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ランニングにまつわる悲喜交々

僕の周りには運動を好まない、または「運動はいいわ(遠慮するわ)」という人も多数いる。スポーツにまつわる仕事や活動をする人の人間関係としてはそうした「苦手」な気持ちを抱く人の数が周囲に多い方だと思う。そういう僕も「辛い」と思っている一人だ。特にロードでのランニング。ロードでのランニングをこよなく愛す友人も多いのできちんと書かせてもらう。

それは「辛いけれど嫌いではない」というのが一番正しい表現である。

ロードでのランニングを愛し、苦もなく日常化している人からすればきっと「どんなペースで走っているの?」という声が聞こえてきそうだ。残念ながらけして、いや、お世辞にも速いペースとは言えない。以前このnoteにも書いたが、僕は昨年自転車で大怪我をした。大腿骨転子部をバキッと。いまだに5本のボルトが体内にある。怪我〜緊急入院〜手術〜リハビリ〜自転車への復帰を果たし、先日約一年ぶりにロードでのランニングを再開した。

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そしてとにかく「辛い」のだ。繰り返し言うが「嫌ではない」。この記事を読んでくださる方の多くは僕がトレイルランニング大会を運営し、優れたランナーでなくともトレイルランニングを楽しんでいることも知っていることだろう。自分でも30km、50km、70kmと言った距離のトレイルランニング大会を完走したりしロゲイニングに参加したりしながら、その達成感や喜び、またはその辛さは知っている。また大会はなくとも普段からハイクにトレイルランニングにと、山にも入って自然の中に身をおくことが好きだ。

それでもロードでのランニングにあえて言う「嫌ではない、だから走る。けれどそれは辛くない訳ではない」と。本当にロードでのランニングを愛して止まない人、辛くなく、そのトレーニングも含めとにかく楽しいと感じる人には申し訳ないが、こうした気持ちを抱えながら「ランニングしたいけどさ、うーん、出来ないんだよな〜」「いや、まぁ、好きなんだけどさぁ…」と感じ葛藤している人はきっと声にこそその気持ちを出さないだけでかなり多いのではと思っている。もしかしたら世間の気持ちはかなりこっち側にあるのではないか。皆「興味はあるんだよ」「(どこかで)やりたいとも思っている」「…けれど、けれどだ…」何故だかわからないがそうした気持ちが腰をあげるのを重くし、逆に見てみぬふりをする様な、そんな相反する気持ちの葛藤を生んでいるのではないだろうか。またはそうした気持ちの先に「出来ない自分」を見つけては知らず知らず自分にダメ出しし、自分自身ででチクチクと責めては自分をやんわり傷つけているのではないだろうか。

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もちろんどんな相反する心理の中で走り出したとしても、そのプロセスが辛さばかりで、全く楽しさがない訳ではない。もちろん「あ、楽しいかも」「なんか充実しているな」「(やっぱり)やって良かったな」と思うことが少なくないことも、相反しながらも大切な気持ちとしてそこに存在することも付け加えておく。多分走ることが好きな人だって当たり前に「面倒臭いな」「しんどいな」と毎日のランニングの習慣の中で思うこともあるだろう。そして好きだからといって毎日の中できちんとルーチンをこなすことに努力が必要ないとは全く思わない。むしろすごい努力だと尊敬の念しかない。何故なら自分の躊躇だらけの気持ちと比較した時にその自分を律し、行動に移すことはひどく優れたことの様に感じてしまう。

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昨日は約3.5kmをジョグした。まぁ、たった3.5kmだ。この一年走ることがなかったことを思えばこの1週間はその中でそんな距離を3日間走っている。走るたびに足がパンパンになりいろんなところが苦しいが、これはこれまでの1年の思えばこれができること自体が奇跡で本当に大きな進歩だと思う。そうなんだかんだ言っても「また走れているのだ」。けれど昨日のペースはキロ7分を切る訳でもないのに辛くて途中歩いてしまった。その走っているところから歩きへの移行は何十キロにもおよぶトレイルランニングのゴール付近の様で、止まりたくはないのに歩くと走るを繰り返さざるを得ない、そんな状態とよく似ていた。「歩きたい訳ではないのに」そう、まさにその通りだ。想像できる人もいれば出来ない人もいるかと思うが、それが今僕の現状であり、そのくらいに痛いとかではなく走ることは「苦しい」し「辛い」のだ。

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そんな風であってもランニングそのものが嫌いではない。むしろ颯爽と走りぬけることへの憧れを持っていたり、辛いけど嫌いではないし、トレイルランニングやファストハイクの様なものはまたどんどん挑戦したい。だからこうしてまた走り始めているのだ。だけれどその一方でうまく出来ないと感じる人たちはみんなこうした相反する気持ちや自分の中で常に葛藤を繰り返しているではないのだろうかと思っている。それは競技として上を目指す葛藤とは本質的に異なるもの様にも思える。ほとんどの人はその段階までは辿り着けない。

僕はトレイルランニング大会を運営したり、様々なイベント企画提案したり、スポーツバイクの選手だったり、運営にも関わっていたり、そうしたイベントを盛り上げ、支える側の人でもある。けれど僕の運動、特にランニングに対する基本的な気持ちは、怪我をする前でもここに書いてあるものから大きく変化したことはない。そう僕は基本走ることを基本とする運動が苦手なのだろうと思う。でもそれと同時にそれがレベルに関係なく楽しいことも知っているし、何より多分出来なくても、得意でなくてもスポーツ自体を愛している。けれどそれは運動が辛くない訳でも、得意な訳でも、何ひとつ「=(イコール)」ではない。好きでも辛いし、好きでも苦手なのだ。でもその相反する価値観が詰まっている感じがスポーツらしくてまた良い様にも思える。

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今ではwebを見ても「できる様になるため」の記事や誘いは世に溢れているが、いつも僕はそうした世界の外側に自分の立ち位置があり、葛藤する気持ちがある気がしてならない。「スポーツねぇ…楽しそうなんだけど…辛いし…うーん」という多くの人はまさにその世界から自然とスポーツが得意であったり、スポーツを楽しむ人たちを眺めているのではないかと思う。やはり「自分とは違うし」と。しかしここに書いた様に、少なくなくとも僕はそうではない。何よりも、そのいわゆる出来る側のスポーツの世界に属さない人たちの世界には「(当たり前に)自然と楽しめる人」以上の多様な人たちたくさんいて、その人たちに届く有効な提案や挑戦の段階が用意できるのであれば、様々な形で、新しくスポーツの可能性を切り開いてくれる人たち、もしかしたら素晴らしい才能と喜びを見出せる人たちがおり、その可能性の塊とチャンネルを開くことができるのではないだろうか、と思ってしまうのだ。それが走ることでもその他のスポーツに興味を持つことであっても構わない。その可能性を広げてみたいとも僕は感じるのだ。それは僕自身が、その世界の基本は「出来ない」「しない」側の住人であるからかもしれない。

辛いけれど僕はやめない。今日はレストだが、明日は走る。そんなまた走り始めた自分が「走る」について書いてみた。


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