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波瀾万丈な人生と語学②

前回の記事のように、対人恐怖症と病気に悩まされながらも前を見て突き進んで行くと、更なる試練をくぐり抜けなければならない状況がやってきました。

社会の厳しさ

大学をなんとか卒業して、国内で一度就職をしました(これも英語力のおかげです)。英語がなければ大学も行けず仕事もなく途方に暮れていたかも知れません。ほんとこの時はついてるなと思いました。

ですが、配属された職場は激務で有名なところで、酷いときは月の残業時間が120時間を超えたり、朝から深夜まで勤務があるのに休憩はランチとブレークの計1時間15分のみ…夕食はいつも深夜に帰宅してから冷凍食品を温めて食べ、すぐ寝てその日の朝にまた出勤という生活でした。

『何のためにここまでしんどい思いをするのか?』

社会人の洗礼を肌で感じていました。

元々痩せていた体はみるみる衰えていき、同期からは『大丈夫?』と言われ、体重も53㎏まで減り(身長は174㎝です)、気胸や謎な病気も度々発症しました。

海外渡航を決意

このままではいかんというのと、やっぱりまた海外に行きたいという願望が心を動かし、2年働いて会社を退職し、単身韓国へ飛びました✈

当時、これからは英語以外の言葉も話せなきゃ話にならんという考えがあったので、一番早く習得できるものを考えた時、出てきたのが韓国語だったのです。

そして、人生最初のプチプチ語学留学でできた海外の親友とした約束を果たしたいという気持ちもあり、渡航を決めました。

とはいっても韓国語なんて全然しゃべれないし、最初語学学校に通いましたが、お話にならないレベルでした。

カフェで注文するにもスタッフの言っていることが理解できず、注文を諦めたり、英語もなかなか通じないので、初めの数ヵ月は苦労の連続でした。

それでも持ち前の『頑固な性格』のお陰で、ここでも日本語禁止ルールを採用、日本人の知り合いにもできるだけ韓国語で話すようにしました。

そんな中、人生で最もショッキングな出来事が起こるのです。

親友の突然死

それは、学生時代の語学留学で初めてできた、海外初の親友の死の知らせでした。

彼はまだ当時29歳…過労死でした。

バンクーバーでBODY(相棒)と呼ぶ仲になり、帰国後もメールでやりとりをしていたのですが、

『次会うときは韓国語で話そう』という約束を実行したく、話せるようになってからと思い、今回はあえて韓国に来ていることを伝えませんでした。

その訃報を知った私はまさに『devastated(ひどく落ち込んだ)』状態でした。

約束を果たせなかったことへの後悔と、なぜ彼は死ぬほどまでに働いてしまったのか?…そこには知られざる韓国社会が関係していたのですが…。

韓国は過労死が非常に多い国で、日本以上に『目上の人の言うことは絶対』完全なる軍隊式縦社会なのです。昔の日本って感じですね。

教訓を今後の人生へ

この韓国生活で明らかに私に芽生えた変化がありました。

『人生はいつ終わるかわからない。だからできることは早くやらなきゃ。』

自身も体があまり強くないし、寿命も人よりは短いだろうとなんとなく思っていたので…できることは早い内からやらねば!という考え方に変わっていきました。

そこから、受け身な考えを一切やめて、とりあえずチャンスがあれば掴んでみることに…

自身で言語交換を探し、住むとこを探し、韓国人とずっとつるみ、食堂のおばちゃんと仲良くなり…ここでは、半分韓国人として生活するというルーティンが徐々に出来上がっていました。

それが幸い有効で、半年後には、韓国人に間違えられる程度まで語学力を上げることに成功しました。

その能力が買われ、とある留学センターの院長からスカウトされるのです。

『君は日本語と英語と韓国語できるんだね、ここで契約社員になってフィリピン行かない?』

ポジティブの塊だった当時の私はすぐにOKをしました。

この選択が、幸か不幸か私の人生に対する考え方を大きく変えることになるのです。

続く

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