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外画字幕派の分析記録

海外の映画を観るときに、字幕で観るか、それとも吹替で観るか。
特にこだわらないという人もいれば、並々ならぬこだわりがある人もいる。これは人によって分かれるところだと思う。

私はもっぱら字幕派だ。実写のものならやはり演じている俳優本人の声が聴きたい。あとは、私が語学オタクで外国語を聴くのが好きというのもある。アニメ映画だと字幕と吹替の両方を観ることもあるが、原音の声優さんの声の方が好みなことが多くてどうしても原音過激派になってしまう。

ここ数年の観た映画記録を見ると、アニメから実写まで圧倒的に海外作品が多い。なんとなく近年の邦画はタイトルからして私の好みに合わなかったり、別に大きいスクリーンで観なくてもいいかなと思ったり、逆にこれは大きいスクリーンで観ると疲れそうだなと思ったりして避けてしまう。

邦画で珍しく観たいと思ったのが『あのこは貴族』だったわけだが、ストーリーは良かったのに、鑑賞後にはどことなく物足りなさを感じた。その物足りなさの原因をあれこれ考えてみて、ようやくとある地点に着地した。

おそらく私は、字幕のついた作品の観過ぎなのだ。

字幕が苦手で海外作品は絶対吹替派という人の意見としてあるのが「字幕を読むのが大変/面倒くさい」ということ。映画の上映中、1つのシーンが流れている間で観客は
①スクリーンを見る
②キャラクターや背景の動き、もしくはその両方を追う
③セリフを聞いて理解する

という作業をしないといけない。字幕の場合はここに
④字幕を読む
という作業が加わる。これは視覚情報になるので②と並行して行うことになる。情報処理作業が1つ増えるわけだ。作業が多くなるとストーリーを楽しむ十分な余裕がなくなってしまう。だから吹替の方がいいという意見も最もである。

しかしながら私の場合、字幕付きの作品を観過ぎたことによってこの情報処理作業に慣れてしまったのである。しかも私の場合は字幕を読みながらわかる言語の場合は原音のセリフも聞き取り文字数の都合上字幕の翻訳に載せきれなかった情報まで追おうとする。1つのシーンで情報処理作業をさらに2つ余計にしていることになる。

そんな風にせわしなく頭を回転させて海外映画を観ていた人が吹替版や邦画を観るとどうなるか。1つのシーンあたり、いつもしている作業の半分で済んでしまう。じゃあその分ストーリーを楽しむ余裕ができていいかと思えばそうはいかない。いつもの半分の作業で済んでしまうため、脳に“暇”ができる。そしてこの“暇”のせいで、普通に楽しんでいる人なら気にならないようなことが気になってしまったり、物足りなさを感じてしまうのである。頭の回転速度に映画が追いついてくれないのである。

そして字幕付きの作品を観過ぎた弊害がもうひとつ。耳で言葉を聞いて理解する能力の低下である。セリフを字幕という文字で認識することに慣れてしまい、母国語であるはずの日本語さえ文字にしてくれた方が理解しやすかったりする。仕事でも口頭で何かを説明されるより文字にしてほしいと思ってしまい、少々苦労している。

以上が私個人について自己分析をしてみた結果である。頭の回転と文字による情報処理能力は上がった一方で、音声での情報処理能力が低下してしまった。数値化されたデータはないので、あくまで私個人の体感での話に過ぎない。

世界には面白い作品がたくさんある!と思って海外映画ばかりを観ていたら、日本の映画や日本語での映画が観られなくなったというのは少し悲しい話である。解決方法としては、
a. ほどよい頻度で邦画や吹替も観る
もしくは
b. もういっそのこと海外作品しか観ない
といったところだろうか。


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