留学に来て毒親の家庭で育った人生を振り返る。

留学に来てから色々考える時間がたくさんあったので、毒親の家庭で育った人生を振り返ることにした。

私の中の一番良かった時代の家族は、父、母、姉、私の4人家族だった。
父は生命保険会社に勤めていて、朝早く仕事に出て、夜遅く帰ってくる人だった。土曜日も働いていて、休みは日曜だけだった。日曜日も、時々ゴルフに出かけるので、家にいることはあまりなかった。幼稚園児の私は、時々父の足につかまってコアラみたいになるのが好きだった。

母は専業主婦で、いつもおいしいご飯を作ってくれていた。

姉は私より3歳年上で、いつもしっかりしていて、分からないことはいつも姉に聞いていた。


私が幼稚園児の頃、愛知県名古屋市に住んでいた。これ以前の記憶はない。マンションの一室に住んでいて、目の前が公園で近所に友達が住んでいた。お母さんは同じマンションの人と仲良くしていて、週に何回か絵とか編み物の習い事をしていた。

一度だけ母と姉と3人でディズニーランドに行ったことがあった。父は仕事で来れなかったけど、すごく幸せな瞬間で、家に帰ってからもずっとポップコーンバケットのにおいを嗅いでた気がする。


ある日父の地元に引っ越すことになった。
5歳の私は何も知らないまま、ただ田舎に引っ越すだけだった。母から、父は転勤族で毎年色んなところに引っ越してきていて、引っ越しは楽しいものだと聞いていたので、とてもわくわくしていた。

田舎では父の実家で暮らすことになった。築50年越えの、エアコンもない、目の前は山しかない家で、当時80代の祖母と一緒に暮らすことになった。

祖母は認知症で、いつも怒りっぽくて、口うるさくて、好きにはなれなかった。いつもここはどこなのか、◯◯さんはどこにいるのかと尋ねられて、知らないと答えるとブチギレて物を投げてきたりした。夜になると誰もいないのかと騒ぎ出して、家から出て行こうとした。トイレもよく失敗するので、祖母の後のトイレは使いたくなかった。ある日こたつから祖母の便が出てきたこともあった。

小学校5年生の時に父が仕事をやめた。
理由は祖母の介護のためだった。
父は生命保険会社の営業をしていて、どうしても転勤しなければならない職種だった。転勤したくないなら辞めるしかなかったんだろう。
無職の父と、パート勤めの母と、不登校の中学生の姉と、小学生の私と、2歳の妹と、88歳の祖母の5人暮らしだった。

これから先私はもっとお金がかかるのに、どうして仕事を辞めるんだろうという気持ちだった。
父が仕事をやめてもちろん私たちの人生は転落した。半年に1回、好きな服を1人1万円ほど買わせてもらってたのが、姉妹で合わせて1万円になって、小学校を卒業する頃には0になった。

中学生の頃、父に殴られたことがあった。
玄関から父は家の中にいる家族を呼んでいたらしいが
家の中は暖房の音と、テレビの音が大きくて、家族の誰も気づかなかった。
家の中に入ってきた父は、一番手前にいた私が椅子から落ちるくらい強い力で殴った。その時は何が起きたのか分からなかった。夜になってまた呼び出されて、なんで何回も呼んでいたのに無視したのかと問いただされた。聞こえなかったからと答えたが、「絶対に聞こえていたはずだ」と父は言い張って、何回言っても私の主張は認めてもらえなかった。この時から、この世にはどれだけ話し合っても分かり合えない人がいて、それが自分の父なんだということを理解し始めていた。

大学はもちろん地元の国立大学に行くことになった。
大学に関しては親に何も言われなかったが、姉が東京の私立大に行ったので、私に選択肢がないことを悟っていた。

大学に合格したときも、父からはおめでとうの言葉はなかった。私が成長して大学に合格したら喜んでくれると思ってたから、どうしたら良いのか分からなかった。
大学に合格したから焼肉に行きたいと言って、近所のチェーン店の焼き肉屋さんに行った。お肉を頼み過ぎたら、明らかに不機嫌になって帰りの車で何も言ってくれなかった。

大学の学費免除を申請してみたらあっさり全額免除で通った。その時父の年収を提出しないといけなかったけど、年収は100万もなかった。

大学生になってからも、お盆は実家に帰ってお墓参りしなさいと母に言われていて、それは絶対に守らないといけないと思っていた。
その日はバイトも入れずに絶対に実家にいるようにしていたけど、実家にいても自分のことを大切にしてくれない家族がいるだけで、何も楽しいことはなかった。ただ良い家族のフリをさせられているような気持ちになった。

子供の私には、この家族に起こっていることが、何もかも分からないまま進んでいて、ずっと、いつかは元の家族に戻れるんだろうと思っていた。
父は毎日会社に行かなくなって、家にずっといて前より怒りっぽくなったし、
母は毎日パートに行かないといけなくてご飯も作らないといけなくて、祖母の介護もあって、不登校でわがまま放題の姉、まだ小さい妹の世話もして、すごく忙しそうでボロボロになってたけど
私が頑張って、親に負担をかけなくて、良い大学に行ったら、親はもっと楽になって、元の親と、元の生活に戻れると信じていた。
私が良い大学に行って、迷惑のかからない子供になれば、親はもっと私のことを見て、私のことを愛してくれるようになると信じていた。きっとまたみんなで新幹線に乗って旅行に行けるようになったりすると。そのために高校生だった私にできることは一生懸命勉強して国立大学に入ることだと信じていた。

働き始めてから、母に言われたのは、「あんたが出て行ってくれて楽になったわ〜」という言葉だけだった。そして祖母を老人ホームに数日預けて、父と母と妹の3人でディズニーランドとUSJに行った写真を見せてくれた。

家族の負担を減らしたくて頑張ってきたけど、言われた瞬間、私が欲しかったのはそんな言葉ではないということに気付いた。その言葉で私は家族にとって成長していくのを見るのが嬉しい子どもではなくて、ただの重荷でしかなかったんだなということを理解した。

家族の負担を減らしたくて、元の家族に戻りたくて、一生懸命頑張った先には、都合の良いように使われて、ぞんざいに扱われるだけの人生が待っていた。

この頃から、もう誰の賞賛も要らないし、頑張る理由は、いつか元の家族に戻れますようにって願っていた無知な小学生の頃の私のためだけだと思うようになった。


カナダに行く前、一度実家に寄って行きなさいと母に言われてしぶしぶ実家に行ったことがあった。
そこで約2年ぶりに父に会った。
カナダに行く前に、一度話してみても良いかという気持ちになったので、覚悟を決めて実家に行ったはずだった。
父は居間で寝ていた。しばらくして起きたけど、私を見ても何も言わなかったし、また目を閉じた。私は、父は何を言うんだろう、何を考えているんだろうって気持ちで父の表情を行動を黙って見ていた。その頃カナダでは毎日のように射殺事件が起きていて、カナダに行って娘は死ぬかもしれないのに、話そうともしないんだなと思った。私がどれだけ向き合おうとしても、父は私に向き合ってくれないんだなと思った。

きっと父が欲しかったのは、子ではなくて、無条件で自分に寄ってきて、自分を必要とする無力な赤ちゃんが欲しかっただけなんだろうなと思った。大人になって、自立した私のことはこれ以上必要としないんだろうなと思った。


ずっと私の家族みたいにはならないようにしようと思いながら生きてきた。
子供が3人もいて、私がまだ小学生だった時に仕事を辞めて、父が落ちこぼれたのを見て、私は国家資格を取って絶対にこんなふうにはならないようにしようと思ったこと。
父が仕事を辞めたら生きていく術がなくなって、必死でパートの仕事しても全く稼げない母を見て、私は誰かの収入に頼らなくても生きていけるだけのスキルを身につけようと思ったこと。
姉が小学校高学年から中学卒業まで不登校になって、母がどうしてこんなふうになっちゃったんだろうって泣いてるのを見て、小3の私は母に迷惑をかけない子になろうと思ったこと。
姉は不登校の期間が長すぎて行ける高校もなくて、二浪した末に東京の私大文系を卒業したけど、就活でも数学の問題が全く解けなくて全く内定をもらえなくて、今も仕事を転々としていて、私はちゃんと看護師の仕事を続けようと思ったこと。
小さい頃から、自分のなりたくないものをひたすら集めて、それを避けたらきっと幸せになれる未来があると思っていた。実際には、一生懸命頑張った先に、帰りたくない実家ができた。


私にもし子供ができたら、世界中のどこにいても、何をしてても、何か間違ったことをしても、私は味方だよって言ってあげたい。父と母にそうしてもらいたかったように。いつでも家に帰ってきたら、安全な場所があるから、いつでも帰ってきて良いんだよ、って言ってあげたい。そしてそれをまずは、自分自身に言ってあげたい。どれだけ失敗しても、最低でも、うまく行かなくても、ずっとこの身体で生きてきた私の味方。中学生とか高校生の頃の私にはその言葉が足りなかった。

お盆もお正月も実家に帰らない、父とまともに会話することもできない、こんな罰当たりな子のことをどうか許してくださいと時々思う。
それでもあの実家と関わらなくて良い時間は私にとってとても幸せだった。


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