レビュー:その悩み、哲学者がすでに答えを出しています

その悩み、哲学者がすでに答えを出しています https://www.amazon.co.jp/dp/4866510056/ref=cm_sw_r_cp_apa_i_TfYiDb97RTFED

なぜ読んだ

今は大して悩み事はないけど、悩み事に出会ったとき、どのように考えて対処すればいいかの参考にしたかった  

感想 

人類の歴史の中で初めて直面する悩みなんてないよね、一般人なんて尚更、だったら哲学から学ぼう

という本でした。
今、大した悩みじゃないとはいえ今後のこと、特に将来に対する不安なんか誰にでもあると思うんだけど、

こんな事は長い人類の歴史において散々悩み尽くされてきた問題であって、さも自分が人類の歴史で初めて直面するような問題だと捉えてる時点でお前は一体何様のつもりだ!

という事を自分に対して思った、という読後感。

悩みを一旦心から取り出して、手にとって観察してみるというのは非常に大切な事だと感じています。まずそこまでたどり着けないと何から手を付けていいのか、参照できる情報をどこから持ってくればいいのか、という事がわからないし、自分を客観視する視点が必要だと思うんす。

これは、そのタイトルの時点で1つの気づきを与えてくれるインパクトがありました。お前その悩み、もう何百年前に答え出てっから、というようなタイトル。このタイトルで視点は自分の外に飛び出してジロジロ自分のことを観察し始めるのではないでしょうか。

特に印象的だったのは巻頭の章、
アリストテレスの、将来に対する不安についてのアンサーでした。

将来の目的や計画をいったん忘れ、 今 この 瞬間 のやりたいこと、 やるべきことに 熱中 せよ」 というのがアリストテレスです。  アリストテレスは「将来の目的を最優先にした行為」を「キーネーシス(運動) 的な行為」と呼び、一方で「将来の目的を度外視し、今この瞬間に集中する行為」を「 エネルゲイア(現実活動態) 的な行為」 と呼んで、次のように言っています。
「エネルゲイア的な行為」 とは「 今、 自分にとって楽しく充実しているという状態」 がそのまま「 すでになしとげた成果」 になることだ、 とアリストテレスは言います。  たとえば、大事なプレゼンを控えて、最初こそ恐れをなしていたけど、無心で準備にとりくむうちにおもしろくなってきて、夢中で資料を完成させたら、プレゼン後に絶賛を受けてしまったとか。  あるいは、好きな異性に対して、ただ相手を楽しませたいと思って自分もデートを満喫していたら、いつのまにかいい雰囲気になっていた。そういった経験はないでしょうか。  これこそが「エネルゲイア的な行為」のふしぎです。目的を度外視してプロセスにのめりこむことが、(それとは逆の)「目的達成を優先する思考」が追い求める「よい結果」を、 あくまでも結果的に、 みちびいてしまう経験 なのです。
無欲にプロセスの作業を楽しむ。 手抜きをせずに、 一生懸命楽しみきる という人にこそ、高い──時には最高の──パフォーマンスが生まれ、自然と結果がついてくるのです。いい結果とはプロセスを楽しんだ おつり のようなものです。

自分が向いていると心から感じられる作業に全力で打ちこみ、 充実した手ごたえを感じながら毎日を生きている人 を、 世界が放っておくことはないでしょ う。

これまでのPOSTにも書いてきましたが、自分は、
「今を生きろ」系が嫌いです。
なんだか無責任な気がするし、こんなこと言ってる人ってすぐ人裏切ったりしそうでなんとなく信頼できないなって感じで。

ですが、ここ最近読んだ本の全てに、
今この瞬間に没頭しろ

と書いてあるので、この考えは改めたほうがいいのかなあとも考えたりしてます。

で、自分が嫌いなのは「今を生きる、を免罪符にしてる人」であって、「今に集中して高いパフォーマンスを維持してる人」ではない事がようやく分かったかな、とも感じてます。

要は人によるじゃん、って事なんだけどこの、

自分が向いていると心から感じられる作業に全力で打ちこみ、 充実した手ごたえを感じながら毎日を生きている人 を、 世界が放っておくことはないでしょ う。

このパンチラインやばくない?
めちゃくちゃ頑張りたくなるんだけど

世界が放っておくことはないでしょう

というように、やりたい事があるなら飛び込んで、没頭して取り組んだ結果、それが自分に向いているなら続けなさい、そうでなければ 新しいことやってみなさい

だと思うんですね。

やりたい事≒没頭できること

だとも思うので、

自分の心に素直に、やりたい事に没頭して、没頭して全力で取組んでできた成果物が
イヤイヤやってる人の成果物に負けるわけ無いでしょ

これめちゃくちゃ勇気もらえたわ

この本はこのパンチラインに出会うために買ったものだと言えるくらい良い出会いでした。
買って割とすぐにkindle unlimitedで読み放題対象になった事を差し引いても、良かったす。

TODO 

無欲にプロセスの作業を楽しむ
没頭する

ハイライト

古代ギリシャの哲学者エピクロス( 参照)は「明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう」といっています。
本当に自由な時間とはごく主観的な時間 のことであり、他人から言われた予定をむやみに詰めこむよりも、あとでふりかえるとずっと生産的で、充実した時間だったりすることがあるのです。

このデカルトのアンサーもかなり良かった

「 困難は分割せよ」
本気で取り組める小さなゴールに刻んでいったら、夢は夢でなくなります。  一つ一つは大きくはないけれど、確実な結果が待っている、成果の手ごたえのある作業になります。そうしたら、人生が楽しくなる予感がたしかなものとして得られるのです。夢のような手に負えないサイズ感を、このサイズなら身の丈で取り組めると思えるところまで小さくするのが、デカルト的アプローチです。
やりたいことを夢で終わらせず、実現したいと願う私たちにとって、これから行う すべての行動の裏に、デカルト的思考が 憑依 しているべき なのです。

今の自分が必要としていたのはこの考え方だったのかも知れない。
である型思考からする型思考へ変えていきたい。特に人付き合いや、自分を客観視する時には持っていたい考え方。俺は何ができる人?

戦後日本を代表する知識人の丸山真男〔※2〕 は、社会のありかたを2つに分け、「である」 ことを重視する社会 と、「する」 ことを重視する社会 があると考えました(『日本の思想』)。  たとえば保守的な大企業のような、終身雇用・年功序列の組織(といっても最近それらは崩れてきており、企業内の給与格差も広がりつつありますが) なら、そこの正社員「である」ことや、その会社の重役「である」ことが重視される、「である」型社会だといえます。  逆に、経歴・学歴など関係なく、どれだけのパフォーマンスを上げたかで給料も昇進も決まる、成長期のベンチャー企業のような実力主義の会社であれば、どれだけのパフォーマンスを「する」かが重視される、「する」型社会であるといえるでしょう。  社会のありかただけでなく、個人レベルでみても同様です。ひとりの人間のありかたが、その人がこれまでこういう経歴「である」という ステイタス(状態) によって判断されるか、その人がいま何を「している」かという パフォーマンス(行動) によって評価されるか、2つのとらえかたがあります。

無常。悩みすぎんなよ、でもあるし、浮かれてんなよ、でもある。


「原因によって生じたものごとは、 すべていつか消えてなくなる」


すべては「うまくいってもいかなくても、とにかくすべてのものごとは過ぎ去っていく」と思えれば、もっとラクにいくはずなのです。  世界が「無常」とわかっているなら、この世の中で実体視できるものは何ひとつなく、あらゆることが寄り集まっては流れ去る現象であると気づく。であるならば、 過去の記憶にも未来への不安にもこだわりをもた ず、「 今・ここ」 に集中する(念入りにリハーサルを繰り返すなど) ことで、「失敗したくない」「生き残りたい」といった煩悩から起こる過去や未来への執着のとめどない 膨張 を、 堰き止めることができるのです

今自分がやってる事はチャレンジとスキルのバランスが取れているか?俺が好きな人達はみんなこのバランスが取れているように見える、というか常に挑戦してる

人生をどうしたら幸せなものにできるか」というテーマに生涯かけて挑んだチクセントミハイは、人が生きていることを実感し、自己肯定感を感じられるのは「チャレンジとスキルのバランスがとれている時」であるという結論に至りました。

リアリストになれば袋小路にはならない。
悲しいけれど、追い詰められたときは徹底的に理屈で考えないといけない。そうしないとがんじがらめになり、動けなくなる。

非合理な常識よりも、 非常識な合理 を採る。それが自由への道である」という言葉を残しています。

自分が好きな、インスタグラマーのきらめく星のなったん氏は、このアドラーの課題の分離を地で行ってて最高!

あらゆる対人関係のトラブルは、このように他者の課題に踏みこむこと、あるいは、自分の課題に 踏みこまれる ことによって起こるとアドラー心理学は説きます。 「これは誰の課題なのか?」という視点から、 どこまでが自分の課題 で、 どこからが他者の課題なのかを冷静に見極め、 線引きする。

下に見てるヤツは勝手に下に見させておけばいいじゃないか」というように、他人の課題と自分の課題を切り分けられれば、問題は起こらないのです。  つまり、下に見られること自体が問題なのではなく、 下に見られることを自分の課題であるかのように気にしてしまうこと、 他人の課題が自分の課題であるかのように錯覚してしまうこと が問題なのです。「他人の課題を勝手に背負いこむから苦しくなるのだ」とアドラーは言っています。

人は自分に価値があると思う時にだけ、対人関係の中に入っていく勇気を持てる」といっています。そうであれば、あなた自身はまず、自分が外の世界で下に見られることに動じない、それだけの内面を充実させる必要があるかもしれません〔※2〕。それができれば、「課題を分離する」ことができるのではないでしょうか。



課題の分離ができている心理状態とは、「 自分ができることは努力すべきだ が、 どうにもできないことはどうにかしようとしない」 ということです。



たとえば、ひどいいじめに 遭い、「私は生きている価値がないんだ」と追いつめられてしまったとき。そんなときは、両者を自分から無理やり引きはなすために、その環境から思いきって逃げてしまった方がよいのです。 「より大きな共同体で考えればいい」とアドラーがいったように、学校や会社に無理に行くことは考えず、とにかくシェルターのような場所(図書館でもどこでも、居心地のいい特別な場所) に逃げこんで、生き延びることです。今いじめられている苦痛の最中にあるならば、死ぬことを考えるよりはるかにましです。そして、その苦痛をはねかえせるぐらい、あるいは切り離せるぐらい、「自分に価値がある」と思える状態に回復するまで、生き延びればよいのです。


あなたはあなたの課題を生きればよいのであっ て、 他人の課題を引き受ける必要はない。 あなたは誰の人生でもなく、 あなた自身の人生を生きればよいのです。

とにかく、この本ハイライト多かったです。
いい本でした!

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