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日本に適したリーダーは、「テゲテゲ」がいい

欧米にみる強力なリーダー像

大学卒業後、米国の小さなWeb制作会社で仕事をしていたことがある。そこには、わたしと同じくらいの学生あがりの従業員がいた。ある日、その同期が突然社長に不満をぶちまけ始めた、あなたの経営方針はここが不適切であれが不満であれこれこうすべきだ!と。しかも、結構な勢いで。。。ボスにそんな勢いで食ってかかる(食ってかかったようにわたしには見えた)ことなど日本ではありえなかったからほんとに面食らった。ところが社長はそれを意に介するようでもなく、ひとつの意見として反論をしていた。その時の会話のどちらに分があったかなんてことは、今となっては全く覚えてないけれど、反論する方もされるほうも意見を聞き、尊重するという授業で習った実例をまさに実際に目の辺りにした。そのときわたしは、「これこそが、ディベート文化なんだ!」とはっきり感じたのを覚えている。

米国には、様々な人種だけでなく様々な意見をもった人たちがたくさん集まっている。そしてその多様性を受け入れる素地が文化の中に備わっていて、その多様性を個として認めあうためにディベートの練習もするし、個を守る権利が重要視される。さまざまに意見を持った人たちだからこそ、それを取りまとめるための魅力的なビジョンを描けるリーダーが必要であり、またそのリーダーを個として最大限尊重できる文化がそこにはある。ジョブスのような人が現れそれを最大限に実現化する素地をアメリカン・ドリームと呼んだりもする。それはカッコよく魅力的で日本人がみてもちょっと真似てみたくもなる。

強力なトップダウン型組織は日本にそぐわない

そういったリーダー像に憧れて、そして欧米のリーダーを参考にして、日本でもリーダーシップ論や組織論が語られるようになった。しかし、いっこうに日本には魅力的なリーダーが現れてくれない。現れてもすぐに消えてしまう。日本には優れた人材がいないのだろうか?それとも社会が悪いのだろうか?結論から言えばこれは文化の違いからくる誤解が招くミスリードではないかと思っている。日本には欧米のようなリーダーが「現れない」のではなく、「適さない」のだ。

日本のワンマン社長率いるベンチャーでのできごと。ある従業員が社長に対して意見を述べたところ、軽い言い争いになった。その意見はまったく妥当なものだったし、社長もおそらく自尊心をちょっと傷つけられた程度のことで話の内容は大したものではないはずだった。ところが、この問題はこのあと会社で大問題となり、その従業員は解雇寸前まで追いやられ、この問題が解消されるまで腹を立てた社長はその後3日間会社にすらこなかった。。。従業員が社長に対して意見をするとは何事だ、反抗的な態度はけしからん!という、意見の論点とまったく関係のないところが問題になった。

器量の小さい社長だ、と片付けてしまえばそれまでだけれど、問題はもっと根深い。欧米式の強力なリーダーシップ論に見習いトップを走っているものの、堂々とした態度やパワフルな言葉だけに魅せられていないだろうか。従業員の側にもトップダウンの指示を許容する準備がないし、社長側にもその反発を許容しそれを感情論ではなく理論で矯正していくスキルが育っていない。つまり上述のようなディベート文化が全くないのだ。欧米に強力なリーダーがいるのは、個の意見を活かし多様性を許容するための教育があり文化に育まれたもの。日本に優れたリーダーがいないのではなく、むしろそれは土壌の違いなのだ。後述するが、そもそも強力なリーダーシップは日本の文化にはそぐわない。そうだとするならば、必死になって欧米諸国の組織論やらリーダーシップ論を取り入れようとすること自体が理にかなっていない、ということにそろそろ気づくべきなのだ。

「テゲテゲ」のリーダー像

かつて司馬遼太郎さんが、日本のリーダーシップを薩摩の言葉を用いて「テゲテゲ」が良いと語っていたのを思い出す。テゲとは大概といった意味で、リーダーは大雑把な指針を示すのみで、あとはチームが細かい連携を能動的にとって機敏に動くというもの。わたしはこれが日本のリーダーシップのあるべき姿だと思っている。

テゲテゲなリーダーが存在できるのは、日本の文化の特性によるところが多い。いっせいのせ!というだけで、全員が同じ歩幅で目配せをしながらなんとなく同じ方向に一歩を踏み出せるのが、日本の文化なのだ。一昔前から羊の群れだとか揶揄されるようになってしまったけれど、ことチームワークにおいてはありえないほどの俊敏性を生む。これは、やれといってできるものではなく、小さい頃から育まれた文化のなせる技である。奇跡といってもいい、日本の強みである。

大手IT企業の日本支部でのできごと。システム企画段階で、5人ほどのエンジニアで編成されたチームで仕事をしていた。それぞれの専門分野に業務分担をし順調にタスクを消化していたある日のこと。プロジェクトも終盤になってくると、想定外の事象やちょっとしたタスクの「狭間」が生まれたりする。細かすぎて業務分担の範疇からはみ出てしまったようなタスクだ。例えば、赤い色のタスクは赤井さんが担当で、白い色は白金さんが担当です。ってことになってたけど、境界線のびみょうにピンクなところは、誰がやんの?みたいなことが往々にして起こったりする。このとき実際わたしのチームで何が起こったか。赤井さんや白金さんだけでなく、青田さんや緑谷くんまで合間をぬってそれとなくピンクを補完しようと動いていた。それも言われるでもなく自律的に!これは日本では当たり前に目にする光景だけれども、海外諸国ではありえないこと。わたしははっきりと海外と日本の違いを認識したし、それに感動すら覚えた。

リーダーの役割が違うことを知る

マネジメントの父とうたわれるドラッカー氏は、日本の文化のなせる企業構造に未来の組織に対する大きな期待を寄せていた。残念ながら、日本はその期待にいまだ応えられていない。それどころか、自分たちの強みを捨て、見掛け倒しのリーダーシップ論に翻弄されて迷子になっているようにみえる。

組織構造やチームの形成は、その土地に根付いた性格に強く影響する。ドラッカー氏自身が日本での成功事例を紹介する際に言及している。日本の成功は日本での基本的な信条と価値観を反映している。そのまま欧米の土壌にもってくるのは不可能だと。これは逆もしかり、欧米諸国の成功事例を特異な日本の土壌にそのままもってくるのは不可能である。

リーダーシップよりも「適材適所」を見直す

文化や国が違えど、その根底にある考えや組織の目的は同じはずだ。どこを伸ばして何を変えるとそれがその組織の成果を最大化できるのだろうか。そのために、まずは自身の強みを知り、違いを見直そう。

欧米型の組織のイメージ
様々な力を持った個をより大きなビジョンで魅了し、同じ方向にベクトルを矯正することでより大きな力を生むのが特徴。

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日本型の組織のイメージ
自律的に同じ方向にベクトルを向けるスキルは個が既に持っている。日本の場合は、むしろ自由度を許容しベクトルを強化するのが特徴。

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このような観点で組織を見たとき、日本で必要なのは強力で魅力的なリーダーというよりも、むしろ組織の成果を最大化するための潤滑油であることが求められる。近年、声が大きいものをリーダーとして昇格させようとする傾向が多くの企業でみられるけれど、これはむしろ組織のベクトルを乱す。日本人にとって組織のベクトルが乱れる理由は大きく2点ある。ひとつは圧倒的にコミュニケーションが不足している場合。2つ目は、リーダーが組織に対しての全体イメージをもてないこと。もともと、周囲の状況を感知する能力の高い日本人だからこそ、改めてロジカルに全体俯瞰をしたり、それを視覚化・言語化することが苦手なのかもしれない。感情論や立ち振る舞いばかりが重視され、組織の成果にたいする分析が上手くできないのだ。従業員のコミュニケーションが失われ、ただ「声の大きさ」に付き従うだけになってしまうと、組織は過剰にかき回されてしまう。ベクトルを合わせるアンテナは既に個がもっているのだから、そのための全体を俯瞰し、適切なリソースの配置を考え、地道にコミュニケーションの橋渡しをするようなリーダーが日本には適している。

出る杭は打たれる

「出る杭は打たれる」これは悪いニュアンスで使われることわざだ。もちろん、日本のこういった右ならえの習慣にもデメリットはある。ほんとうの天才的な異端児は社会から阻害されてしまうことは確かにある。しかし、わたしはこのことわざは日本の強みを活かす教育方針をよく表している思っている。上述したとおり、日本の個が組織や社会に対して発揮する敏捷性は世界でも類をみない。これは日本の古来からの風習や教育のなせる奇跡だといっていい。文化だけではなく遺伝的な違いがそこにはあるのかもしれない。作家の呉善花さんによれば日本文化の特異性は脳構造の違いから来ているとも言われている。出る杭は打たれる、これは社会組織にて敏捷性を追求したときに日本文化がだした教育論の答えなのではないか。文化とは社会のさまざまな問題を解消するために積み上げられてきたもの。米国でディベートの教育訓練があるように、日本にも適した教育や訓練が古来から考えられ施されてきたのである。

同じベクトルを向いたつながり

わたしは学者でもないし、異文化間の風習には疎い。。。ので、あまり「日本」とか「文化」とかいうトピックを扱うのは好みではない。たぶん専門家の観点でみると間違った部分も多いと思う。

ただ、欧米での生活を目の当たりにして、返って日本の「良さ」や「強み」を実感することがあって、加えてその良さを日本人自身が理解していないことに歯がゆさを感じている。また、この複雑化する現代社会において、「個」で完結する活動はほぼ皆無で、好む好まざるに関わらず、なんらかの形で「組織」の一員であることを余儀なくされる。そして、その組織構造はインターネットの発達により今後はいっそう複雑化するだろうと思う。組織をまるで生命体のように自在に、そして俊敏に自分の手足のように馴染めたら、どれだけ楽しいことだろう。そういった中で、自律的に「つながり」を補完しあい、個を全体に適応させる日本の文化はこれからの社会の強み以外のなにものでもないと思わずにいられない。



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