異界酒

夜ってのは縁起が良くて好きだ。
どいつもこいつも酔っ払ってバカやってる。笑って泣いて怒鳴って、お祭り騒ぎを毎日やってるんだから。
そういう訳で、俺はいつものように職場の連中と何軒もハシゴしてた訳なんだが、ついにみんな帰って俺一人になっちまった。で、仕方がないから俺も渋々帰る事にしたんだ。
カツカツ、カツカツ。
明るくて賑やかな繁華街を抜けて、街灯の少ない夜道を歩く。暗がりには誰もいやしない。

俺は酒を呑むのが好きだ。
酔ってる間は嫌な事を忘れられるから、なんて言う奴もいるが俺は違う。純粋に酒を呑んでるって事が楽しいんだ。なにせ俺は、酒を呑んでもさっぱり酔わない。今まで一度も酔った事はなかったし、いくら呑んでも忘れる事ができた試しはなかった。
俺の親父は酒の飲み過ぎで死んだ。俺と違ってよく酔っ払っていた。その癖にある日一日中酒を呑んで死んじまった。もしかしたら忘れたい事でもあったのかもしれないが、まあどうでもいい。


住んでるボロアパートの近くまで来た。
周りにあるのは小汚い空きビルとか腐った商店街とかそんなんばかりだ。
この辺はいつもは暗くてつまらない。だが、今日は違った。一つだけ、たった一つだけ、明明とした光が漏れる扉があった。
いつも通る道の傍にいつもはない明かり。俺は思わず近づいてみた。
「イカイザケ?」
扉にはそう書いてあった。なぜか聞き覚えがある。たしか、最近見たオカルト雑誌に書いてあった気がする。普段はない筈の扉から明るい光が漏れていて、中には不思議な呑み屋があるとか、ないとか。
まさか本当にあるとは。信じられない気持ちとはこの事だろう。雑誌の記事の内容はあまり見てなかったが、俺は好奇心で扉の前に立った。音は何もしてなかった。
そっと、静かに扉を開けた。
恐れてた訳でも緊張してた訳でもない。そうするのが普通だと思っただけだ。


《あら、いらっしゃい。ようこそイカイザケへ》

カウンター越しに迎えてくれたのは羊の頭がついた人間だった。ついでに言うと他に客はいない。

《見たところ、あっちの世界の人みたいね。最近よく増えてるのよ》

店の造り自体は現実でもよく見かけるカウンタータイプだが、中に置いてあるものは全く見たことが無いような異形な物ばかりだった。
俺はその空間についつい飲まれていた。

《こっちに座って。どんなお客さんも大歓迎よ》

不思議な声に促されて俺は椅子に座った。
メニューらしい文字はどれも読めなかった。
が、せっかくだから頼む事にした。

「えっと…一番安い酒を」

《わかったわ。でもごめんなさいね。こっちのお酒はあなた達が飲んでも酔わないの》

「いえ、お構いなく。生まれて一度も酔った事はないですから」

店主の声に俺はどこか安心感を感じていた。
羊頭の変な奴の声が、穏やかで優しい声に聞こえた。
店主は後ろの棚から容器を取り出すと、コップに濁ったピンク色の液体を注いだ。当然、見たことの無い酒だ。
俺は何を思う訳でなく黙って酒が注がれるのを見ていた。

《どうぞ、お口に合えば良いんだけど》

酒に口をつける。
ドロっとして、シュワシュワして、甘くて苦くて、酒臭い。
不味くて気持ちの悪い酒だ。が、飲めない事はない。むしろどんどん飲みたいくらいだ。
気づいたらコップに注がれた分を全部飲み干していた。

「悪くないもんですね。いつも飲む酒よりずっと楽しい」

《そうなの?それは良かった。普通は一口飲んだら吐き出すのに…あなたって変わってるわ》

「そう…ですかね?……もう一杯いただけます?」

不思議な気分だ。
体の底が温かい。見える世界が揺れている。
楽しいと言うよりも、気分が良い。

《あなた、酔っ払ったんじゃない?》
《ふふ、面白い人ね》

店主はそう言いながらさっきの酒を注いできた。俺はコップで受け止める。
ドロドロ、シュワシュワ、あまあま、にがにが…これが酔いなのか。
よくわからない気持ちで、また飲む。




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