トルストイ 人にはどれだけの土地がいる を考察する

トルストイ

普通私達はモノにとらわれ振り回され、「もっと持ちたい」と思い、「これだけあれば」と安心する。物の所有ということを巡る人類の迷妄は深い。
 その代表的なものは多分「土地」。「領土」といってもいい。これをめぐって、私たちも国家も人類も、古来どれだけの争いや戦争を繰り返してきたか。今でもそんな愚かさから脱却できていない。それは、人間の愚かさというよりも動物の本能である「縄張り争い」に依拠しているのではないか?生存本能であり、そう考えると自然とも言えるのだ。
        
 トルストイの「人にはどれだけの土地がいるか」
 主人公である農夫は、日頃から「もっと広い土地があればなあ」、と思っていた。ある日旅の人がきて、ずっと北のほうに、とっても広い土地を、びっくりするほどの安値で分けてくれる村があるという。そこですぐ出かけてみると、大歓迎され、土地の話を切り出すと、「1日千ルーブルでは・・」という。意味が分からず尋ねると、こういう答えがかえってきた。
 「明日朝、お前は日の出とともに歩き出す。そして欲しいだけの土地を囲いこんだところすべてがお前のものになる。千ルーブルでいい。ただし、あの地平線に日が沈むまでに出発点に帰ってこなかったら、すべてはなしだから、十分気をつけな」。
 聴いたこともない不思議で心躍る話に寝つけない農夫。でも翌朝誰より早く起き、日の出とともに歩き出す。夢心地だ。つい足速になる。と、いい牧場や湖や森がある。欲張っては危ない、と思いながら、ついそっちへ向かってしまう。段々時間がなくなる。それに午後の太陽の足も速い。夕暮れが近づき、もう狂わんばかりになって必死に走る。村人の声援が聞こえた。死に物狂いでゴールイン、「やったぞ、大変な土地を手にいれたぞ」との歓声。でも・・・助け起こそうとすると・・・もう息は耐えていた。・・やがて墓堀人が来て・・結局彼が使うことができたのは、小さな墓地だけだった。
何とも強烈な皮肉で、もの悲しい物語。でもこの主人公の愚かさを私たちは笑い飛ばせるか?物にとらわれ、もっともっと、と満足を知らない私たち。欲望を際限もなく追求しがちな我々。もしかしたら死ぬまで走り続けているのかもしれない。

                   
トルストイはいったいどんなつもりでこの民話を書いたのか。「自分自身に向かって、慙愧の思いで激しく投げつけた」ものではなかったか。 それ以前に彼は「戦争と平和」や「アンナ・カレー二ナ」などの大作で、もう世界の大文豪として、その名声をほしいままにしていた。しかし、その中で、トルストイは「何か重大なことに気づいた。そしてかなりの間、苦悶のうちに陰鬱な日々を送った。自殺衝動も起こるので、刃物を目に触れないようにしておいた」、といわれている。自分は「はだかの王様」であった それから彼の作風がすっかり変わってしまった。その後期トルストイの精神を端的に物語っているのが、先ほど紹介した民話(集)。
 彼は結局何に気づいたのか?それは自分の「内なる空虚」であった。世界中の賞賛や名声に囲まれながら有頂天だった自分。でも気づいてみれば、それらは実にむなしい。過ぎ行く風のようなもの。空騒ぎにうつつをぬかしていた愚かな年月。そこで生み出した作品とて、自分の「はだか」をどうすることもできない。それらは世間を欺く「偽装」の手立てに過ぎない。人間は結局、財産であれ、名誉であれ、そういう「物質的精神的持ちもの」を、いくら積み上げたところで、それで生きることはできない。迫り来る死や病にうち勝てない。それで「内なるむなしさ」を満足させることはできない、と悟ったのではないか。

全作品をゴミの山に廃棄す
 トルストイはそれまでの多くの作品を、「虚偽の芸術」としてゴミの山に捨て去ってしまった。そして書いたのが、「人はどれだけの土地がいるか」、というような分かりやすい警世的。自分の愚かだった過去を、大いなる懺悔とともに、断固決別した。ここまで来るのに、彼の経験した内面的な闘いは、壮絶だったと想像できる。                


心の中に大きな穴が



ものを持つことで、人間の心は満足できないのか?いや、持つことがさらなる欲望をかきたて、迷妄はさらに深くなっていく。どうしたらいいのか?答えは?そしてこれこそトルストイが悩みの中で、ついに達した貴重な洞察。心に大きな穴がぽっかりとあいてしまっている。それはあまりに大きくて深いので、世界中からもう何を持ってきてもそれを埋めつくすことはできない。
大金持ちになろうが、天下を取ろうが、それでどうにかなるものではない。それほど「巨大なる空虚」というものを抱え込んでしまっているから。

創造者の抜けた空虚
それではいったいどうしてそんなみじめなことになってしまったのか、これこそ究極の問題、それは人類が、かつて共にいた創造者である神を、自分の中から追い出してしまったからだ。その神様の抜けたあとの穴があまりに大きく深い、どんな人間でも、どうにもならないさびしさやむなしさ、暗く、うつろで、どうしようもない孤独にさいなまれるようになった。そのために、どんな代用品を持ってきても、それで得る満足感は、一時的、部分的、断片的なものでしかない。この空虚を満たすことはできない。これこそトルストイの偉大な気づきであった。   

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