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【ポエム日記 11】足りないものなんて何一つなかった。

 

昔からずっと「何か」が足りないと思っていた。普段から自分がやっていることや考えていることに納得したり満足したりすることができず、常に「何か」が足りないと感じていた。それが人なのかモノなのか欲求なのか感情なのか、自分に足りないと感じている「何か」が「何なのか」がずっとわからずに生きていた。

でも、最近やっと一つの答えにたどり着いた気がする。それは、はじめから「足りないものなど何一つなかった」ということだ。自分は今まで生きてきた人生の中で、とても大きな思い違いをしていた。

「自分には何かが足りない」と、いつも納得できず満足できず満たされない日々を過ごしていた中、自分がたどり着いた答えがこれだ。つまり、自分はまず問いの前提が間違っていたのであり、本当は何一つ足りないものなど存在せず、欲しいものははじめからずっと手にしていたということである。

自分と徹底的に向き合って見つけた、自分が本当に欲していて求めていてすでに手にしたもの。それは「生」そのものだったのだ。

自分が長い間探し求めていたものは、暴飲暴食から得られる満足感でも、セックスから得られる快感でも、家族や友人と騒ぐことで得られる充実感でもなかった。他人から認められることで得られる承認欲求でも、安定した生活から得られる安心と安全の欲求でも、たくさん寝ることで得られる睡眠欲の充足でも、恋人をつくることで得られる愛情欲求でも、理想の自分になりたいと願う自己実現欲求でもない。

 最近、社会の中では「やりたいことをやりましょう」「好きなことを見つけましょう」というイデオロギーが蔓延しているが、自分が求めていたのはやりたいことでも好きなことでも、そこから得られる生きがいという感覚でもなかった。探し求めていたものははじめから存在せず、生きているだけですでに手にしていたのである。

そもそも求めているものが存在していないのだから、いくら探しても見つかるはずがなく、その前提から間違っていることに気づかずに自分は今まで生きてきた。そんなバカな自分にコペルニクス的転回をもたらしてくれたのは、日課の散歩である。

自分がずっと探し続けていたものが、近所の川辺を散歩しているわずか30分のあいだに見つかったのだ。散歩は歩くことにより、脳内にセロトニンなどの神経伝達物質を分泌させ、気分を高揚させ幸せを感じやすくさせるという。これは科学的にも明らかになっていることであり、散歩から得られる効果は躁うつ病や精神疾患の患者にも有効な治療法だともいわれている。気分転換に散歩が効果的だといわれているのも、こういった科学的な背景があってこそなのだ。

そんな散歩から自分が得られたものは、今までずっと探し続けてきたもの。

ただ生きること。

それだけで自分は満足なのだということ。SNSウケする豪華な食事も、おしゃれでカッコイイ服装も、他人に自慢できるような家もいらない。生も死も、幸も不幸も、痛みや悲しみも、苦難や労苦も、何もかも関係ない状態。禅の文化でいう「悟り」「無意識」「無我の境地」というものである。

こうした考えは自分の独自のものであり、決して一般論として他人に押しつける気はない。人はみんな自分なりの考えや思想、こだわりや信念、価値観や幸福感を持って生きているものであり、自分の論理が他人に受け入れられるとも思ってはいないし、逆に他人の論理で自分が納得できるとも思っていない。

そのため、自分は自分なりの答えを見つけようと今まで「何か」をずっと探し求めていたのである。その「何か」が、実ははじめて手にしていたものだと気づくまで、本当に長い時間がかかった。よく、「幸せはなるものではなく気づくものだ」というが、自分の求めていたこともまさにそれだった。

 自分に必要だったのは「気づく」ことであり、「探す」ことではなかったのだ。

人生は自分で意味を見出し、自分で行動し、納得し、生きていくしかない。SNS上で飛び交っている幸福論や生き方論、仕事論や恋愛論を参考にするのも時にはいいかもしれないが、最終的には自分の頭で考えるということをサボってはいけない。今の自分になにかしらの違和感を感じているのであれば、一度ゆっくりと自分と向き合う時間をつくってみてほしい。

 自分はなにがしたいのか。何を求めているのか。どうすれば納得できるのか。

自分のど真ん中にある価値観はなんなのか。信念があるか。人生と向き合っているか。

 これらの問いは、あなたがこれから生きていくための人生の指標となるだろう。

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