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許すことが増えた時、人は大人になる。

人はみんな主観的な世界の中で生きている。どんな物事を見るときも、どんな体験をするときも、どんな経験をするときも、自分の主観的なパラダイムを通して物事を解釈している。なにか選択をするときも、決断を下すときも、そこには必ず自分自身の存在があり、自分を通さずして物事を解釈することはできない。

主観的な因果から逃れることは誰にもできない。でも、何事も主観的な目線で解釈していればいいわけでもない。人が生きる社会や文化、人間関係の中には主観的に解釈していれば痛い目を見るときがある。特に人間関係においては、主観性はお互いの絆を断ち切り、争いの火種となってしまうことが多いのだ。

ストレスの感じ方が一人ひとり違うように、日常生活で体験する出来事から感じることも一人ひとり違う。ある人はカフェの店員の笑顔に癒されるかもしれないが、別な人はその笑顔が憎たらしくて仕方がないかもしれない。大人数で集まって騒ぐことに幸せを感じる人もいれば、集団行動が苦手でなるべく一人で行動したいと思う人もいる。

人間はみな同じ構造上の生き物であり、脳の機能や筋肉の神経伝達も同じだ。でも、一人ひとりの感性は大きく異なっており、誰一人として同じ感性を持っている人はいない。それと同時に、自分が持っている主観的なパラダイムも自分唯一のものであり、自分が生まれてから成長を通じて少しずつ構築していった主観的な世界は、まったく同じ感性を持った人間がまったく同じ経験や体験をしているはずがないのだから、本質的には誰も自分の世界観を理解することはできない。

にも関わらず、人は他人のことを少し話しただけで理解した気になり、友達になれば誰よりも相手のことを知ってる気になる。しかし、友達の好きな食べ物や異性のタイプ、仕事や住んでいる場所、趣味や免許の有無、給料や毎日の習慣について知っているだけで、友達のことを理解したとは言えない。他人のことを本当の意味で理解できるのは、本人以外には存在しないのだ。

自分と他人との世界観のギャップ、感性の違い、思考の差こそ、人間関係をぶち壊すものなのだ。自分の正義は他人の正義ではない。主観的な意見の押しつけが他人にストレスを与える。意見が違えば「そういう考え方もあるね」と言えばいいのに、「それは違う」と脊髄反射的に否定的な意見を繰り出す。自分の行動の正当性を実感したいがために、自分と違う行動習慣を持つ他人に対して上からマウントをとる。

人間関係は大切だ。とても大切だ。でも、だからといって、主観的な意見ばかり押しつけてくる相手と無理に付き合う必要はない。他人の主観性ばかり浴びていれば、次第に自分らしさが腐敗していき、気づけば他人の意見なしに行動することができなくなってしまう。世界観の腐敗は自己肯定感の欠如にもつながってしまう。

人は自分の世界観に没入し、自分が楽しさや幸せを感じることだけをしていればそれでいいのだ。自分の世界観を押しつける必要もないし、他人の世界観に染まる必要もない。主観性はその定義からして、他人を一切排除するものなのだ。社会の中では主観性は争いの火種になることがあるが、自分の人生の中では決して失ってはならない宝物である。

主観性を発揮すべきところと発揮すべきではないところをわきまえ、他人の主観性に侵食されず、だけど自分の主観性を押しつけたりせず、同じ人間であり別の人間である人たちと共にうまく生きていこう。人は、許すことが増えた時に大人になるのだ。

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