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自己紹介

初めまして!
お立ち寄りいただきまして、ありがとうございます。

素質の紐解きアドバイザー&タッチケアセラピストのみなみです。

みなさんともっとお近づきになれますように、ご挨拶を兼ねて、自己紹介をさせていただきます。

19000字超えの自己紹介となりますので、目次を参照に、興味のあるページだけを読んだり、心身を整えて運気を開きたい方は、目次「急速に心身が整いはじめる」だけを読んだりしてみてください。

では、のんびりとお付き合いいただけますと幸いです。


幼少期

祖父母、両親、兄、私、弟の7人家族。
祖父母と両親は、一緒にお店を経営していて、とても忙しそうでした。
母は、神経質な義理の父母と、寡黙な夫の機嫌をいつも気にしている様子で、お店の手伝いと、家事と、3人の子どもの育児で、子ども心にも、明らかに母の心が疲弊し、ささくれだっているように見えていました。

家での食事中に、学校であったことを話したくても、話そうとすると、大人たちから「うるさい」「今、それどころじゃない」「黙って食べなさい」と叱られながら、大人たちが話す仕事への不平不満を聞きつつ、ビクビクしながら無言で食事をしていました。

食事の内容も、母が多忙なゆえ、買ってきたお惣菜や、揚げ物ばかりで、野菜が食卓に上がることはほとんどありませんでした。
また、食事を残すと、酷く叱られるので、飲み込むようにして食べ終えていました。

祖母は、戦争帰りで精神が過敏になってしまい、常に大声で祖母を叱る祖父に、いつも怯えていて、祖母が一人の時に、傍に近寄ると、祖父の悪口をずっと小声で言っていたのを今でも覚えています。

父は、寡黙であまり家族に関心がないようで、母が話しかけても、黙っているか、うるさそうに返事をしていました。
父が家にいる時は、大酒を呑み、ヘビースモーカーで、家呑みがつまらなくなると、ふらっと一人で馴染みの居酒屋に出かけて行って、夜遅くまで飲み歩く、そんな生活をしていました。

兄は、本家の長男として、幼い頃から、祖父母が、母に面倒を見させないほど、大切にされて育ちました。

私は、父にだけは不器用な愛情を注がれていたように思います。
父は、普段は無口でぶっきらぼうですが、読書が好きな人なので、私だけを連れて、本屋に行き、たまに好きな本を買ってくたり、帰りに喫茶店で好きな飲み物を飲ませてくれたりしました。
その記憶が、読書好きな今の自分を作ってくれていると思います。

弟は、小さい頃からよく笑い、活発で明るく、女の子みたいに可愛らしい顔をしているので、母の唯一の癒しのようでした。

母は、唯一の味方であって欲しかったであろう父にも、関心を示してもらえず、子どもにもあまり愛情を注ぐ事ができずに、心の拠り所を無くして、少しずつ心を病んでいきました。

物心ついた時から、口答えのできない内向的な性格の私は、母の攻撃の的でした。
理由の分からないことで、手を挙げられたり、罵声をあげられたり、無視されたりすることが当たり前の毎日でした。
食事もいつしか、冷え切った家族の残り物を出されるようになり、食べ残すと怒りに触れるので、黙って口に流し込むしかありませんでした。

そんな生活がずっと続き、ひどい便秘に悩まされ、小学校5年生の時には、不眠症になり、すでに白髪がたくさん生えていて、ヤンチャな男子に白髪ババアと毎日いじられました。

思春期

兄が思春期になると、家の中で毎夜、叫び暴れるようになりました。
祖父母にわがまま放題に育てられ、母には愛情を注いでもらえず、やり場のない思いが鬱屈していたのでしょう。
抵抗しない私への暴力が、一番酷く、私はいつも怯えていました。
私を庇おうとする弟が、兄にやり返そうとすると、弟も暴力を受けるので、私は、黙って耐えるしかありませんでした。

父母に訴えても、無駄でした。
すでに父母が二人がかりでも抑えることのできない体格になっていた兄は、私への暴力で体力を使い果たすと、静かになり、その後別人のようにみんなに優しくなるので、「お前が何か悪いことをしたのだろう」と言って、見て見ぬふりをしていました。

暴力が怖くて仕方がなかったので、お小遣いで、自分で取り付けられる鍵を買い、扉に付けましたが、兄の腕力でいくつもの鍵が無駄になりました。

中学生になると、悪質な腸内環境になっていたのでしょう、顔面が腫れ上がるほどのニキビに顔は覆われ、心は疲れ切っていました。

高校は、世間体を何よりも気にする親が強く勧めた、電車で片道2時間かかる、大学附属校に進学しました。
この頃から、元々の体調不良と心身症に加え、朝5時半に家を出て、満員電車に乗るストレスに耐えられなくなっていました。
学校の行き帰りの電車内で、何度も倒れ、このまま命が尽きてしまえばいいのにと、思っていました。

短大進学

小さい頃から、暖かな人の温もりに触れた記憶がなく、愛着障害を負っていた私は、ある時、小学校の遊具から顔から落ちて、前歯を折った際に、診てもらった歯医者さんで、大人になった今でも忘れることのできない体験をします。
折れた前歯の神経を抜くために、麻酔の注射をする時です。
小学生の私が、怖くないようにと、歯科衛生士のお姉さんが、医療用グローブを取って、私の手をそっと握ってくれました。

その手のあまりにも優しい暖かさに、気づくと私は、ポロポロと大粒の涙を流していました。
歯医者の先生は、麻酔の痛みで、私が泣いていると思ったらしく、麻酔の注射が終わってから、「よく頑張ったね、偉かったね」と頬を優しく撫でてくれました。

カラカラに渇いた私の心の奥底に注がれたその優しい温もりは、その後何年も、辛い事がある度に、何度も思い出して辛い現実を逃避する時の支えになってくれました。

今までずっと親の言いなりで、自分の意見を一度も言ったことがなかった私は、その歯科衛生士さんと歯医者の先生の優しさをずっと覚えていた事で、進学を決める時期に、どうしても歯科衛生士の短大に行きたいと両親に伝えました。

附属の大学を出て、一般企業に就職後に結婚という娘への勝手な夢を持つ両親に、大反対されましたが、私は一歩も引かず、親のお金に頼らず、一旦働いてお金を貯めてでも、進学するつもりだということを伝えると、娘の履歴書に傷がつくと思った両親は、家から通える距離の短大だったらいいという条件付きで、渋々進学を許してくれました。

発病

短大に入学してすぐの健康診断で、心拍と呼吸器に異常があるという事で、大きい病院での検査を勧められました。

検査の結果は、甲状腺機能亢進症。
ストレスを長年受け続けた結果、甲状腺ホルモンが過剰につくられ、それが血液中に分泌され、心拍数と血圧の上昇、不整脈、過剰な発汗、睡眠障害、体重減少などの症状が進行していました。

他にも心身症、パニック障害、躁鬱、拒食や過食の症状にも悩まされていました。

病院に通いながらも、なんとか2年間を耐えますが、心身不良で短大に通えない日が多く、実習単位が足らずに、留年することになりました。

留年することが決まり、心身も辛く、生きていくことがもう耐えられなくなったことを父に伝えると、父は、「生きていてくれるだけでいい。この先、病気で学校にも行けず、働けない状態になったとしても、お前一人、俺が一生食わしてやる。お母さんには、俺から言っておく」と、いつもは言葉少ないのに、この時ばかりは、力強い言葉で、父は私に伝えてくれました。

心身がボロボロの状態で、また短大に1年通わなければいけない事や、下級生の視線に耐えながら、一緒に実習をしなければならない事で、短大を辞めるか、続けるか、とても悩みました。

父の言葉に泣いて泣いて、自分の運命を呪い切った後、やっぱり心の中に、歯科衛生士さんと歯医者の先生の優しさがまだはっきりとあることを感じたので、また1年、通院を続けながら、短大に通うことを決意します。

国家試験合格

無事、国家試験にも合格し、短大を卒業することもできました。
家から通える歯医者さんに、歯科衛生士として勤務し、患者さんが多く激務で、気難しい院長先生の元、たくさんの同期が辞めていきました。
仕事が土日休みのため、甲状腺機能亢進症の通院ができなくなり、この頃には服薬も止めていました。
それでも、自分で決めた道だからと、3年働きました。

3年働いて、知識と経験を自分なりに得た実感を持てたので、もっと穏やかな気持ちで働くことのできる次の職場を探そうと、初めて勤めた歯医者さんを退職しました。

心身が壊れる

これまで、心身の不調をずっと抱えながらも、仕事の忙しさを理由に通院もせず、心と体を騙し騙し過ごしてきましたが、退職後、急激に心身が壊れ始めました。

拒食と過食を繰り返してきたので、体が食べ物を受け付けなくなり、食べたものをすぐに戻してしまうようになりました。
夜眠ることができなくなり、一晩中起きていて、昼間にうとうととする程度のわずかな睡眠になりました。
何日もお風呂に入らない日が続きました。
飲むことも、食べることもできなくなり、排泄機能も止まりました。
布団に横になったまま、体を動かせなくなりました。
部屋の隅に、何かが蠢いている幻覚が見え始めました。
現実に見えている世界の後ろに、ぼんやりと別の怖い世界も見えていました。
知らない誰かが、低い声で、常に怖いことを耳元で囁くのが聞こえ始めました。
意識がない中で、暴れているらしく、いつもあちこちに怪我をしていました。
親が、何か話しかけてきても、何を言っているのか聞こえなくなりました。
自分でも何を言っているのか分からない言語を話すようになりました。

ある時、目を閉じると、真っ逆さまに、冷え切っていて何もない暗闇をゆっくりと落ちていく感覚があって、その時に、もう這い上がるのは絶対に無理だ、そうか、自分はこの先、ずっと地の底で生きていくのかと絶望しました。

たまに、意識が正気に戻る時があって、その時に幻覚や幻聴で囁かれる言葉に惑わされて、自分が誰かを傷つけたりしないか、とても不安でした。
誰かを傷つけるくらいなら、自ら命を終わらそうと何度も思いました。

でも、前世で自ら命を絶った記憶があったからなのか、本で読んだことがあったからなのか、なぜか、自ら命を断つことの本当の恐ろしさを知っていたんです。

自ら命を絶った後の世界とは、冷え切っていて、静寂で真っ暗で、どっちが上で下なのか分からない空間がただひたすらに広がる中で、出口はなく、絶対にそこから逃れることはできず、泣き叫んでもただ一人。そこでは、負の感情しか感じることはできず、負の感情を思い描いたら、すぐにその情景が目の前に地獄絵図のように現れる世界。
あまりの恐怖に、負の感情をさらに抱くと、もっと下にある想像も及ばないほど恐ろしい世界にどんどんと落ちてしまうのです。だから、これ以上落ちないように、虚無であることをひたすらに強いられる世界。

でも数100億年とも感じられる、長い長い時を絶望の中で過ごした後、悟りの深い方や生前自分と親交のあった方の、温かなわずかな意識が、時間や時空を超えて届くことがありました。
絶望の暗闇に、温かな一滴の意識のしずくが頭上から垂れてくるのです。
その温かな一滴を自分の中に受け止められた時、少し絶望の世界が和らいだように思います。

だから、ニュースなどで、自ら命を絶った方のことを知ると、どうか届きますようにという思いを込めて、冥福をお祈りしています。

そんな記憶があったので、現世で生きて絶望を経験するのと、自ら命を断った後の世界でも絶望を経験するのだったら、まだ、這い上がる可能性が万が一でもあるかもしれない、現世で生きることを選びました。

いなくなることもできないから、生きるしかないのだけれど、地の底まで落ちてしまい、この先どうやったら這い上がれるのか、考えることさえもできませんでした。

この時期のことは、ほとんど記憶に残っていません。
親に聞いても、関心がないらしく、そんなことあった?と言われます。

ですが、地の底まで落ちて、現実世界と並行して在る、もう一つの闇の世界を見たのなら、落ち切った感覚をしっかりと覚えておいて、もし万が一、日の光をもう一度浴びる時が来るのなら、その時に苦しんでいる人に寄り添えるように、気持ちを分かってあげられるように、今の自分の落ち切った感覚だけは、覚えていることがどんなに辛いことだとしても、ちゃんと覚えておこうと、必死に頭の中に焼き付けたことだけは、覚えています。

自力で心身を治すための長く孤独な旅の始まり

ある時、目を開けると、カーテンの隙間から、光が漏れていて、「綺麗だな」と思いました。
ぼんやりしていると、自分の心臓が鼓動し、呼吸しているのを感じました。

人って、あまり飲まなくても、食べなくても、呼吸だけで結構生きられるんだなと思いました。

おでこに照らされる光が暖かく感じられ、自分がまだこの世に生を受けていることを感じました。
枕元のカーテンをゆっくりと開けると、仰向けになっている自分の顔に光が当たり、水よりも食べ物よりも、何よりもこの光の暖かさを自分は、一番欲していることを感じました。

その頃、自宅から歩いて5分位のところに、新しい図書館ができていたので、光の暖かさを感じに出かけてみようかなと思いました。

初めは、服の袖に腕を通すことさえももどかしく、家の外に一歩でも出ると、すぐに疲れてしまい、図書館になかなかたどり着くことができませんでした。
行きかけては、戻りを何日も繰り返した後に、ようやく図書館にたどり着くことができました。
それでも、人がいることを意識したり、背表紙の文字を読むだけで、疲れてしまって、なかなか本を手に取ることができませんでした。

でもこの間、太陽の光を浴びることと、ほんの少しでも歩くことが自分にとって、何よりの薬だったのです。
ほとんど、飲むことも食べることもできなかったのに、新鮮な外の空気を吸い、太陽の光を浴びているうちに、少しずつ外に出られるようになりました。
それほど、太陽と空気は人を、生に向かわせる力強さがあるのだと思います。

一冊の本と出会う

そんな時に、図書館で、一冊の本に目が止まりました。
著者:塩谷信雄「自在力 呼吸とイメージの力で人生が思いのままになる」
サンマーク出版

地の底から這い上がるために、何かしなくては。。と思うのに、健康に良いとされる食事や水を取ることさえもままならず、運動もできない自分に何ができるのか途方にくれていたので、呼吸とイメージだったらできそう、と思って借りて読みました。

その本には、寝ながらでも、椅子に座った状態でも良いので、頭の中で世界が良くなるイメージを描きながら、「宇宙の無限の力が凝り凝って、真の大和の御世となる」と心の中で念じながら、お腹に息を溜め、ゆっくりと吐く、という呼吸法が書かれていました。

1日の中で、何度も何度も本に書かれていることを実践しました。
すると、ある時、トイレに行きたくなり、何日も止まっていた排泄機能が動き出しました。
その時、深い呼吸と腹筋の動きが、排泄機能を呼び起こし、それがあって、初めて食べたり飲んだりすることができるのだと実感し、呼吸の重要さに改めて気付かされたのです。
また、体調不良の中、良いイメージをすることなんてできませんでしたが、本に書いてある、地球が光に包まれるような絵を眺めて、良いイメージを自分の中に無意識にインストールしていたのも、状態の改善に一役買ってくれたのかもしれません。

その日を境に、少しずつ食事が取れるようになってきました。
でも、まだまだ精神不安と体調不良と一緒に生きる日々でしたので、この時期に、心理学、宗教、スピリチュアル、言霊、瞑想、引き寄せ、予言、宇宙、運動、食事、栄養に関する数多くの本を図書館で借りて、読み漁りました。
誰かに相談したり、病院に通う気力も体力もないこの時期、すがれるものが、自分には唯一、本だけだったのです。

何年もかけて完全に汚れ切ってしまった心身は、本を読み、実践したところで、すぐに綺麗になることはなかったです。
何度も、何度も負の世界に足を引っ張られ、終わりの見えない自分との戦いに無力感を毎日感じていました。
自暴自棄になって、この先の未来も全て諦めていました。
何も考えることもできずに、自分の心が暴れ出さないように、祈りながら1日が終わるのをただひたすら待つ、そんな日々を送っていました。

きっと私は、母のお腹にいた時から、祖父母や父に対する母の不平不満を受け取っていて、精神不安な母の不摂生から汚れてしまった胎内から生まれ、幼い頃でも触れてもらうことがほとんどない、劣悪な家庭環境下で育ってきたんだと思います。

でも、それは、母のせいではないと思っています。
私が今世の勉強のために必要だったから、望んだのかもしれないし、
戦争や、貧困や、時代背景など様々なものが折り重なったり、母の母や、そのまた母が同じように子どもを育ててきてしまったからかもしれません。

だからこそ、大切なことは、こんな辛い経験は、絶対に私の代で終わらせるということ。
もし、この先、自分が子どもを授かることができるのならば、代々受け継がれてしまった諸悪の根源を私が全て飲み込み、断ち切り、綺麗な水と食べ物、空気、太陽、良い想いの中で、子どもを育み、その子どもから続く孫たちにも受け継がれるようにしよう、そのために、地の底から這い上がってみせる、と堅く誓いました。

その誓いだけが、絶望の中の唯一の光でした。

地の底から這い上がる


本から得た知識で、波動というチャンネルによって、今見えている世界は変わると知り、言葉を変え、考え方を変え、瞑想をし、排泄をし、食べ物を変え、呼吸法を変え、規則正しい生活をするように行動した結果、一歩進んでは、二歩下がるようなもどかしさを感じながらも、長期間掛けて、見えてはいけない世界が見えてしまう現状から、ゆっくりと少しずつ意識を切り離せるようになりました。
その経験があるので、私は、現実の世界は、何重ものフィルターが重なるようにしてできていて、見える世界は、どのフィルターを選ぶかによって人によって違うと感じています。

その期間の記憶が曖昧なのですが、自宅で自力で闘病したのは、1年半ほどだったかと思います。
その間、働かず、本ばかり読んでいる私に、母はたくさんのお小言を言っていたように思いますが、母からの圧力よりも、闘病の方が断然辛かったので、やり過ごすことができました。

真っ暗闇の地の底を感じてから、1年半ほど経ったある日、いつもの図書館へ続く道を歩いていて、いつもと周りの景色が違うことに気がつきました。

見慣れた景色の筈なのに、世界が光で満ち溢れていて、街路樹も庭木の花もすごくきれいに見えました。
その時に、地の底からようやく地上に出られたのだな、と思いました。

再就職活動と穏やかな日々

心身の平穏を感じることができるようになり、体力も回復してきたので、再就職先を探そうと、ハローワークに行きました。

すると、子どもの頃に、優しく接してくれた、歯医者さんの歯科衛生士募集の求人が目に止まりました。
迷わず応募して、面接に伺うと、子どもの頃のイメージのまま、変わらない優しい眼差しの歯医者の先生が目の前にいました。

子どもの頃治療をしてもらった時に、優しくしてもらって、嬉し涙した思い出を話すと、先生は、私が当時患者として通っていた頃の昔のカルテを探してきてくれて、私に見せてくれました。
その頃の嬉しい思い出が、歯科衛生士になったきっかけです、と伝えると、先生はとても嬉しそうに笑ってくれました。

その思い出の歯医者さんで働くことが決まり、今まで、暗く苦しい日々だったけれど、何とかここまで、生きてきて本当に良かったと心の底から思いました。

その先生は、どの患者さんにも、いつも誠実で優しく、治療も丁寧で、いつもたくさんの患者さんで、診療室は賑わっていました。
スタッフ同士も仲が良く、みんなで先生の別荘に連れて行ってもらったり、先生の車でスキーに連れて行ってもらったりしました。

その時の私は、実家から離れ、一人で暮らすことが、何よりの心身の平穏を保つ方法だと思ったので、父母の大反対を押し切って、父母に内緒で勤めている歯医者さんから近い場所にアパートを借り、身の回りの物だけゴミ袋に詰めて、父母のいない隙を見て、家を出ました。
実家から離れた心落ちつく場所で、今まで読んだ膨大な本から得た知識を、生活の中で実践しながら、健康的な食事と規則正しい生活を心がけながら、一人暮らしを続けました。

地の底から這い上がったとはいえ、ストレスや、ホルモンバランス、季節の変わり目などで、心身が不安定な時もあり、健康的に元気に過ごしている周りの人たちを羨ましく思うことも多かったです。

どうやったら、もっと心身を整えることができるのだろう?と思って、周りの人が実践している健康法や、テレビの情報などを試してみたりしていました。

地の底から這い上がった時から、今日に至るまで、30年。
心身を整えることを探究する孤独な旅は、今でもずっと続いています。

運命の人と出会う

私は、幼稚園生の頃から、父にスキーを教えこまれていました。
その頃、父のスキーの恩師が開催している地元のスキークラブにも所属していて、1級のテストにも合格していました。
父のスキーの恩師から、スキークラブ内に、女性のインストラクターがいないから、スキーの準指導員になってくれないか?というお誘いをいただき、
準指導員の資格を取りに、毎週末雪山に講習を受けに行きました。

その講習会で、同じく受験をしに来ていた主人と出会い、結婚します。
(準指導員の試験には、私も主人も不合格!試験の時に同じチームだった仲間からは、違うことにうつつを抜かしているからだ!と言われました。。)

結婚して住む場所から、勤めていた歯医者さんに通勤することは、距離的に難しくなってしまったので、勤めて、ちょうど10年目に涙ながら、先生と周りのスタッフに温かく見送られて退職しました。

結婚生活と不妊

義理のお姉さんと、義理のお母さんのいる、主人の実家で新婚生活が始まりました。
部屋は、主人の6畳の部屋を二人で使い、義理のお姉さんと義理のお母さんの部屋以外は共有スペース、家事全般は私が行うという、私にとっては、毎日、緊張感を感じる生活でした。

結婚してから、3年経っても、子どもは授かりませんでした。
婦人科に検査に行くと、受精卵が着床する時に必要なホルモンの数値が低く、妊娠はとても難しいと言われました。
医師の言葉を聞きながら感じたのは、地の底に落ちた時に、この先出会えるであろう、我が子のために這い上がってみせる、と覚悟したことが、無駄になってしまったという脱力感でした。

自分の代で、諸悪の根源を終わらせ、綺麗な命を繋ぐという思いが遂げられないのか!だったら、結婚生活なんてなくていい!もういい、一人で生きていく!と何もかも投げ出したい気持ちでした。

この先、子どもを授かれないとしても、夫婦二人で楽しく暮らしていけばいいよ、と主人の言ってくれる言葉に、何とか励まされましたが、心にぽっかりと穴が空いてしまったような気持ちは、どうしようもありませんでした。

そんな時、気持ちを紛らわすことが欲しくて、発酵に興味を持って、キムチや味噌、糠漬け、甘酒、どぶろくなど色々なものを醸すうちに、菌と微生物を育てることで見えてくる世界に、すっかり魅了されてしまいました。

当時は、空気が綺麗な自然豊かな場所で暮らしていたので、元気いっぱいな菌と微生物がたくさんいたようで、イーストや酵母液などを使わず、空気中にいる菌と微生物の力だけで、素晴らしく美味しいパンを焼くことができました。

他にも、醤油や酢を醸すと、市販品とは全く別ものと感じるほどに、旨味が濃くてとても美味しい、自然が作り出す味に感動したりしていました。

一番感動したのは、無添加で、自然な状態で醸された酢を何年も置いておくと、水になると知った時でした。

麹や綺麗な水などで仕込んだ甘酒が、菌と微生物の力で

どぶろく酒となり

さらにどぶろく酒を何年も静置しておくと

酢と変化する

酢を菌と微生物は、最終的には水の状態にしてしまう

これを知った時、人の一生と同じだなって思ったんです。
人も時を掛けながら、周りの人や環境の力で成長し、心や姿を変え、最終的には、この世で自分の姿形を留めておくことはできないけれど、水のように、みんなにとって必ず必要な情報や思いを、何か少しでも残すことができればいいのではないか?と思いました。

それには、何より自然の力に逆らわないこと。
自分の思い通りにしようとせず、ひたすら思いを腐らせないようにして持ちながら、状況を見続けて、自然の力を信じて待つこと。

これから、自分は、何を残せるのか分からないけれど、地に落ちて這い上がった経験や、心と身体を整え続けることの大切さは、きっと人よりも熱く語ることができるから、自然の大いなる力に身を委ねて、これからも生きていこうと思いました。

妊娠と発症

子どもを授かることを諦めたくても、お子さん連れのお母さんを見ると、羨ましくて、悲しくて、どうしようもない日々は続きました。

そんな時、妊娠していることが分かりました。
初めは、なかなか信じることができずに、誤診かな?と思っていましたが、つわりが始まったのを機に、信じるを得ませんでした。

つわりが治りかけた、妊娠5ヶ月頃に、会社にいる主人から、電話がかかってきました。
今、会社の医務室で血圧を測ったら、異常に数値が高くて、一人で帰宅させられないって産業医の先生が言ってるから、迎えにきてくれる?という電話でした。

会社に主人を迎えに行き、後日、大きな病院で検査を受けました。
様々な数値は異常値を出しているけれど、原因が特定できず、なかなか診断がつきませんでした。
そんな中、主治医の先生が、たまたま別の科の先生に、主人の病状を伝えたところ、自分の専門とする患者かもしれないと言って、すぐに診察をしてくれることになりました。

診断の結果は、クッシング症候群。
難病に指定されており、副腎皮質ステロイドホルモンの1つであるコルチゾールが過剰に分泌され、血糖値や血圧が高くなったり、顔がパンパンに張ったり、体の中心だけが肥満になるなどの症状があります。

主人は、その頃、夜遅くに帰宅後、日付が変わる頃に夕食、3〜4時間の睡眠でまた出勤したり、出張も多く、とてもハードな仕事をしていましたので、ストレスが溜まって、体が悲鳴をあげたのだと思います。

通院と不育

妊婦検診で、お腹の赤ちゃんの発育状態が良くないと言われて、国立の子ども病院で何度も検査を受けました。
もしかしたら、赤ちゃんの腸管が途中で閉鎖している可能性があると言われました。

赤ちゃんの体重が少しでも増えますようにと思って、無理をして、食事の量を増やしたり、妊婦が動きすぎても良くないと聞けば、何日も横になったり、果糖がいいかもしれないと聞けば、果物をたくさん食べたりしました。

この時期は、主人の通院と私の通院が重なる、なんとも重苦しい時期でしたが、主人と赤ちゃんの無事をひたすら願うことしかできませんでした。
何もできないから、ひたすらに切に願いながら、温かな日差しの中、家族3人で幸せそうに笑っている、良いイメージだけは強く持ち続けていました。

手術と出産

手術をして、主人の2つあるうちの副腎を片側切除することが決まりました。
赤ちゃんも小さめではありますが、いつ生まれても大丈夫な大きさに
無事成長してくれました。

私の出産も控えていたので、もし主人の手術後、すぐに生まれてしまっても、主人が会いに来れるようにと、主人が手術を受ける同じ病院で出産することにしました。

主人の手術が成功後、退院して2週間が経った頃、
陣痛が始まり、病院に到着後、3時間後に赤ちゃんが生まれました。

新生児の基準体重の2500gには、満たない2427gの小さめな女の子でしたが、とても元気に生まれてくれました。
また、小さめだったからこそ、安産で生まれたので、もしかしたら、赤ちゃん自らの意志で、体の大きさを決めていたのかもしれないと思ったりしました。

3人の寝たきり生活

手術後の主人と、出産後の私と赤ちゃん。
3人の寝たきり生活が始まりました。

主人は、術後の体調不良が続く中、赤ちゃんを沐浴させてくれたり、私の実家の両親や、義理のお母さんと義理のお姉さん、みんなが手伝ってくれました。

主人は、この頃には仕事を辞めていたので、赤ちゃんとずっと一緒にいられる生活でした。
私は、1日に何十回も、可愛い、可愛いと娘に伝えている主人を見ながら、こんなにも長い時間、生まれたての我が子と幸せで濃密な時間を過ごすことのできるお父さんっているのだろうかと思いました。

主人は、つらい薬の副作用と術後の体調不良、いつ社会復帰できるか分からない不安から、何度も押しつぶされそうになっていたと思います。

でも、主人は、苦しみの中でも、この先成長した我が子に、スキーやゴルフを教えたり、一緒に旅行に行ったり、映画に行ったりしたいという、切なる願いのイメージは、はっきりと持ち続けていました。

願いのイメージを持ち続け、そうなるためには、苦しいけれど、目の前のことから逃げずにやるしかないと、腹を括れたからこそ、主人は、つらいリハビリ生活にも耐えることができたのだと思います。

社会復帰

主人は、手術から3年後、社会復帰することができました。
主人はたまたま、会社で血圧を測ったことで、異常が分かったこと、難病と診断されるまで、病気の原因が分からず、時間はかかりましたが、たまたま専門の先生に出会えたこと、手術が成功したことなどの奇跡が重なって、命を取り止めることができたのだと思います。

いくつもの奇跡に感謝しながらも、生まれたての我が子が、何よりの生きる希望で、心の安寧で、この子のために絶対に生きるという力をくれた良薬だったのではないかなと思っています。

大自然の中で自主保育

夫婦二人、病気の経験があるからか、子どもに対して、心身の健やかさ、娘がそのまま自然体で在るようにとの思いがありました。
そのため、娘がまだ小さい頃は、自然豊かな場所で暮らしていたので、いつも森や野原でのびのびと遊ばせていました。

娘の幼稚園入学の頃に、自然を相手に自由に遊ぶ娘を見て、まだまだ学ぶことが自然の中にたくさんあるのではないかな?と思いました。

それなので主人とも相談して、幼稚園には通わずに、園舎を持たず、海や川、山で保育者さんと一緒に、母たちで当番制で子どもたちを保育する、自主保育という形で、保育活動することに決めました。

もし自然の中で、お弁当箱を子どもが無くしても、自然に還るように、木の素材だけでできた曲げわっぱに、茹でて塩をふっただけの季節の野菜とおにぎりを詰めて、それを母たちが手作りしたリュックで背負って、子どもたちは、山の中をたくさん歩き、たまに落ちている木の実やお花を拾って、おもちゃに見立てたりして、大自然の中、思いっきり自分を解放して、想像力豊かに遊んでいました。

自主保育では、基本的に、大人が子どもに何かを指図することはありません。大人はただ、子どもたちを見守るだけ。子どものケンカも、余程、危ないと判断することでなければ、止めたりもしません。
その時の、その子が何をしたいか、どんな風に過ごしたいかが優先される保育の方法でした。

ですが、山歩きの途中で迷子になったり、斜面から落ちたりしないように、山道の分岐点で間違った方向に行かないように、波にさらわれないように、毒虫や毒のある植物に触らないように。。と、安心して、子どもたちを保育するためには、大人たちが身に付けるべき専門知識や、気を配ることは膨大にありました。

それなので、親たちは、何度も話し合い、時には言い合いになったり、険悪な雰囲気にもなりながらも、子どもたちのために、全力で意見を交わしました。自主保育は、子どもだけではなく、親も大きく成長できる場所でした。

七夕や、クリスマス、お正月、節分などの季節ごとの行事は、自然にあるものを森から調達してきて、母たちが小物を手作りして、その場を飾り、料理当番の母の家で、無添加の食材で、母たちが、人数分のお祝い料理を作って、自主保育の子だけでなく、その兄弟たちも一緒に、みんなで食べました。

雨の日も、雪の日も、風の強い日も、うららかな日差しの時も、暑い日も、大自然と親たちの深い愛情に抱かれて、子どもたちは体も心もたくましく育っていきました。

後遺症と向き合い続ける

心身を壊した時から、人にとって真に大切なことは何か?を常に考え続けていました。

というのも心身を壊した後、何とか暗い地の底から這い上がってこれたとはいえ、その後も、子どもが生まれてからもずっと、後遺症は続いていたからなのです。

独学で、マクロビオティック、玄米菜食、中医学、気功、薬膳、ヨガ、青汁、瞑想など色々な方法を試してみても、すぐに、胃腸が痛くなったり、冷え性や、慢性的な首や肩や背中の痛み、不安症や難聴もなかなか治りませんでした。

特に、拒食の時期に食べたものを戻していた時に、頸椎を損傷したことが原因なのか、他の人には聞こえない、自分の頭の中だけで、バキッ、ゴキッという音が継続して聞こえているので、ひどい時には、話しかけられてもよく聞こえないことがありました。
脳神経外科に行っても、整体に行っても、整形外科に行っても、症状は改善されないままでした。

人は、生まれながらにして、恵まれた家庭で育たないと、本当の意味で幸せにはなれないのか?
一度、心身を壊し切ってしまったら、心穏やかに、身体を健やかにすることは絶対に不可能なのか?
を日々問い続けながら、心身を再構築する術を探していました。

新たな世界へ踏み込む

子どもが、小学校2年生の時に、主人の実家を離れ、海の近くに新居を建てました。

主人と私、娘の3人の新生活が始まって、ようやく引越しの荷物が片付き、一段落ついた頃。
自主保育の中で、子どもも大人も、生まれ持った個性を発揮し、協力しながら活動した素晴らしい経験から、みんなが個性を活かせる場所作りをオンライン上で作れないか?と思って、新しくビジネスを学んでみようとオンラインコミュニティに入りました。
会員になっていたオンラインコミュニティの主宰者が、素質論の講師だということを知り、人が生まれ持った素質に気付き、それを活かすことに興味のあった私は、「セミナー会場の用意、受付フォームの作成、運営スタッフ集めなど、全てやるので、素質論のセミナーを開催してください」と、メールを送り、オンラインコミュニティの主宰者に直談判しました。

無事に、素質論セミナーを開催することができ、2日間の開催で150人以上の方に受講いただきました。
その時に私も、受講生として参加し、素質論を学びました。

そんな風に、コミュニティ内で、色んな活動をしているうちに、ある一人のコミュニティ生から、こんな声を掛けていただきました。
「知り合いのyoutuberの方のオンラインサロンの運営が、うまくいっていないので、一緒に運営をサポートしてくれない?」というものでした。

その声を掛けてくれたコミュニティ生は、ウェルスダイナミクスという手法を使い、その人がどんな強みを持っているのかを紐解き、その強みを活かせるようにコンサルする活動をしている人でもありました。

youtuberの方のオンラインサロンの運営をサポートするチームが、声を掛けてくれたコミュニティ生の下、素質とウェルスダイナミクスを活かして、人選され、私を含む5人で結成されました。

5人が強みを生かせる各部署で、youtubeのサムネイルや動画の改良、サロン内のコンテンツの充実、入会初心者さんへのサポート、サロンメンバー同士の交流が盛り上がる仕掛け、イベントの開催などを行い、サポートを開始してから半年で、入会者とyoutubeの再生回数が圧倒的に増え、サロンも活気付き、運営もスムーズに回るようになりました。

そのことで、youtuberの方との距離が近くなり、youtuberの方の事業も手伝うことになりました。
その事業は、菌と微生物の力を使った、バイオ事業でしたので、以前から、発酵に心惹かれてきた私は、その仕事にのめり込んでいきました。

オンラインサロンの運営も続けながら、月に1週間の出張をしたり、資料作りや、動画撮影や編集、レシピ開発やネット販売サイトの管理、ブログ執筆などで、明け方まで仕事をしていました。
それに加えて、youtuberの方のプライベートなことまで、関わるようになっていったので、多忙な生活と家事と育児の両立の難しさに挟まれて、ゆっくりと少しずつ心が疲弊していきました。

ある時、「もう無理だ!こんな生活は、もうやめよう」と、心の中から声が聞こえて、ああ自分は、無理をしていたのだなと気付いて、全ての仕事を手放すことにしました。

さらに経験をしたことのない世界へ

オンラインサロンの運営などの仕事は、パソコン一つ持って、地域のカフェやレストランなどで作業していたので、地域のカフェやレストランを経営するオーナーさんたちが、いかに志高く、食とサービスを提供しているかを知っていました。
それなので、地域でお店を経営している人達の力に少しでもなれたらいいなと、漠然と考えていたところ、たまたま地元の新聞社から求人が出ているのを知り、応募したところ、採用となりました。

新聞社では、広告営業がメインの仕事でした。
会社という組織で働いたこともなく、営業の仕事も初めての私にとって、慣れるまでは戸惑いましたが、同じ職場の方たちがとても良い方ばかりで、居心地の良い人間関係の中、働くことができました。

ですが、営業は、成績と数字で評価される世界。
どうしたら、クライアントさんと信頼関係を築くことができるか、どうしたらもっと、自分を成長させることができるのかをとことん考えました。

この時期に、新田祐士さんのStory Brandingという講座を受講していたので、まずは、新田さんの教え通りに行動してみようと思い、自分という存在を無色透明にして、ただひたすら講座の内容を実生活と仕事で実践することを続けました。

すると、営業経験が全くの未経験でもあるにもかかわらず、新田さんの講座の内容を実践し続けていたら、営業開始2ヶ月で、目標成績をクリアし、半年後には、毎月の売り上げが50万円を超えるようになり、一年後には、100万円に手が届くまでになりました。

社長や部長、直属の上司からもとても驚かれましたが、一番驚いたのは、私自身で、新田さんってす、すごい!って思いました。

広告営業以外にも、取材に行ったり、イベントを運営したり、色々な仕事を経験しました。
その中で、不登校の子のお母さんたちの居場所作りのイベントの運営に携わる機会がありました。
そのお母さんたちは、悩みを抱えながらも、懸命に答えを探そうとしていたり、苦しい心をなんとか平らに保とうと、頑張っている人たちばかりでした。
その様子を肌で感じ、私は本当は、どんなことで人のために役に立ちたいと思っているのかを真剣に考え始めるようになりました。

自分の本懐に気付く

心身を整えることをいまだに続けている私は、心身を癒す方法が書いてある本と出会えたらいいな、と思って、よく図書館に行きます。
ある日、桜美林大学の山口創先生の「手の治癒力」という本を手に取って、衝撃を受けます。

『疲労、不安、うつ、PTSD……
現代人のあらゆる心身の不調は「手」で癒せる』

と書いてあり、それを読んだ時、自分の過去が蘇ったのです。

幼い頃に愛着障害だった私の手を、歯科衛生士のお姉さんが、治療が怖くないようにと、医療用グローブを外して、優しく手を握ってくれたこと、歯医者の先生が、優しく頬に触れてくれたことが、頭の中で再現されて、当時、泣いてしまうほどに嬉しかったことや、その思い出がその後何年も苦しい日々に寄り添ってくれていたことを思い出しました。

新田祐士さんのStory Brandingという講座を受講し、その教えをずっと実践し続けたことで、思考がクリアになり、忘れていた昔の記憶が、ありありと蘇るようにもなっていました。
また、自分を長年覆っていた分厚い殻が割れ、内なる魂の声を聞き届けられる自分にいつしかなっていたのだろうと思います。

その時私は、これからの残りの人生を使って「触れる」を通して、人のお役に立つことのできる自分になろうと決意しました。

新聞社の仕事は軌道に乗っていて、安定した収入があり、クライアントさんとの関係や職場環境も良く、このまま営業活動を続けていれば、さらに成績が上がる見通しもついていたので、退職することに非常に躊躇いがありました。

そんな時、新田祐士さんがStory Brandingの講座内で、YOASOBIの群青という曲を紹介されていました。
『知らず知らず隠してた 本当の声を響かせてよほら 見ないフリしていても 確かにそこにある』
『好きなものを好きだと言う 怖くて仕方ないけど 本当の自分 出会えた気がしたんだ』

何度も引き戻しに合い、「このままでもいいよね!」「でも本当の声に気付いてるでしょ!」「でも。。」と心は揺れに揺れて、退職する覚悟が決まるまで、この曲を何度も何度も聞きました。

不器用であることは、自分が一番よく知っているので、二兎を追うのではなく、本懐だけに絞ろうと決め、クライアントさんや職場のたくさんの方に引き止めていただきましたが、思い切って新聞社を退職しました。

急速に心身が整いはじめる

自分の本懐に気が付いたと同時期くらいに、急速に心身が整いはじめました。
長年、自分の心身と向き合い続け、様々な方法を試みた結果、ようやく自分の心身の特性が分かってきたことが大きいのですが、整い始めた理由を自分なりに解析してみました。

『ベースの生活』
・食事は無添加の調味料、無農薬野菜と米を用いて、手作りします
・鼻うがいを習慣にしています
・飲酒、喫煙、夜更かしはしません。
・冷える服装、体を締め付ける服装や下着は持っていません
・ヒールのある靴は履きません
・シャンプーやリンス、ボディソープは体に優しいものを選んでいます
・よく散歩をします
・白砂糖は体が冷えるので、あまり食べません
・でも家は、まあまあ散らかっています

『外側環境』
1)ストレス負荷の少ない、家庭環境と人間関係、仕事内容になった
2)繊細気質だということに気が付き、人の多い場所、騒音、満員電車、疲れることを避けるようになった
3)親が、今まで私にしてきた悪行を心から謝罪してくれて、私も許すことができて、和解した

『内側環境』
1)スイマグ(三保製薬さん)を夜寝る前に10ml飲むことを続けていたら、長年の宿便が1ヶ月間出続け、腸内腐敗が改善し、腸の消化能力が向上し、疲労感、耳鳴り、冷え、不安症など長年苦しんできた症状が消えた
2)ミネラルの一種である塩化マグネシウム(ニチガさん)を水溶液で、お茶やお味噌汁に入れて取るのを続けていたら、家にいる時もリラックスしている時でさえも、なぜか長年ずっと続いていた心身の緊張感が取れ、身体中の筋肉が緩むようになり、血行がよくなった
詳細は、こちらをご覧ください

3)タンパク質を分解しずらい胃腸であることを突き止め、タンパク質を取る量を極力減らし、取る場合は、豆乳、卵、魚、肉といったあらゆるタンパク質を塩麹や甘酒に数日漬けて、麹菌に消化吸収しやすいように分解してもらってから、食べるようにした
4)小麦製品の不耐性だということが分かり、パスタ、うどん、パンなどの小麦製品をほとんど食べなくなった

タッチケアを学ぶ

新聞社を退職し、「触れる」を通して、人に寄り添うタッチケアの勉強をしています。
タッチケアの第一人者である、山口創先生の著書を読むうちに、中川れい子さんという方と共著している本があることを知り、中川れい子さんを調べてみると、NPO法人を立ち上げていて、タッチケアの講座も行っていることが分かりました。

早速、中川さんにメールをしてみると、近々、年に1度だけ開催される、タッチケア基礎講座があることを教えてもらったので、受講することにしました。

実際に、中川さんにお会いした時に感じたのは、温かなオーラに包まれていて、声のトーンも優しく、近くにいる人みんなが癒されてしまう、そんな方でした。

今、私は、タッチケアの基礎講座が終わり、友人や家族にタッチケアをさせてもらっています。これから中級コースを受講し、終了したら、
・緊張感をなかなか手放せない人
・愛着障害の方
・仕事、介護や育児で疲弊している方
・心身症を抱える方
・慢性疲労を感じている方など
どんな方の心にも寄り添えるタッチケアセラピストとして活動をスタートします。

X(twitter)=@minami_lifeseaでは、<みなみ@心身が健やかな未来へ>というアカウントで、病み切ってから今まで30年間、ずっと自分の心と身体に向き合ってきた自分が、本当にみなさんにオススメできる方法だけをシェアしています。
また、素質論を学んだ経験から、生まれ持った素質をお伝えする活動もX(
twitter)でしています。

私がお答えできそうなことで、ご質問や相談事がありましたら、無料にてお受けいたしますので、遠慮なく、X(twitter)のDMから、お知らせくださいね。全力で、お答えさせていただきます!

最後に

人生は、山あり谷ありというものだと思っていました。
ですが、人生折り返しにきて振り返ってみると、今までの自分の人生は、ほとんどの時間、深い谷の中をずっと彷徨っていたんだな、と思います。

今、思うことは、よく生きてたな、ということ。
いつ自ら命を絶ってもおかしくない精神状態や、病気が重かったことから、いつ命が尽きてもおかしくはなかったと思います。
でも、生きている。

人生は、苦しい時やつらい時の方が多いのかもしれません。
苦しいから、格好悪くもがくし、つらいから、何か別のことで気を紛らわそうとする。
それでいいのだと思います。
もがいた時に、何かを掴むし、気を紛らわせた時に、新しいものに出会います。
でも、必ず、この先の叶えたいもののイメージを持ち続けることだけは、大切にして欲しい。
叶えたいイメージを持っていれば、必ず、点と点が繋がるように、苦しい時に掴んだ何かと、つらいから出会えた何かは、叶えたいものの材料となるのです。

本懐や使命と呼ばれる道が照らされるタイミングは、人によって違います。
でも必ず誰もが、本懐や使命と呼ばれる道を歩んだ先に、与えられる、生きる意味を知るために生まれてきています。

たくさんの条件が集まることで、本懐や使命は、示される時が必ずきます。

サプライズギフトが自分の元にいつやってくるのかを心待ちにするかのように、心身を自分らしいやり方で整え続けながら、驚きと知らないことが待っている未来を楽しみに生きましょう。

こんなにも、長文を書き終えたのに、まだまだみなさんに伝え切れていないことがあります。
私が、現実と妖の狭間で見てきた、不思議なこの世の仕組みも、どこかでお伝えしたいな、と思っています。
それなので、これからも、私らしい方法で様々なことを伝え続けていきます。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

みんなに、たくさんの良きご縁と素晴らしいタイミングが巡りますように、いつも願っています。

長文、お読みいただきましてありがとうございました。

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⭐️noteで宇宙のこととか、リアルな不思議体験とかを綴ってみたり。


⭐️Twitter(X)では、心と身体の整え方の方法をつぶやいていたりとか。


⭐️たまに小説なども書いてみたりして。

素質の紐解きアドバイザー&タッチケアセラピストとして、これからもたくさんの方とご縁をつないでいけたら、嬉しいです!

みんなの心が穏やかで、身体が健やかでありますように。
地球がみんなの輝きでいっぱいに満たされますように。

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