見出し画像

私たちは生きる意味を求め、人生を生きている。

古典を読んだり絵画を見たり、詩を読んだり音楽を聞いたりしていると、人間の悩みは昔からずっと変わらないものなのだと気づく。人は古代からずっと、生きる意味に悩み続けている。アドラー心理学で知られるアルフレッド・アドラーは、「人間の悩みはすべてが人間関係へと行き着く」と述べているが、おそらくあなたも経験したことがあるように、人はなにもなくても悩みを抱えてしまうことがある。いや、なにもしないことが悩みそのものなのかもしれない。

ある日美術館に行き、一時間ぐらいゆっくり歩きながら立派な絵画をたくさん見た。絵画の横には絵を描いた画家の言葉が記されており、その一つに、「自分にとって絵を描くことは生きることそのものだ。絵を描くことが私の人生であり、絵には自分のすべてが詰まっている。絵は私そのものなのだ」という言葉が記されていた。自分は絵を描くのが苦手なので、どうすれば絵に自分自身を投影できるのかはわからない。でも、その画家が言わんとしていることはしっかりと理解できた。

画家は自分の人生を一枚の絵に投影する。芸術家はたいてい自分の作品に自己投影するものだが、自己投影はいわば生きる意味を見出す作業であり、芸術の先には必ず生きる意味が潜んでいるのだ。つまり、生きる意味を探求することは、芸術を探求することと同じなのである。

画家は絵に自分の人生を描く。作家は本に自分の思いを残す。詩人は言葉に自分の心情を紡ぐ。音楽家は曲に自分の感情を乗せる。写真家は写真に自分の世界観を作り出す。ダンサーは踊りに自分の情熱を表現する。スポーツ選手は技術に自分の強さを体現する。

人が芸術に魅力されるのは、そこに芸術家自身の生きる意味が投影されているからだ。そして芸術家自身も、生きる意味を求めて芸術活動に取り組んでいる。絵を描くことも、歌を歌うことも、曲を作ることも、写真を撮ることも、踊りを踊ることも、本を書くことも、ポエムを綴ることも、スポーツを楽しむことも、すべて生きる意味を求めての行動なのである。

現代には昔と比べて、非常に多くの娯楽が存在している。ゲームや映画鑑賞、ドライブや旅行といった娯楽は比較的新しいものであり、産業革命を経てテクノロジーが発展し、最低限の衣食住が保証されるようになってから発展してきたのである。しかし、古代から存在している芸術活動は、衣食住よりも生そのものに焦点を当てたものだった。キリスト教などの宗教が、大衆の不安を和らげる役割を果たしていたように、芸術も生きる意味に悩んでいた人たちに、生きる意味を与えていたのだ。

生きる意味に悩むのは人間にとって自然のことなのかもしれない。当たり前のことだが、人間と動物は違う。人間が生きる意味や人生に悩んでいるときに、自宅で飼っている可愛らしいチワワが「これから先どうやって生きていこう…」なんて考えちゃいない。些細なことを気にかけ、考えても答えが出ないことについて考えられるのは人間だけだ。それゆえ、人間は地球上でもっとも不幸な生物なのかもしれない。

生きる意味について悩むのはハッキリ言って無駄だ。そんなことは終身在職権を得ている頭の薄い大学の学者にでも任せておけばいい。人間に生きる意味なんてものはないのだ。ないのであれば作ればいい。自分が納得できる都合のいい生きる意味を。それを他人に押しつけない限り、あなたの生きる意味は、あなたに生きる喜びを与えてくれる。

人生で大切なのは生きる意味を探すことではなく、自分の人生に納得して生きることだ。そして、その生き方こそが、あなたにとって唯一無二の生きる意味になるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?