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瞑想 - 実践編

前回のnoteに引き続き、実践編と題して続きです。あれで完結のつもりだったのですが、読んでる側からしたら、瞑想大事って言われたって「で?どうすりゃいの?」ってなるよなぁ、、、と。なんだかすごく無責任な記事を書いた気がしてきて、第二弾を書き始めていますw

瞑想には古くから、たくさんのメソッドがあって、具体的にどのようにすればよいのかと言われると、たぶん専門の先生だったりに師事するが良いと思うのですが、そういう心当たりがなく、とりあえずやってみたいという方のために、いくつか試せるようにnoteしたいと思います。ここに書かれていることは、わたしの大好きなおじさんがお坊さんをやっていて、遊びに行った時に何度かお寺で座らせてもらったことがあったり、読んだ本に書かれたことを実践している程度で、ほとんど自己流です。ほんとのほんとに興味が湧いたら、ちゃんとした先生を頼ってください。

前回、瞑想には2つのテーマがあるという話をしましたが、これらのテーマにそって瞑想の仕方を紹介してみようと思います。


雑念をクリアする方法

いきなりですけども、まぁ、雑念をクリアすることなんて、できませんw シロクマと一緒です。考えてはいけませんと、言われれば言われるほど、わたしたちはそれを考えてしまう。そういう性質です。

ただこれも面白いことに、人間の脳というのはシングルタスクですので、一度に複数のことを同時に考えることができません。ですから、敢えて脳に一定の割合の負荷をかけるのです。何かに集中すると、それ以外のことは必然的に考えられなくなります。単純作業を繰り返していると、ふっとフロー状態に入ったりしたことありませんか?とにかく、壁のシミの1点に集中するとか、ひたすら歩くとかでもいいんです。ただし、それ自体が雑念になっては意味がないので、できるだけ単純作業の繰り返しをものすごく集中して行うのがよいです。歩くにしても、足の運び、手の動きひとつひとつに集中します。右足を前に出して踵から地面に接触して、じんわりと土踏まずから親指に向けて体重が移動してゆくさまを筋肉や骨の動きまで意識するように歩くのです。

よく昔の物語でお寺の小僧さんがホウキで庭の落ち葉をひたすら掃き続けたりしてますよね。あれは、見習いが奉公しているわけではなくって、瞑想の前段だったのではないかとわたしは思います。単純な所作の繰り返しによって、脳はそれ以外のことが考えられなくなるのです。

呼吸を整える

おすすめは呼吸です。呼吸の仕方にはいろいろありますが、だいたい共通点を見ると、、、ゆっくりと数を数えながら呼吸をします。10数えながら息を吐ききる。吐ききったら息をとめて更に2つ数える。今度は、すうっと勢いよく2つ、3つ数えながら息をヘソの下にめいっぱい吸い込む。吸ったら息をとめて更に2つ数える。そしてまたゆっくり吐く。。。だいたいこのタイミングで呼吸をくりかえします。体調であったり、その時の感覚でゆっくりカウントしてもいいし、ちょっと早めでも良いと思います。とにかく心地よい程度に一定のテンポを繰り返すということが大事です。しっかり息を吐ききることで、より多くの酸素が取り込まれ、頭のてっぺんから指先まで、体中に血流が行き渡る感覚が得られると思います。

呼吸は鼻でするのがいいのか、口がいいのか、両方か、こだわる人もいるようですが、わたしはどっちでもいいと思います(適当ww)ただこのとき、鼻の奥というか、喉の奥というか、ここの空間を大きく開いて呼吸をするのがよいです。ちょうどあくびをするような感覚でしょうか。

頭、心、腹は背骨に沿って並んでいる

前回、わたしたちが「自分」を意識するのは、頭、心、腹の相関だといったような話をしました。ヨガなんかを学ぶと、チャクラなるものが7つあるみたいな話を耳にすることもあります。身体に対して鈍感な現代人の代表であるわたしには、この7つもの部位を意識することはできないのですが、古の偉人は自分の身体を7つの部位により繊細に意識していたのかもしれません。ただ、面白いことにこれらの部位は全て背骨にそって並んでいます。これは人間の生物としての神経伝達が背骨を伝って作用しているということと無関係ではないように、わたしは思います。少なくとも、頭、心、腹を意識するとき、これらがより自然に作用する状態を作り出すことはとても大事ではないかと思います。

このことから、瞑想をするときの姿勢についても少し書いておきます。とにかく背骨が真っ直ぐになるように意識することが大事です。あぐらをかくときには、背骨はどうしても曲がってしまいますので、おしりに座布団を2つ折にしたくらいのクッションを敷くと良いと思います。すると、背筋が無理なくまっすぐに伸びます。座禅道場なんかにいくと(わたしは行ったことないですけども)、おしりに敷くようの小さなクッションなんかがおいてあったりするのではないかと思います。

姿勢については、頭からハチミツをすーーっと垂らして身体にまっすぐ行き渡るイメージとか、空から糸でつむじを引っ張られているイメージとか、いろいろ言われますが、つまりは背骨の配置が大事だということではないかと思います。体全体の筋肉を弛緩させ、全ての体重がすとんと背骨にまっすぐ乗っかっているようなバランス状態を意識的に作るのは意外と難しいです。このようなバランスを精緻にとるために、事前にストレッチをしたりヨガのポーズをとったり、ゆくゆくは適切な身体トレーニングが必要になるのでしょう。

身体の反応を「観る」

これが一番言語化が難しいです。雑念をクリアしたいというだけであれば、静かに座って呼吸を整えるだけでも充分な効果は得られると思いますが、より自身の身体の反応を観る。わたしたちは「自分」という意識を何を持って信じているのか。。。それを感じるためにはもう少し「思考」のさざめきを意識する必要があるように思います。

思考というのは、水面の波紋のようなものです。一度波紋が広がるとそれを鎮めることは簡単ではありません。。。この思考をいったん止めることが、頭、心、腹がそれぞれどのように反応しているかを感じる一歩だと思います。一度、思考が止まった次の瞬間に、それぞれの部位がどのように再起動しはじめるかの微細な初動を観ることができます。

とはいっても、思考をいきなり止めることは難しいので、まずは、流れるがままに観察することです。「不動」というのは動かないことではなく、水面がさざなみだっていても、深海の水は静かに動かないように、軸を据えることだといった話を聞いたことがあります。これと同じように、自身の心や頭に浮かぶ感情をまずは浮かぶままに観察しましょう。それを10分なり、15分なり、成り行きに任せられればそれでよしとしましょう。簡単そうですけども、10分ただじっとしていることは相当難しいと思います。

思考を意識的に止めてみる

これができるようになったら、思考を意識的に3秒止めてみましょう。3秒です。これ気が遠くなるほどできませんから、1秒でもいいです。オススメは、まずは上述の要領で、単純作業を繰り返します。1、2、3。1、2、3。という3カウントを声に出して繰り返します。波紋を鎮めるように次第に、声を止めて心のなかで静かにカウントを続けます。(1、2、3)。(1、2、3)。。。そして思考がカウント以外何もなくなったところで、カウントしているという意識すらも止めます。(。。。)。ちょうど3カウント分でよいです。まったく何も考えないという状態を一瞬でも作れることができればそれでよいです。できるまで、何度かこれを繰り返してみましょう。

このとき、あなたの頭の思考、心の動き、外的な感覚がどのように動くか、味わってください。

怒っているとき、不安が募っているとき、あるいは興奮で他に何も考えられないとき、、、この方法で一瞬でも思考を止めてみてください。「自分」という意識が永続しないことを感じることができると思います。わたしたちがいつもずっと自分だと思っている意識というのは、実は連続した実体ではなく、瞬間的な断片の集積だと気づくと思います。こういった怒りや不安、喜びなどの感情は、水面の波紋のようなものです。前の波紋に影響して、次の波紋が反応するのです。今この瞬間の「自分」は、過去の「自分」の波紋に反応しているだけで、同じ「自分」ではありません。

「自分」ってなんだ

自分ってなんでしょう?この定義がなされないまま、自分は存在するとかしないとか一生懸命議論しても意味がありません。より生身の体験を味わうことです。苺の味を知るなら、学ぶより食べるのが1番です。わたしは1つの確固たる「自分」といった実体は存在しないと感じています。これらは、自分と自分以外との相対的な関係性の上に起こる概念でしかないからです。では、「自分」は存在しないのかといえば、そのような関係性のことを「自分」と定義するのなら、それは存在しているとも言える。なんだか、煙に巻いたような言い方ですが。。。

インターネットは存在するか?これ考えたことあります?w インターネットって、ひとつひとつのサーバーが回線でつながっているだけの、巨大なネットワークのことを言います。じゃ、インターネットの実体ってなんだっていったら、ネットワークのケーブルであったり、それをつなぐルーターであったり、データを集積するサーバーであったりです。では、ケーブルがインターネットか?といえば、違いますよね。サーバーがインターネットか?といえばやっぱり違います。インターネットって目に見える形では存在してませんけども、物体としての物は確実に存在しています。

「自分」とは何か?ある人はケーブルを指して、ある人はそれをつなぐルーターを指して、ある人は末端のサーバーを指して、ある人はネットワークの総体を指していたりします。要するにインターネットを知るには、なにはともあれ使ってみることです。それをせずに「自分」探しをしたところで、自分などというものは見つかりはしません。

全てを観ることは何も観ないこと

瞑想をするときに、目を開けて瞑想するのか、目を閉じるのがいいのか、これも諸説ありますが。。。わたし自身は視覚情報に弱いらしく(集中できない)あまり得意ではないのですが、目に見えているもの全てに注意を払って、目に映るすべてのものをありのまま観察しているとき、見えている全ての景色を自分の広がりのなかに感じることがあります。人間は身体的に、生の情報を切り取って「一つのこと」にしか集中できないので、全部を見ようとした時に何も観ていないのと同様に、景色が意識に溶け込むようなことがあります。

これは「音」でも同じです。全ての音を聞くと、世界が拡張される。わたしは目は閉じて耳に集中することが多いのですが、音も同じように、わたしたちの身の回りでは実は色んな音がなっています。耳を済ませると、時計の針、冷蔵庫、エアコン、鳥のさえずり、虫の声、風に擦れる草や葉の音、あらゆる音がそこにはあります。でも、普段は脳が取捨選択をして聞こえないのです。これら一つの音に集中するのではなく(時計の針の音だけに集中してしまうと気が散ってしまう)、全ての音に集中すると、音は消えます。

文字通り見える・聞こえる全てのものをすべからく観察すること。すると、観ているもの聞こえているものが全て消えます。わたしの意識が拡張され世界の中に溶け込んでゆきます。このような状態で、あなたの五感が何を受け取り、どのように神経伝達され、心が反応しているのかを味わいましょう。

生身の体感

現代社会では、生活のほとんどが商品化され、また情報化されています。体験はサービスに代替され、喜びや悲しみもまた定量的に評価し、評価されているのです。もちろん社会のしくみを学ぶこと、より善い社会を作るために行動をすることはとても大事だと思います。でも同時にわたしたちは、「正しさ」の中に存在するロジックではありません。そこにある、温度、感触、匂い、そしてキラめきを感じていますか?

あなたが生きている実感は過去にも未来にもなく、今この瞬間の生身の体験にこそあります。

多くの心ある人々は「社会を良くしよう」「自分にできることをしよう」と生き急いでいます。ただいまいちど、立ち止まって問うてほしい。そこにあなたは生きていますか?

りなる



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