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それそのもの - 分別された世界のカタチ

映画館のスクリーンに写った女性の長い黒髪をながめてふと想う。白いスクリーン上で風になびく美しい黒髪は白いのか黒いのか?

小さい頃、そんなことぼんやりと考えたことがある。

スクリーンに注視すればそれは白になり。映し出された髪を眺めるとそれは黒になる。実際にはただスクリーンの白だけがあって、相対的な色の濃淡を錯覚しながらビジョンを描き出しているにすぎない。

この相対的なビジョンから離れて、絶対的な「白」そのもので世界を描きだしたらどうなるだろう?すると、世界は全くスクリーンだけになってしまう。目を閉じても開けても、濃淡のない純粋な白一色の世界、、、それは盲目であることと変わらない。視覚を認識することができなくなる。そこにはもう「色」という概念すらなくなってしまう。

そんな思考実験にひとりゾッとした。

色だけではなく、あらゆるモノやコトに対して、ひとは「それそのもの」をそれそのものとして認識することができない。

相対的な「対」を生み出し、その「差」に名をつける。高いとか低いとか、大きいとか小さいとか、美しいとか醜いとか、正義とか悪とか、戦争とか平和とか。。。私とかあなたとか。そうやって「それそのもの」を分別することで、世界を「分かった」ことにする。そうしなければ認識できないのだから。分かつことのない「それそのもの」を分かることはできない。

分かるとは、分別すること。

それは逆に、認識できているあらゆるものは、つまり「分別」から生まれた二項対立の差異でしかないのだ。白いスクリーンに映し出された黒髪を見て黒いと思い込むのと同じなんだ。

一切皆空 ーーー つまりこれが、いつなるものの「道」であり、つまりこれが、「マクタブ」に書かれたところであり、「アラー」であるのだと思う。世界にある数多の思想は「それそのもの」を示唆するバリエーションなのだとわたしは思う。

ところが、このような言葉を用いることで、新たな誤謬を生む。「空」とは「空でないもの」を暗黙的に生み出してしまう。「道」とは「道でないもの」を生み出す。「アラー」とは「アラーでないもの」を分別してしまう。「それそのもの」に名を付けたとき、「それそのもの」でなくなってしまう。

だから、これらの言葉は真理を正しく表現していると思う一方で、そこから遠く的を外している、とも思うのです。

マクタブ。さて、このような世界観で世の中を眺めると、また日常の見え方が変わってくるのではないだろうか。

平和を求める声がする。戦争は悪いものだ、こんな悲劇は決して繰り返してはいけない、そうやって悲惨な記憶を後世に残そうとする。その活動は清く正しいしのだけれど、平和はまた平和でないものを生む。平和という概念が存在している限り戦争という概念もまたなくならない。すると戦争の根絶とは、わたしたちの記憶から手段そのものの発想がなくなったときにはじめて訪れる。それはつまり戦争でも平和でもない、日常それそのものの美しさの中にしか起こらないということ。

また、現代人の多くは「自分らしさ」を探している。でもね、自分とは白いスクリーンに映し出された黒髪のようなもの。自分とは「自分ではないもの・ではないもの」なのだ(ややこしいw)。濃淡の差でしかないと同時に、自分ではないものによって自分が分別されているということ。自分らしさとは自分の外に求めてもないし、自分の内に求めてもない。それは自・他の線引をどこに置くかというの分別のなかに起こっている。

りなる



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