西部邁・中野剛志「保守する方が、改革するよりも活力が要る」

 目新しさ、つまり革命や革新、構造改革といった類のものが三度の飯より大好きな連中はいるもので、その典型が維新であったり、小泉であったり、またそういう政治家を支持する大衆であると言えるでしょう。

「新しいものがかっこよくて好き」、「同じことばかりしていてもつまらない」、「古い伝統や慣習に従うなんて真っ平御免だ」と思う気持ちは、僕もいわゆる若者である以上、分からないとは言いません。しかし、同じことを繰り返すこと、それを維持して守ること、それが本当は大事だが難しいのだということは、今の日本政治に改革政党ばかりが残り、保守政党が絶滅してしまったことからもよく分かるなあと思います。

このことについて、西部邁氏と中野剛志氏(以下敬称略)が、チャンネル桜における討論で、まさに述べている箇所があったため、以下それを書き起こしして引用してみようと思います。ご参考までに。


西部:同じことを繰り返すのは、例えば女の問題で言えば、現代の女達は「家事、炊事、おんなじことの繰り返しは退屈だ」、或いはいわゆるキャリアウーマン達が「主婦なんか何さ、おんなじことばっかり繰り返して」といって馬鹿にしている。でもそうじゃない。同じことを毎日繰り返すのはエネルギーが有り余ってるから繰り返せるのだ。新しいことに目移りしているのは、実は生きる活力が乏しいから、何か新しい刺激はないかなってうろうろしているんだ、ということをチェスタトンは言っていた。
(中略)

中野:先ほどの女性の同じことを繰り返す活力っていうのと関係するんですが、これは元の議題である保守っていうものの良い特徴であると思います。というのは、西部先生が(保守主義の特徴として)三つ、懐疑主義(Skepticism)、歴史的有機体説、漸進主義(Gradualism)と挙げたうちの最初の懐疑主義、これと活力というのは非常に関係がある。人間はどうせ能力には限界があるので、全ての議論が仮説にとどまってしまうので、そうすると何をするかというと、延々と議論をすることになるわけですね。
 ところが、私がいうところの戦後保守、馬鹿保守というのは必ず、「理屈じゃなくて実行だ!」とか、「具体的に処方箋を出せ!」、「議論ばっかりしててもしょうがない、井戸端会議ばっかりしててもしょうがない」って、すぐこう言うんですね。ところが先ほどから名前が出てる保守思想家として一流の小林秀雄も、やっぱりそう言うことに対して批判をしていて、何を馬鹿なことを言ってんだ、と。大事なのは飽くなき批評、飽くなき批判精神なのであって、なんでその後に実行、実力行使の段階なんか来るんだ、と。ずーっと批評、批判精神を続けていくその活力が大事だ、と。
 馬鹿保守っていうのはすぐに「実行だ」とか言って、そっちの方が元気がいいような活力みたいに一見見えるんですけども、実は逆だと。TPPなんかでもなんでもそうですよね、先ほどの橋下徹なんかも典型ですが、「議論なんかもさっさとやめて、言ってもしょうがないんだ。学者先生は理屈ばっかり言ってる。自分は実力行使だ」とこう言うんですけども、まあ確かに馬鹿げだ議論ばかりしている学者先生は多いので彼の言うこともわからないでもないんですけども、馬鹿げたんじゃない批評とか批判精神をずっと続けていく活力ってのは大事だと思うんです。けれども、私の場合には保守見習いなんで、本当はそれが大事だと分かっていつつも、あんまり馬鹿な議論ばかり続けられると「うるせえなもうやめろよじゃあ」となってしまうのは反省なんですけどもね(笑)

西部:今おっしゃったことは、この問題に繋がるんですよ。小林秀雄さんが「何言ってるんだ、生きるってことは批評精神、批評活動を家庭の中であれ、紙の上であれ、なんであれ貫くことだ」と(言ったという)その話をさらに延長すると、僕はなんも関心なかったんだけど(笑)、人に見せられたんですよ、橋下市長さんのツイッター、呟きを見せられたから見たら、「学者、知識人なんて酷いもんだ、適当に議論してるだけで何一つ実行力がない、俺は実行するんだ、それが政治だ」と、こう言っている。
 でもここでひっくり返さなきゃいけなくてね、政治の根本といったら何かと言ったら、実は”批評すること”なんだってね。馬鹿げたにわか作りの政策、矛盾だらけの政策で、あれを実行してひっくり返して、とそんなものは民主主義政治ではあたかも政治の表舞台のようになっているけれども、そんなもの政治の中心でもなんでもありゃしない。本当の政治は、例えばこう言う場(討論)であるとか、書物でも良い、雑誌でも良い、こういう場こそが本当の政治である。つまり、言論が即政治であるという認識が、戦後、というか近代知識人になかったんですね。その問題がある。


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