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人間にとっての芸術(アート)の重要性。

人間にとってもっとも有意義な人生はどんなものだろう?と自問自答している。

人生の意味を考えることに意味はないのかもしれないけれど、意味のないことを考えることが好きな自分からすればこれは避けては通れない問題だ。

人によって人生の意味や生き方が異なっているのは誰もが知るところだ。みんながみんな人生に対して同じ考えを持ち、同じ生き方をしてるのは気持ちが悪い。人間を含めた生物は多様性あってこその存在だ。その多様性は人類全体の生存確率を高める。

でも、人生に対する考えが一人ひとり異なっていたとしても、人生の核となる部分は誰もが共通しているのではないか、と最近感じる。というのも、詰まるところ人間の人生の意義は「社会全体をより良くすること」「他者の立つこと」なのではないかと思うのだ。

ニーチェはこう言っている。

もっとも喜ばしい運命は作家であることだ。年老いた時、かつて自分の中にあった、人に勇気や力を与え、高め、啓発する思考や感情のすべてが自分の本の中にまだ生きており、もう自分は灰に過ぎないとしても、その火はまだ燃え、広がっていると書くことができるからだ。

ニーチェは神を殺し、現実の残酷さを多くの人に知らしめた。中世から近代まで人々は神の存在を信じ、神に祈ることで人生に対する不安を緩和していた。だが、ニーチェは神は人間が作り出した虚構の存在だとし、神なんか存在しないと述べたのだ。

今まで自分が疑ってすらいなかったものを否定されたとき、人はどうなるだろう?

人間は不安を感じる生き物だ。将来に対しても、人間関係に対しても、現在の状況に対しても、何からしらの不安を抱きながら生きているものだ。でも人間は不安を常に感じながら生きられるほど強くはない。だから人間には神のような存在が必要なのだ。

しかし、性格の悪いニーチェ君によって神は殺され、すがる希望を失った人々はどう不安と向き合い生きていけばいいのだろうか。そこでニーチェが提唱したのが「超人になれ」だ。

ニーチェのいう超人とはスーパーサイヤ人のことでも超能力者のことでも不老不死の人間のことでもない。ニーチェがいう超人とは「芸術に没頭している人間」のことだ。

先に述べた「作家」という職業もニーチェからすれば超人の部類に入るのだろう。ほかにも、音楽家や写真家なども超人として生きるのに適切だといえる。「時間を忘れるぐらい没頭しながら、自分の中にある思考や感情を作品化する」。自分は芸術をそう定義している。

時間を忘れるぐらい没頭できる対象があれば、人間に神はいらない。芸術こそ自分にとっての神になるからだ。日々芸術的営みに没頭し、自分という存在を何かしらの作品としてこの世に残す。神が死んだ残酷極まりない世界で幸せに生きるためには芸術が必要なのだ。

続けてニーチェはこうも言っている。

また本だけでなく、あらゆる人間の行動はなんらかの形で他者の行動や決断、思考を引き起こし、起こるすべてのことはこれから起こることと密接に関係するのだと考えるとき、私たちは真の不死性、運動の不死性を認識する。一つの動きは琥珀に閉じ込められた虫のように、すべて存在の結合の中に閉じ込められ、永遠に残る。

芸術的作品はこの世にずっと残る。たとえ物理的には消え去ってしまったとしても、人の心の中に存在している限り、作品には不死性が宿っているのだ。これは音楽にも写真にもいえることだ。もちろんほかのアート的な作品にも当てはまる。

はじめにも述べたように、人生の意義は「社会をより良くすること」「他者の役に立つこと」だと私は思ってる。とすれば、考えるべきは「どう社会や他人の役に立つか」だ。

この点は思考や感性が一人ひとり異なっているため、自分自身と向き合い、もっとも「自分」を表現しやすい方法で取り組めばいい。やっていて楽しいと感じることで社会や他人の役に立てることほど嬉しいものもない。

アート作品には自分のすべてが投影されている。言葉でも音楽でも写真でも物でも、自分の世界観が投影されている作品は文字どおり「自分自身」なのだ。たとえ99人に嫌われても、1人に愛されるだけで作品には価値がある。だったらその1人のために作品をつくろう。

アドラーは「他人のために生きることが人生を充実させる」と述べた。結局のところ、人生は自己満足的にいかに他人の役に立てるかなのだ。

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