。そのニーズを汲み取るには人の手を介した「翻訳機能」が必要だ。

言葉を言葉にすり替えるような翻訳は機械にでもできる。

でもそこにある「意味」を汲み取った「意訳」は人にしかできない。

人の心の奥に抱えた本当のニーズは「余計な仕事」を通じて組み上げられたニーズを政治家に「意訳」することがこれからの持続可能な社会に向けた公務員に求められる姿ではないかと僕は思うがみなさんはどう思うだろうか?

終わりに

行政の役割はその割り当てられた行政区画で人が住み続けられるようにすることだと思う。そこで今回持続可能性と行政を結び付けて書いてみた。

そして、行政を動かす、政治の役割は多様な市民の利害調整を行うことであり、公民で協働するNPOは社会構造の中で苦しい立場に置かれて人々に関する問題提起をしていくことだろう。

市民の役割はそれらの機能を監視しつつ、課題解決の主体として責任を引き受けていくことだと思う。私たち一人一人の市民が変わらない限り、どんな問題でも再生産され続けてしまう。

なぜなら、主権者は私たち一人一人の市民だからだ。会社で言うなら取締役会であり、株主だ。従業員として生活している人が多いと思うので、そのギャップは埋めがたいかもしれない。

でも、それぞれの自治体で、自治体を経営するような視点で市民と言う役割を、僕は共に引き受けていきたい。

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