行動と静観のその間で
なんだか、書きたいことはたくさんあるのだけども筆が進まない。
震災のとき、あのとき感じたことをいま少し思い出している。
行動への羨望
物事をすぐ行動に移せる人がいる。愛を叫ぶ人。声を上げる人。ボランティアに駆けつける人。寄付をする人。目の前の人に手を差し伸べる人。
時代はそんな彼らを賞賛したし、わたしはそんな彼らを羨ましいと思った。
◇
同時に感じた焦燥感。
自分はただ静観するだけの人。情けない自分。
ともすると、目の前で人が死にかけていても、わたしは静観するのだろうか。。。そんな気さえして、ゾっとした。
行動すること
行動しなければ意味がない。
これはひとつの考え方にすぎない。もちろん行動しなければ意味がないこともあるだろう。目の前の患者を救うために奔走すること。経済が破綻してしまわないように動き続けること。ワクチンの開発に乗り出すこと。いずれも、賞賛されるべき勇敢な行動だ。
しかし、行動を起こすことばかりが正しいと考えるのはあんまりだ。
◇
今朝、Facebookに友人の投稿があった。
小さなお店でライブを敢行することに決めた。
飲食店は惨憺たるものだ。。。
自分に何かできることはないものか。
別の友人は言っている。
こんな状況でも自分が出社しなければならない仕事がある。
◇
誰もがヒーロに憧れ、ヒーローであろうとする。
でも世の中のために何かしようと思ったとき、
答えは「行動を起こす」という一択でなくてもいい。
内側の心を見つめ、どう在るかこそが人を人らしくさせる。
ただ在ること、ただ観ること、そこには静寂な心の美徳がある。
わたしたちは、行動をすることでしか成果を見いだせない時代に生き、そのように社会を作り上げてきた。
この数カ月間、世界で多くの人がはじめて「動」「静」の間で揺れている。
いまいちど静かに見つめ直そう。
「しない」という美しさがあることを。
静止する美しさ
行動をしない中にも徳はあるはずだ。
静観する静けさの中に美がきっとあるはずだ。
誰かの行動や成果を羨む必要はない。
静観しかできない自分を卑下する必要もない。
わたしたちは自分が何者であるかを、その行動と静観のアクションのなかで見定めている。
いま、自分の選択の美しさを感じてほしい。
何もできずにいる不甲斐なさを責める前に、他人を慈しみ非力な自分を悲しむ心の美しさを謳おう。
世界は自分の心が映しだす鏡なんだ。
その中で問い続ける。。。わたしは何者なんだろう。
りなる
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