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だって、たいていみんな「いい人」だから

ほとんどの人は本質的にかなり善良だ

ルトガー・ブレグマン

わたしにとってこの言葉はかなり衝撃的なものになりました。それは、これまでわたしが人の善良さを疑っていたという意味ではなく ーーー むしろわたしは人は性善でも性悪でもなく、多様な人生の表層的な一面だという立場をとっていると思っていた。にも関わらず、無意識のうちに偏った思考を抱いていたことに気づかされたからです。

人は相手との距離が近ければ近いほど目の前の人に直接的な危害を加えることができないと、ブレグマンは言います。戦場で敵を目の前にして狙撃できる人間などほとんどいない。実際に、戦場で銃を発砲する人間は少ないのだそうだ。狙撃するにしても、わざと頭上高く外れるようにしたりもする。自分が戦場で銃を手渡されたと想像してみてほしい。あなたはいくら敵国が憎いからといって、目の前の人間を撃ち抜くことが本当にできるだろうか?ほとんどの人はこう考える、他人はそうしたとしても、わたしにはできない。

わたしは以前、スビルバーグ監督の渾身作『プライベート・ライアン』を見たとき、もし自分がその立場にたったなら、きっと上官に黙って狙撃したフリをしているうちに自分が打たれて死ぬんだろう、なんて想像をしていた。

つまり、(敵兵や他のみんなはできるだろうけど)わたしにはできない、と感じていた。自分にはできないのに、なぜか他人はそうするだろうと信じている。

映画:セブン - ラストシーン

わたしの嫌いな映画にデヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』という映画があります。矛盾するようですが、この映画とても良くできていて「すごく面白い!」んです。でも、わたしは大嫌いwww なんで嫌いかっていうと、ストーリーに救いがないから。映画はやっぱりハッピーエンドがいい!そうでなくとも、悲劇の先にどこか希望がなければいけない、とわたしは勝手に映画とはそういうものだと思っています。(ネタバレ注意→)映画のラストシーン、自分の妻が綿密な犯罪計画を完遂するために殺されたことに逆上して、犯人に銃口を向ける主人公。一連の連続殺人は犯人にとっての作品であり、最後に犯人自身が殺されることで完遂する。主人公は警察官なのですが、警官としての職務をまっとうする(犯人を生かしたまま逮捕する)か、妻への恨みをはらすために犯人へ復習をする(犯人の思惑どおり犯罪が完遂してしまう)かの二択を迫られるのです。これは社会的人間としての善性が、人間の本能である大罪を制圧することができるのかという究極の選択の物語です。

でも、待ってください。このストーリーに救いがないのは、観ているわたしたち観客の共通理解として、人間の本能は性悪(妻の殺害に逆上して犯人に復習したいと思うのが人として当然)であるという前提が成り立っているからです。

でも、さきほとの戦場の話からすれば、こんなことは「実際には起こらない」。たぶん大抵の普通の人にとって究極の選択になんてならない。にも関わらず、主人公に共感し、そこに救いのない多くの人がその結末に絶望を感じた。

人間の本質は性善でも性悪でもないという中立な立場をとっている(と思っていた)わたしですらもが人間の本質は性悪なものである、という観念に暗黙的な同意をしているからではないのか。

進撃の巨人 - サシャの父

(ネタバレ注意→)進撃の巨人というアニメがあります。物語の終盤サシャという主要なキャラクターのひとりが死んでしまうのですが、そのお父さんが娘の仇である敵兵の少女と対面するシーンがあります。わたしの最も好きなシーンのひとつです。お父さんは仇の少女を森で迷子になった子に例えて、やむなくしたこととその敵兵少女を赦すのです。迷いの森から救い出す(過去の罪や憎しみを背負う)のは大人の責任だと。これが人間の善性にみられる気高い振る舞いとして感動を呼びます。その刹那、またたく間に局面が反転し、その場に居合わせたまったく無垢でおとなしい少女が自分の大好きだったサシャ姉さんが殺された事実に逆上し、赦されたと思っていた敵兵の少女にナイフで襲いかかるのです。。。

このシーンもまた人間の善性は必ずしも万人には響かず、人はこうも不幸な殺戮の連鎖を繰り返してしまうものだ、、、という非常に示唆に富んだ物語になっているのです。

ところが、これもたぶん実際の戦場では「起こらない」。目の前の人間に対して人はそこまで凶暴にはなれない。誰かを身近に感じるほど人は他人を赦してしまう。このシーンにどうしてわたしはこんなにも感動を覚えるのだろう?

そんなことは起こらない

セブンにしろ、進撃の巨人にしろ、人間の本質には隠しきれない性悪な部分が潜んでいて、それを顕にすることが、わたしたち生きている人間の贖罪であるかのような思いを抱いている。たぶんそれは暗黙的に。。。だから、わたしたちは人間の汚れた素行を描く物語ほど、そしてその素行を悔い改める行いに、尊さを感じたりするのではないか?

でも、繰り返すけれど、おそらく実際の悲劇の舞台にわたしたちの誰かが立ったとしてもそんなことは「起こらない」。だって、周りの人間はたいていみんな普通の「いい人」だから。

わたしたちがこれらの物語に感動し、称賛を送るのはなぜだろう。もしわたしたちが曇りなき目で、または素の心で物語を見ることができたら、これらのシーンは「自分には当てはまらない荒唐無稽なおとぎ話」だと、一笑に付して終わったのだろうか。。。それだけに、とても根深い。根深いとわからないほどに。

100年後、1000年後の子孫が、そんな暗黙の前提のない子孫たちが、現代の映画やドラマを振り返ったとき「昔の人達はどうしてこんな展開に共感を覚えることができたのだろう?」と、不可思議に思うのかもしれない。現代に生きるわたしたちはひょっとすると世界をとても歪んだ目で見ているのかもしれません。

もちろん、人間の行動には善行もあれば耳をふさぎたくなるような悪行も存在している。そういう存在も否定はしないけれども、大抵の場合は、世の中に救いようのない悪と、そこに光を当てる善が存在するといった、はっきりとした二項対立の構図のほうがむしろ「スパイダーマン」や「スーパーマン」のような特別な世界の話なのだ。いま一度、希望を持って、そして素の心で改めて見つめ直そうと思っています。周りの人はたいてい普通で善良な「いい人」なんだってっいう事実を。

りなる



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