「できる自分」は、今すでになりを潜めて出逢えるのを待っている
ストリートダンスを習いはじめて
もう2年が経った
POPPINGという
ちょっと難しいジャンルにトライしているんだけど
最初は何が何だかわからなかったし
何やってもカッコ悪いし
今までやってきたダンスと全然違くて
まぁ、とにかく、できないのですよ笑
それが
たった月一回のレッスンだけでも
2年も経てば多少できるようになって
それっぽく見えるような瞬間もあったり
ようやく「できる」に出逢える瞬間が
増えてきたのであります♪
「できない」自分に絶望して
そこにとどまって練習してみると
「できる」自分に出逢える楽しい瞬間がやってくる
もう少し細かく言うと
できる自分はもうすでに自分の中に
なりを潜めて待っている
その、できる自分に逢える瞬間って未来にあるもの
よくあるポジティブシンキング的な
できる!できる!
って思って(思い込ませて)練習するのは
自分にプレッシャーを与えるものだなとも思えてきてる
そんなことを思い込む必要もなく
できる自分に出逢えるという
楽しい瞬間がくるのがわかってればいい
そうすると、できない自分に留まれます
練習方法が見つかります
その練習をしながら
ますますできる自分に出逢えるのが楽しみになります
これは
やりたいものにも
やりたくないものにも
適応可能じゃないかな?
(だから、学生の頃も勉強好きだったのかも!)
何をやっていてもできる自分に出逢えるから
何をやっていても幸せ
でも、好きなことで
それが感じられる方が楽しさも倍増するから
私は好きなことである
ダンスや歌や演技の学びを続けているのかもしれない
できるを積み重ねると飽きることも当然あって
その時に違う方向に行くこともアリだけど
これは生存本能が過剰に働いてる可能性もある
※生存本能とは別の言葉で言うと、
エゴとか、左脳過剰な状態とか、不安から選んでる
という言葉と近い意味を持つ
私は
歌やダンスや演技という
同じことを続けてきて良かったなぁと思う
これが間違いなく
自分の人間性の成長にもつながっていると感じるから
私は舞台に立つ生活はやってないけど
歌と演技だけならば
すぐ舞台に立てる状態にいると思う
なんなら、舞台に立つために練習してた時よりも
レベルアップしてるかもしれない
私は舞台に立つところに向かってなくても
どうしてレベルアップできたのかな?
と、問いかけてたら
そこからの気づきのイメージがあがってきて
やり切ると満たされて
満たされまくって
コップに入ってるお水が溢れるようになってくると
自然に器が広がって
また求めるようになり
受け取っていける
あーなるほど!
できない自分を受け取って
練習という栄養を与えて
できる自分に出会って
広がった自分の器に必要な何かを求めていく
その循環の中にいられているから
心地いいんだ!
最近、「求める」っていうことがどういうことなのかも問いかけてたから
一気に拡がっていい気分!
※
ちなみに
生存本能についてや
受け取る、与える、求める
この循環については
由佐美加子さんの本がきっかけとなって今も深めております
↓
何かに向かっていくこと、
例えば「舞台に立つ機会」があることで
ヤル気になる気持ちも理解できる
過去の私にもそういう部分があった
舞台に立つ体験があたかも自分の価値みたいに思って
自分のアイデンティティとしていたんだとも思う
例えば
「舞台に立つ」というのが栄養だと思って自分に与えてるとする
でも
その機会がなくなっちゃったら??
ヤル気なくなって練習なんかしないし
自分には向いてなかったとか
この環境が悪いとか
ゴチョゴチョ言い訳を繰り返し
またそれを埋める何かを外側に探し出したりしだす
自分の体験上、このパターンは手に取るようにわかる
生存本能が過剰に働いていた頃によくあった現象
お金とかもこのパターンあるよねって思う
そんなものがあってもなくても
自分の価値は絶対だし
歌やダンスや演技が好きではじめたのならば
純粋にそこに戻ればいい
その自分で
できない自分にとどまって
好きな歌を歌って、踊って、演技して
続けてさえいれば
きっと
できる自分に出逢っていく
私はその道筋を整えることが
教えることだと思ってる
私もこの先何をするのか
生徒ちゃんたちがどんなことをしていくのか
そんなこと何もわからないけど
できる自分に出逢うことを楽しく積み重ねていけば
自分の行くべきところにいくんだと信じてる
その信じてる自分と一緒に
今日も明日も
できないを感じながら
できる自分に出逢う瞬間を楽しみにするのだ!!
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