見出し画像

 妄想は、あえなく萎んだ!!  

ナラティヴ・アプローチの理論から実践までー希望を掘りあてる考古学ー    「翻訳者前書き」を読んで考えたこと

「ナラティヴ・アプローチの理論から実践までー希望を掘り当てる考古学ー」が、国重浩一さんとバーナード紫さんによって、翻訳されたのは2008年である。
翻訳出版に際して、日本の読者の皆様への言葉が、著者の一人であるジョン・ウィンズレイドから贈られており、そこで原著が出版されて10年になると書かれていた。
そして、今は2022年、ほほ25年前にこの原著は書かれていたのだ。しかし、今もナラティヴについて、大切なことを伝えてくれている。

国重さんは、「『盗み』『暴力』『鬱』『不登校』『精神病』『アルコール依存』などの言葉を、相手に防衛心や警戒心、時には怒りなどを誘発することなく話すことがいかに難しいか・・・・・・・。このような会話において困難な点は、往々にして、相手(クライアント)がその問題のために自分が責められている、またはそのことについて責任があると感じるようになってしまうことにある。そしてそのことが、カウンセリングに不可欠な会話において、相手を黙らせてしまうのである。」と書かれている。

この言葉は、ハッと私の心を立ち止まらせた。
私の仕事は労働相談であるが、時々、怒りをぶつけてくる人がいる。その事実が、相談者が自分自身を責めているということにまで、思いいたっていなかった。日頃の相談で、相談者に、ちょっとした怒りの「カケラ」が出現してくると、その「カケラ」がどうすれば大きくならないようにするかに、私の心は向かっている。そして、そのことは私に相談者の話を聞くことを妨げている。
相談者に対して、その怒りの「カケラ」は、「あなたのどこから生まれてきたのですか?」「あなたは何を伝えたいのですか?」「何が、あなたに怒りの『カケラ』をもたらすのですか?」と問いかえてみたらどうだろうか?と問いかけてみることはできるだろうか?と思ってはみたものの、いやいや労働相談の場だから、そのような問いかけをすることはそぐわないから、難しいと言っているもう一人の私がいるようである。
労働相談の場の相談のプロセスは、このようなものでなければならないという決まったプロセスがあるわけではないのに、労働相談の場でナラティヴ的な問いかけはできないというディスコースが私の中に存在している。

また、「クライアントとカウンセラーの言葉のやり取りによって、問題に対する、そして自分自身に対する新しい理解が出現し、その意味づけに基づいた新しい可能性が開かれる道を探るカウンセリングの技法である。」という言葉も私を立ち止まらせた。

労働相談は、相談してきた人が問題を解決できるように法律や制度等の情報提供をするのが仕事である。その法律知識を得て実際に行動するのは相談者自身である。
しかし、「権利を主張する」ことそのものに抵抗があり、また、「自分の意見を言う」ことにも抵抗があるひとが多い。それは、日本のディスコースの側面の一つであるから、仕方がないことでもある。
しかも、一念発起してやっとの思いで「権利を主張する」と、経営者側の反撃に出会うことも多い。そして、それが、労働相談の相談者の実情である。

そんな思いを持ちながら読んでいたら、突然、「そうだ『新しい可能性が開かれる』ような相談をすればいいのだ」という妄想がひらめいた。
労働相談にナラティヴ・アプローチは使えないと思っていたが、使えるかもしれないというワクワクしたものが広がった。

しかし、今日も労働相談の場では、いつもの問題解決に走ってしまう私がいた。「あーあ」というため息。ディスコースに無意識に支配されている。
やっぱり「ナラティヴ・アプローチの相談の『場』」という設定が、大事なのだろうか?

#ナラティヴ・アプローチ #希望を掘り当てる   #場 #ディスコース #カウンセリング #労働相談  

よろしければ、シェアをしていただけるとうれしいです。 よろしくお願いします。