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わたる世間は鬼ばかり、に非ず。北欧カフェにて

 朝のデジタルミーティングは9時15分から始まる。今朝、シャワーから出たのは9時09分であった。すなわちミーティング時間まで余す時間は6分間である。その6分間に身支度を整える。今日はビデオ会議にする、などの抜き打ちの場合もあるので、タオルを巻いたままだけというわけにはいかない。昨日も一昨日も同パターンであった。

 「このように時間に余裕のある勤務形態は、まさに自宅勤務の醍醐味だ」、とは決して思っていない。規則正しい生活を営む方がどちらかというと調子が良い。しかし、ここしばらくは不眠気味で就寝時間が遅くなっていた。その結果、起床時間も必然的に遅くなるという邪悪なスパイラルに陥っている。身に覚えがある方もいらっしゃるのではないか。 


 朝のデジタルミーティングにおいては、その日に行う業務を各自発表する。私はこう発表した。

 「前から注文してあったモニターがオフィスに届いているらしいので、それを引き取りに行って、その後は引き続きエラー分析をする予定です」

 「モニターの大きさと台数は?」、ミーティング進行役のオーラが訊ねた。私が、「27インチのものが2台」と返答すると、オーラはどのように運ぶつもりだ、と問う。

 「まだ深くは考えてないけど、例えばIKEAの袋に入れて、とか?」

 「君は27インチのモニターの大きさを把握していないようだな。しかも注文品だから大きい箱に入っているはずだ。たまたま今日はオフィスに来ているから車で君の家まで運んであげよう」

 オーラはそのように申し出てくれた。私は、そのようなことは大変申し訳ないので辞退させて頂くと断った。オーラには業務上(技術上)多大なお世話になっているが未だにお返しを出来る機会(技術)がない。そもそもモニターを私の自宅に届けることはオーラの任務ではない。

 「その通り。これは僕の任務ではない。しかし、たまたま僕は今日オフィスで勤務をしているため車もある。だから、今日は君の家にモニターを届けることが物理的に可能だから申し出ている」


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 物理的に可能とは言われても、同僚にそこまでして頂く筋合いはなかった。通常でさえ社員同士の連結の希薄な国である。再度辞退させて頂こうと「でも…」と切り出したら、

 「ストップ、それ以上は止めろ。日本人の美徳かなにかは知らないが人の厚意は素直に受け入れるものだ」

 グループの他のメンバーが峻烈な口調で私を牽制した。そのような強い態度を同僚から示された経験は今までにはなかった。私の「日本人の美徳」は彼らを相当いらつかせたようであった。私は観念してオーラの厚意を受けることにした。

 オーラは12時ジャストに家の前まで届けてくれると言う。私は11時半まで出掛ける用事があった。30分もあれば何かお礼の品を用意する時間もあるであろう。オーラはお礼など必要ない、とは言っていたが。


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 パンデミック時代に突入してから滅多に知人の家で食事をする機会も無くなったため、手頃な価格のワインボトルの買い置きがなかった。アルコール分の強い酒は、(何故か)山ほどあるが、モニターを運んでいただいて「有難うございます。お礼に山崎のウィスキーをどうぞ」、などと渡しても向こうが恐縮してしまうであろう。過ぎたるは猶及ばざるが如し、である。

 それではチョコレートの詰め合わせなどはどうであろう。クリスマスシーズンには美しい箱に入ったチョコレートが店頭に多く並ぶが、今はクリスマスではない。さらに、箱詰めチョコレートが売っている店には往復だけでも20分は掛かる。ケーキの詰め合わせはどうであろう、近くにカフェが何軒かある。しかし、その日は(北欧にしては)暑い日であった、ケーキは暑さには弱い。

 それなら、と

 結局、菓子パンを数個購入することにした。菓子パンなら大袈裟でもなく、グルテンアレルギーがなければ貰って嬉しいものの一つであろう、安いものでもないからである。カフェで買えば日本円では一個、400円から500円程度の価格である(ケーキは一片700円から1500円ぐらい)。

 どのカフェにすべきか試行錯誤している間にも時間が経っていた。その日は仕事もかなり忙しかったため、かなり焦っていた。財布一つを持って一番近くのカフェに走り込んだ。人気のあるところなので普段は長蛇の行列が出来ているが、その時間は珍しく他に客も居なかった。私はとりあえず丈夫そうな菓子パンを5つ包んでいただき、財布を開いた。


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 11時40分

 どういうわけか通常使うカードが見つからなかったので、代わりに普段はあまり使用していないクレジットカードを2枚財布にねじ込んで来た。

 一枚目のカードはカード支払い器から拒絶された。

 「そのカード、うちはアクセプト出来ないんですよ」、と説明された。もう一枚のカードにて再挑戦をしようとしたが、数週間前に送られて来たばかりのカードであったのでピンコードがどうしても思い出せなかった。

 若い女性の店員は「焦らなくて大丈夫ですよ」、という表情を見せて下さっていたが、私としては、この日は厄日ではないかと思い始めていた。実際、厄日であったことをあとで知ったのであるが。

 どうすれば良いであろう。家の中には一銭も置いていない。スウェーデンでは現金などは過去数年拝ませてもらったことがない。万が一、末娘が家にいたら、カードを貸してくれないであろうか、などと試行錯誤を始めた。

 その時、カフェの少し離れたところに立っていた若い青年が話し掛けて来た。彼とはまったく面識がなかった。

 「君、Swish持ってる?」

 Swishという携帯電話のアプリは、Swishを持っている相手の電話番号を知っていれば簡単に送金が出来る機能を持つ。スウェーデンにおいてそのアプリを使用していない人間は2割のみである。そして私はその2割を構成する一員である。「Swishは使っていないが何故そのような事を訊ねるのか」、と問うたところ、

 「僕が立て替えて払ってあげようと思ったんだよ。君はあとで僕にSwishしてくれればいいと思ったから」

 せっかく申し出てくれたのに拘わらず、私がアンティーク人間であるため厚意を受けることが出来ないことを詫び、家に走り戻った。お金を工面する方策はまだ浮かばなかった。

 しかし、家のドアを開けた途端、不思議な光景が視界に入った。

 通常利用しているクレジットカードがレシートの間に紛れて玄関の床に落ちていたのだ。今まで見えなかったことがまったく不可解なことであったが、人間は焦燥している時は盲目になってしまう、ということであろう。それを掴んで再び、カフェまで走り出した。

 11時55分


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 今回はあいにくカフェの中には先客が居た。マーフィーの法則によると、映画などでは、急いでいる時に限って行例の前の人が何かしらのトラブルを起こしてくれる。さいわい、この日は映画のようにドラマチックな日ではなかった。

 「三度目の正直になるかしら」

 さすがに店員の女性も、私がカードを器械に差し込んでいる間は息を吞んでいた。三度目か四度目の正直で私は晴れて菓子パンを5個を手にすることが出来た。

 11時59分

 私は振り乱した髪を多少整えてオーラを待った。オーラと物理的に会うのは8か月ぶりであろうか。  

 12時ジャスト、黒いボルボ車に乗ったオーラが私の家の前に乗り付けた。彼は、ほどよく日焼けをしていた。

 彼も、グループの他の男性同様、敏腕プログラマーである。自宅勤務が奨励されてからオーラは自分の所有する森の中の別荘から仕事をしている。秋季には数週間の休暇を取りマタギ如しの生活を営んでいる。その野性と人望で知られる彼も社内では男女両性から信頼されている。

 カフェのロゴが入った大きな紙袋に入れて頂いた菓子パンをオーラに渡した。彼は「ああ、有難う」と言って受け取ったが、喜んだのか否かは把握できなかった。宝くじで数千万当選しても、「ああ、どうも」の一言で感情を隠すことの出来る民族である。


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 スウェーデン人はヨーロッパにおける日本人などとも形容される。しかし、そのスウェーデン社会の中に身を置いてみると、日本人とはまったく異なる価値観を発見することも多々ある。スウェーデン人は自己中心であるとの感想も時々耳にする。スウェーデン社会には一生受け入れられないものだと、敗北者の荷を背負ったままこの国を離れた日本人の知り合いもいる。

 しかし、この日のように一日に二人から厚意を示されてみると、スウェーデン人という国民性に対して肯定的な評価を捧げてみたくなる。


 実は私が携帯電話に簡易送金アプリのSwishをインストールしない理由は、ひとえにセキュリティのためである。携帯電話には出来るだけ個人情報、送金機能等は入れないようにしている。さらに、Swishアプリを使用して送入金をする場合、お互いの電話番号を教えなければならない。すなわち、面識の無い人間に自分の電話番号を与えること自体がリスクであるはずである。

 カフェにてSwishアプリ経由の立て替えを申し出てくれた青年は、セキュリティ上のリスクよりも人助けを優先しようとしたということである。

 また、オーラは寄り道をしたため、おそらく夜遅くまで働く羽目になった筈である。


 この日は、ほぼ極限状態まで焦燥しながら時間に急かされた午前であったが、あいにくこれにはまだ続きがあった。この周章狼狽の中で、この日の午前中に予定していたもう一つのアポを完全に見落としていたのだ。

 無断欠席の際には5千円相当の罰金が課されるアポであった。こちらのほうは情けのかけらもない鬼であった。


ご訪問頂き大変有難うございました。

ご多忙の中、弊記事に訪問をして下さり本当に感謝しております。またフォローをする決心をして下さった方々にも非常に感謝しております。なるべく多くの皆様のところへもお伺いさせて頂きたいと思いますが、お返し等が大幅に遅れております。どうぞ気長にお待ち頂ければ幸いです。

今回ご紹介させて頂きたい方々のテーマは「Girls' night out」です。なるべくこちらのコーナーでは、一人でも多くのお世話になっている方々を、不定期に紹介させて頂きたいと考えております。今回は一晩中カクテルでも嗜みながら一緒に世間話をしてみたい方々です。単に人間が好きなため自由勝手に紹介させて頂いているだけですので、紹介のお返し等にはくれぐれもお気遣いなくお願い致します。


おりーぶさん、

私は記事を投稿した直後に、気に入らなくなってすぐにボツにしていたりしたのですが、おりーぶさんは私の投稿させて頂いた記事を常に正当化して下さいますので、最近はほとんどボツにはしていません。おりーぶさんは、実体験を落語のように面白く軽やかに語っていらっしゃいます。また、司会をなされていらっしゃるだけあって、とても落ち着いて素敵な声の持ち主です。


point2vue410(ポワン・ドゥ・ヴュ・視点)/パリ さん、

HNが長くて時々書き間違えてしまうのでうすが。note以外でもいろいろなところで多くの写真賞を獲得されていらっしゃいます。どの写真も絵葉書のように美しいので近寄り難い方なのかと思っておりましたが、とても気さくな方でチャットも弾みます。北欧がとてもお好きでいらっしゃるということで私を見つけて下さいました。写真だけではなく編み物も芸術作品です。

三名様を紹介させて頂こうと思っておりましたが、一緒に飲み明かしたい女性が沢山いらっしゃるのでどうしてもお一人に決めることが出来ませんでした。Girls' night outは危険なテーマでした。