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行動と静観のその間で

なんだか、書きたいことはたくさんあるのだけども筆が進まない。

震災のとき、あのとき感じたことをいま少し思い出している。

行動への羨望

物事をすぐ行動に移せる人がいる。愛を叫ぶ人。声を上げる人。ボランティアに駆けつける人。寄付をする人。目の前の人に手を差し伸べる人。

時代はそんな彼らを賞賛したし、わたしはそんな彼らを羨ましいと思った。

同時に感じた焦燥感。

自分はただ静観するだけの人。情けない自分。

ともすると、目の前で人が死にかけていても、わたしは静観するのだろうか。。。そんな気さえして、ゾっとした。

行動すること

行動しなければ意味がない。

これはひとつの考え方にすぎない。もちろん行動しなければ意味がないこともあるだろう。目の前の患者を救うために奔走すること。経済が破綻してしまわないように動き続けること。ワクチンの開発に乗り出すこと。いずれも、賞賛されるべき勇敢な行動だ。

しかし、行動を起こすことばかりが正しいと考えるのはあんまりだ。

今朝、Facebookに友人の投稿があった。

小さなお店でライブを敢行することに決めた。
飲食店は惨憺たるものだ。。。
自分に何かできることはないものか。

別の友人は言っている。

こんな状況でも自分が出社しなければならない仕事がある。

誰もがヒーロに憧れ、ヒーローであろうとする。

でも世の中のために何かしようと思ったとき、
答えは「行動を起こす」という一択でなくてもいい。

内側の心を見つめ、どう在るかこそが人を人らしくさせる。

ただ在ること、ただ観ること、そこには静寂な心の美徳がある。

わたしたちは、行動をすることでしか成果を見いだせない時代に生き、そのように社会を作り上げてきた。

この数カ月間、世界で多くの人がはじめて「動」「静」の間で揺れている。

いまいちど静かに見つめ直そう。

「しない」という美しさがあることを。

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静止する美しさ

行動をしない中にも徳はあるはずだ。

静観する静けさの中に美がきっとあるはずだ。

誰かの行動や成果を羨む必要はない。

静観しかできない自分を卑下する必要もない。

わたしたちは自分が何者であるかを、その行動と静観のアクションのなかで見定めている。

いま、自分の選択の美しさを感じてほしい。

何もできずにいる不甲斐なさを責める前に、他人を慈しみ非力な自分を悲しむ心の美しさを謳おう。

世界は自分の心が映しだす鏡なんだ。

その中で問い続ける。。。わたしは何者なんだろう。

りなる



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